第6話
笑顔の絶えない食事が終わると、和也は、空いている広間まで自分を連れて行くよう頼み、三人とも付いて来るように言う。
案内された先程と同じくらいの広間の壁際に、紫桜の為に買ってきた大振袖と帯、小物を出す。
着物専用に作られた、黒い漆塗りのハンガーに吊るされたその着物は、部屋の中で一際存在感を放ち、見る者を圧倒する程の迫力がある。
「これは紫桜へのプレゼント、つまり貢物だ。
こんな場所では、君用の着物を
これだけの物になると、着こなせる者は少ないが、君なら見事に映えるだろう。
貰ってくれると嬉しい」
着物を前に、声も出ない三人。
やがて、ゆっくり近付いたあやめが、手を触れずに、着物の周囲を見て回る。
紫桜に相応しい、最も格が高いとされる染め抜き日向紋の五つ紋。
漆黒の生地を鮮やかに彩る絵羽模様には、朱色の鳳凰が描かれている。
最高の素材を用い、熟練の職人が、丹念に、丁寧に、着る者の為に一針一針思いを込めて縫った事が分る作り手の思いの結晶。
検分を終えたあやめが、感嘆の溜息を洩らして告げる。
「これ程の品、本国の宝物庫にすら有りませんよ」
紫桜は何も言わない。
ただじっと着物を見ている。
「・・もしかして、気に入らなかったか?」
あまりに静かなので、少し心配になった和也が尋ねる。
「・・そんな訳ないじゃない。
素晴らしい着物だわ。
一体どれ程の人の想いが込められているのかしらね。
素敵な美術品のように、いつまでもずっと眺めていたい。
そんな着物だわ」
淡々と、小さな声で、語るようにそう告げてくる彼女の声には、
志野も、一言も声を出さずに、遠くの景色でも見るような穏やかな眼差しで、着物を眺めている。
皆が気に入ってくれた事に安堵した和也は、部屋の反対側に、残りの物を出していく。
三つ紋入りの黒の留袖。
同じく三つ紋が入った、薄い青を基調にした色留袖。
其々の前に帯と小物を添える。
少し離れた場所に、100近い反物と、購入した全ての甚平を積み上げる。
最後に、紫桜用の大振袖の少し脇に、普段に着るための黒い振袖一式を出す。
こちらも、同じ五つ紋が入っているが、絵羽模様は鶴だ。
「黒の留袖はあやめに、色留袖は志野に、後から出した紫桜用の振袖は普段に着る用だ。
反物は、必要な物を除いて、村人に分けてやると良い。
甚平は男性用だ。
これも、源を含めた村の男衆に配ってやれ」
「・・あんた、一体どれだけ財産持ってるんだい?
今まで貰ったものだけでも相当だけど、今回は洒落にならないくらいの額なんじゃないかい?
私達までこんなに凄い物貰っちまって、本当に良いのかい?」
あやめが呆然と聴いてくる。
「・・奇麗な着物。
私なんかには勿体ない。
これも姫様に・・」
志野が自分に贈られた色留袖を見ながら、そんな事を言ってくる。
「自分はつい先月くらいまで、金など持っていなかった。
自分一人では、金など幾ら持っていたところで、意味など無かったからだ。
・・何かを贈りたいと思える、大切な人ができて、その者の為に、自分ができる何かをしてやりたくて、そこで初めて、お金というものはその真の意味を持ち始める。
お金を稼ぐ間は、贈りたい相手がそれを受け取った時の笑顔を想像してより励み、目当ての品物を買えた後は、それを渡す時の場面を色々考えて、己の心まで温かくなる。
自分への褒美として、あるいは他の誰かの為に贈られる品物は、それが作られている間は、作り手らの沢山の想いと願いが込められ、商品として陳列されている時間は、それを手に入れたいと欲する者からの憧れと夢に磨かれ、買われた後は、買った者、贈られた者の思い出と共に、長い時を過ごして掛け替えの無いものになってゆく。
自分は、あまり時間がなく、そういう楽しみを省いてしまったが、相手の為に選ぶ際の気持ちだけは、十分に、込めた積りだ。
紫桜だけが映えても、その両脇に控えるお前達二人が普段着のままでは、あまり見栄えが良くないし、何より紫桜が心から喜べない。
二人に買った着物は三つ紋だ。
お前達にしか着れないし、紫桜を命懸けで守り、育ててくれた二人には、十分、それを着る資格がある。
嫌でなければ、遠慮せず、貰ってくれ。
その4つの着物には、セルフ浄化と保存の魔法が掛けてある。
汗や汚れも瞬時に分解、浄化されるし、不可視のシールドが、埃や虫を寄せ付けない。
過酷な環境でも生地が劣化しないから、収納にも困らないぞ」
選んでいた時の事でも考えているのか、穏やかな目で着物を見ながら、そう告げる和也。
「・・お金や能力も凄いものを持ってはいるけれど、和也さんの本当に素敵な所は、こういう、人を思い遣れる所だと、わたくしは、心からそう思います。
二人とも、遠慮せずに、有難く頂いておきなさい。
この着物には、彼の心が込められているのだから」
紫桜が、未だ躊躇していた二人にそう声をかける。
「・・御剣様、お心遣い、有難く頂戴致します」
あやめが、普段は使わない、畏まった言葉でそう告げてくる。
「有難うございます・・御剣様。
大切に、使わせていただきます」
志野が、己の心を整理するかのように、これまでとは若干音色の違う声で、そう話す。
「そうか。
そうしてくれると助かる。
自分はこれで帰るから、三人とも、それを着てみると良い。
着物のサイズは、予め君達の背丈を調べておいたので、ちょうど良いはずだ」
玄関先まで三人に見送られ、和也は帰っていく。
今日はまだ、やる事があった。
それから2時間後、和也はこの島に初めて来た日に立ち寄った、皆が訓練する広場まで来ていた。
赤い満月の日まで、あとちょうど1週間程。
訓練に熱が入り、皆、先日よりずっと真剣に練習している。
この間はちらっと見ただけだが、じっくり観察すると、色々と見えてくるものがある。
先ず、訓練に参加しているのは八十六名で、この島の人口の半分以上だ。
先日は三十名くらいだったから、あの時の3倍近くが訓練に参加している事になる。
子供や老人、病人を除けば、ほぼ全ての村人だろう。
それを4つのグループに分け、精鋭を除いた3グループは、其々別の事をしている。
精鋭の次にくる戦力の者達は、お互いの対戦相手と切り結び、技の錬度を高め、実践の勘を養っている。
この者達は皆、先日も訓練に参加していた、黒装束の者達だ。
その次のグループからは、黒装束ではなく、普段着だ。
その中の1グループは、刃を潰した練習用の刀を、基本の型通りに何度も何度も振っている。
所謂、素振りだ。
もう1グループは、体術のような動作を何通りも繰り返している。
恐らく、後衛で、投擲などの攻撃を行なう役割の者達だろう。
女性や少年、少女が多い。
普段着の2つのグループは、上位2グループよりもかなり動きが鈍く、明らかに錬度が低い。
今まで訓練に陸に参加していなかったか、最近になって始めたようにしか思えない。
精鋭の六人は、其々自分の訓練をしている。
源は刀を使わずに、空手と拳法が混ざったような、独特の動きを繰り返している。
拳と足のつま先に、鉄の錘のような物を着けているが、実戦では、恐らく小さな刃がついたメリケンサックの類で殴る蹴るをして戦うのだろう。
あやめと志野は二人1組で訓練し、あやめが繰り出す槍を、志野が刀で往なしながら、懐に入る練習をしている。
喜三郎と影鞆は、喜三郎の居合いを影鞆が躱し、忍者のような多彩な攻撃を仕掛ける影鞆の連撃に、今度は喜三郎が刀で受け流す訓練を続けている。
菊乃は一人で、大小様々な大きさの的を上下左右に何箇所も設置し、素早く身体を動かしながら投擲を繰り返し、正確に的に当てる練習をしていた。
訓練の邪魔をしないように、隠密の魔法で姿を隠していた和也は、今回確認すべき事を自分の目で確かめた後、ゆっくりと家に戻って行った。
「今日は本当に有難う。
あの二人のあんな顔、初めて見たかも。
今までは余裕がなかったから、食べていくのに精一杯で、お洒落にまで気を遣えなかったけど、やっぱり二人もまだ若い女性だもの、あんなに奇麗な着物を着れて、嬉しさが抑え切れなかったみたい。
顔にはっきり出ていたわ。
貴方にも見せたかったくらい」
風呂にやって来た紫桜は、上機嫌でそう言ってくる。
「喜んで貰えたなら、何よりだ」
かけ湯をして、いつも通り和也の隣にぴったりと寄り添って座った彼女が、少し遠慮がちに言ってくる。
「ねえ、また貴方にお礼がしたいの。
・・目を閉じてくれる?」
「自分が好きでした事だ。
気を遣う必要などないぞ」
「・・貴方って、他の事には気が回り過ぎるくらいによく気が付くのに、どうしてこういう事にはそんなに疎いの?
もしかして、わたくしを焦らして遊んでいるの?
あんまり焦らされたら、幾ら貞淑なわたくしでも、我慢できずにこちらから襲ってしまうかもしれないわよ?」
紫桜が、呆れたようにそう言ってくる。
「『貞淑』という言葉は、自分の辞書では夫婦の間で使う言葉・・」
話の途中で彼女に右手を強く握られる。
「それ以上言ったら、貴方、このお風呂から奇麗な身体で出られないわよ?
ああ、貴方は既に経験あるんだったわね。
・・源さんから小耳に挟んだけど、貴方、妻がいるのですってね。
どんな人?
わたくしより、ずっと綺麗な人なんでしょうね。
わたくしがこれだけ迫っても、全然その気にならないくらいだもの。
・・でも御免なさいね。
わたくしも、もう貴方を逃がす気はないの。
この島の領主として、わたくしの死後に本国から誰かが派遣されないためにも、わたくしがここで子供を産む必要がある。
それが分っていながら、今までは、どうしても嫌だった。
仮令村の皆に迷惑をかける事になっても、好きでもない男に身を任せるくらいなら、死んだ方が増しだもの。
あやめさん達も、それを理解してくれていたから、何も言わずにいてくれたの。
・・貴方を一目見た時、穏やかだったわたくしの心に、波が生まれた。
じっと見つめていると、それは嵐の時のように激しく揺れ動く。
ここで貴方に裸を見られて、ちょうど良いきっかけができて、ずっと貴方を観察している内に、この短い時間でさえ、貴方はわたくしに、なくてはならない人になってしまった。
お金がある。
能力が高い。
そんな事は、貴方を語る上ではほんの些細な事。
貴方の素敵な顔立ちは、何時見ても、何度見直しても、わたくしを虜にする。
貴方の優しさは、何時でも、どんな時でもわたくしに笑顔をくれる。
あの夜、抱き締められた喜びが、力強い貴方の腕の温もりが、忘れられません。
何処の誰でも構わない。
どんな人でも良い。
妻が何人いたって気にしません。
・・抱いて下さい。
わたくしを、貴方の妻の一人に加えて下さい。
他にはもう、何も望みはしないから」
強く握られていた手は、何時の間にか、二人の絆を確かめるかのように、緩やかに指を絡められている。
紫桜の告白を聴いた和也は、暫く何かを考えていた。
紫桜自身も、和也が何かを答えてくれるまで、それ以上は何も言わずに静かに待っている。
源泉が湯船に流れ落ちる、その音だけが辺りを覆うように響き渡る中、やがて和也は口を開いた。
「あと1週間で、赤い満月の日がやって来る。
その時に、自分が誰かも、何故ここに来たのかも、一体誰に呼ばれたのかも、その全てが明らかになる。
自分の本当の姿を知ったその時の君に、もう一度だけその気持ちを確認するまでは、・・待ってくれないか?
君の気持ちを疑う訳ではないが、己に自信が持てない自分は、それまではどうしても躊躇ってしまう。
だが約束する。
君の気持ちを再度確かめた後は、その時でさえも君が望むなら、必ず君を妻に迎え入れる。
自分の心に溜まり続けるこの気持ちの全てを、君にぶつけよう。
それでどうだろうか?」
彼女の顔を見ず、星空に目を遣りながら、そう答える和也。
ぴったりと寄り添っていた紫桜の身体が、何かに安心したかのように僅かに弛緩する。
「それで良いわ。
・・良かった。
嫌だと言ったら、ここで貴方を無理やりにでも自分のものにしてしまう所だったもの。
逃げられたら、自害しようとも思っていた。
・・言っておくけど、本気だからね。
ここまで自分の心を曝け出したのですもの、これで逃げられたら女の恥よ。
必ず、約束は守ってね」
「大丈夫だ。
自分を認めて貰えたのなら、君を拒む理由などない」
「じゃあ、約束の印を貰うわね」
紫桜が自分の上に乗ってきて、頬に手をあて、ゆっくりと唇を重ねてくる。
前回より長く、丹念に愛撫してくる唇を一度離して、言葉を挿んでくる。
「これからは、1日一度はこうさせてね。
1週間も待たせるのだもの、それくらい良いでしょう?」
切なそうな吐息と共にそう告げてくる彼女に、困った事に、何も反論できない和也であった。
「でも少し意外だったな。
今まで自分の容姿を褒められた事はないような気がする。
他の者とさして変わらぬのだろうと思っていたが、君に気に入って貰えたようで何よりだ」
一度といわず、何度も繰り返し紫桜の口づけを受け続け、お互いに、少し身体の熱を冷ますように湯船に腰掛けた二人。
「何を勘違いしているの?
鏡で自分を見た事ないの?」
突然紫桜にそう言われ、以前に読んだ、ある本の台詞を思い出す和也。
ショックを受けた和也に向けて、悪戯が成功した事に微笑んだ彼女は、更に言葉を付け加える。
「そんな事、一々言葉にしなくても、その人にとっては当たり前の事だからよ。
言ったでしょう?
貴方には、幾つもの魅力があるの。
お金、能力、容姿、優しさ、・・他にも沢山あるけれど、そのどれに重きを置くかはその人次第。
だけど、少なくとも貴方を本当に好きになる人には、お金は、あまり意味を成さない気がするわ。
容姿も、気にしない人の方が多いと思うし。
わたくしは、貴方の困った顔や優しい笑顔が大好きだから、敢えて容姿を強調しただけよ。
自分が好きになった人の顔なら、その人にとって1番なのは普通の事でしょう?
貴方の場合、他にも色々と衝撃が強過ぎて、中々容姿の評価まで言及するに至らないのよ。
顔だけが取り柄の人なら、そこを褒めるだけだから、話は簡単なのだけどね」
からかわれただけだと分り、衝撃から立ち直る和也。
成る程、信じている者からの言葉には、仮令冗談でも、これ程までに心に刺さる威力があるものなのだな。
自分も気をつけなくては。
「金や力がなくては、困っている者を助けてやれないし、気になる相手に振り向いて貰うきっかけを得られない。
人間も動物と同じ生存本能がある以上、より優れた異性を求め、その者と子を生したいと願うのは当たり前の事だと、少し前までは、そう思っていた。
だが実際に人の中で暮らしてみて、人の心をより深く理解した今では、そんな底の浅い考えでは、説明がつかない事の方が多いという事に気が付いた。
人を守ろうとするのは、何も力が強い者に限った話ではない。
人を愛しく思う気持ちは、相手の姿や財のみから生まれ出る訳ではない。
・・人の心とは、本当に奥が深い」
「まるで、貴方が人ではないような言い方ね」
何気なく呟いた言葉に、紫桜が反応する。
「まあ、さっきも言ったけど、わたくしは貴方がどんな存在だろうと、別に構わないけどね」
「・・話は変わるが、夜の訓練に参加する者が急に増えたようだが、何かあったのか?」
話の流れが不味い方向に行きかけたので、慌てて修正を図る和也。
「見たの?
・・貴方のお陰よ。
ここ最近、貴方が本当に沢山のものを差し入れてくれたお陰で、村人にも、希望が生まれてきたのよ。
これまでは、苦しい訓練をこなして仮令1年多く生き残ったとしても、食べる物も十分ではない上、着る物すら陸になく、何の楽しみもなかった。
そんな暮らしが、余計にこの島に流された自分達を、罪人だと実感させてきたのでしょうね。
わたくし達が幾ら頑張るように言ったところで、最初から既に諦めている人も多かった。
でも、貴方のお陰で、今は村の皆が毎日3食、お腹一杯食べられる。
着る物だって、あの後、手分けして皆に配って回って貰ったけれど、奇麗な反物や新しい甚平を貰って、とても喜んでいたそうよ。
それに、貴方が始めたお祭り。
あれ、凄く評判が良いのよ?
貴方、直ぐに女性の事を褒めるみたいだし、男の人には容赦なく勝負を挑んだりするのでしょう?
お世辞や憐れみからではなく、本心からそう言ってくれる事が、普通の人と同じように接してくれる事が、彼らにも分るみたい。
疲れたような、余裕のない顔の人が多かったこの村が、見違えるように明るくなってきた。
石鹸の効果も抜群よ。
やっぱり、身体がさっぱりすると、気分も軽くなるわよね」
「石鹸はまだ沢山あるから、明るくなったら広間にでも積んでおこう。
そんなに喜んで貰えるなら、イベントで必ず渡してやるのも良いしな」
「いつも有難うね。
・・少し冷えてきたわ。
もう一度湯に浸かり直してから上がりましょう。
今日はとても良い夢が見れそうだわ。
貴方からの確約も取れたしね」
まるでもう逃がさないとでも言うように、湯に浸かり直す間、ずっと和也と腕を組んでいた紫桜であった。
早朝の、いつも通りの時間。
養鶏場で鶏たちに餌を撒く和也の下にやって来た菊乃は、案の定、何か言いたげであった。
「今日はどうしたのだ?」
念のため尋ねる和也に対し、菊乃は口を開く。
「御剣様は、母に気がある訳ではないのですよね?」
「やっぱりか」
想像通りの答えを返す彼女に、思わず苦笑いしてしまう。
「笑い事ではありません。
母は人妻です。
鉱山に送られたとはいえ、父という夫がいます。
その生死が明らかになるまでは、手を出すべきではありません」
真剣な顔をして抗議してくる菊乃の頭を撫でながら言う。
「そんな積りはないと、前にも言ったではないか」
「でも、他の皆と違って、母にだけあんなに奇麗な着物を渡すなんて、可笑しいです」
「柄は違うが、同じものは、喜三郎の母親にも渡したぞ。
皆と違って特別なのは、お前達精鋭の家族だからだ。
一生懸命、この村のために、紫桜の為に戦ってくれているお前達の大事な人達だから、特別な贈り物をしたに過ぎん。
それに彼女は、旦那さんの事で色々気にしていたからな。
少しでも気晴らしになれば良いと考えたのだ」
母親が父親の事で悩んでいたと告げられ、菊乃の顔に少し影が差す。
「やっぱり、まだ引きずってたんですね。
ここに送られてきた最初の1年は、ずっと塞ぎ込んでいましたが、最近は笑うようにもなって、心の整理がついたとばかり思っていました」
「そういう菊乃はどうなんだ?」
養鶏場の看板脇に新たに設えた、木製のベンチに座るように促し、陶のコップにオレンジジュースを注いで手渡してやりながら、そう尋ねてみる。
「わあっ、有難うございます。
走り込んでいたので、ちょうど喉が渇いていたんです」
渡されたジュースを美味しそうに飲みながら、彼女は答える。
「正直に言うと、初めは父に対して怒っていました。
幾ら母の病気を治すためとはいえ、盗みは良くありません。
そのせいで、私たちは『穢れし者』として、周りから迫害されてきたのですから。
この島に来た初めの1年は、生きる事に必死で、訓練ばかりしていたせいか、あまり父の事は考えずに済んだんです。
でも、2年以上が過ぎて、少し落ち着いて考えられるようになると、あの時の父の気持ちも、何と無く、理解できるようになってきました」
空になったコップにジュースを注ぎ足してやりながら、続きを聴く和也。
「有難うございます。
・・自分だって鉱山に送られて、ほとんど助かる見込みもないのに、助けたって、母も『穢れし者』としてこの島に流され、何時まで生きられるかも分らないのに、それでも罪を犯してまで母を助けた父の気持ちが、今は何と無くですが、分るんです。
人を愛するという気持ちは、まだ私にはよく分りませんが、大切な誰かを、自分を犠牲にしてまで守ろうとする勇気は、一緒に最前列で戦う他の精鋭の方々からも、学ばせていただきました。
初めて火狐と戦った時は、凄く怖かった。
何人かの人が、彼らの餌として運び去られる様を見ながらも戦えたのは、源さん達の後姿に勇気を分けて貰えたから。
自分が生き残るためだけではなく、守りたいと願う人がいるからこそ、いつも以上の勇気が湧いてくる。
その事を、皆さんの戦う背中から、教えていただいたんです」
平穏で、命の危険に晒されない場所でしか、生まれてこない思いもある。
何時死ぬかも分らない、過酷な状況の中でしか、咲かない想いもある。
どちらが人の為になるとは一概には言えぬが、人の心というものは、自分が創った世界のように、限りない可能性に満ちている。
晴れの日には健やかに葉を広げ、嵐の日には辛抱強く根を育て、やがて大きな幹となって、枝葉に集う、弱き小さきもの達を支えられる存在となる。
やはり、まだまだ人に対する興味は尽きない。
長い付き合いになりそうだ。
そう考えて、静かになった菊乃の方を振り向くと、彼女がじっと自分を見ていた。
「どうした?」
「御剣様も、私に勇気を与えてくれる方ですよ?」
何故か少し頬を染めながら言ってくる。
「それは光栄だな。
では、そんな頑張る君に、これを進呈しよう」
菊乃の前に、彼女用に買っておいた木綿の紬と袴を数着差し出す。
「本当は絹の物の方が上質なのだが、これは普段着といっても自主訓練用に着るものだから、より丈夫な方が良いだろう。
母親の着物と同じ魔法が掛かっているから、汗や汚れを気にする必要なく訓練できるぞ」
「良いんですか?
こんな素敵な服、私、本国でも着ていませんでした。
有難うございます。
何か、御剣様がこの島にいらしてから、本国にいた時よりもずっと良い暮らしをさせていただいてます。
つい先日まで、命の心配をしながら必死に生きてきたのに・・。
御剣様、まるで神様みたい」
そう言って、嬉しそうに笑う菊乃から、朝日が眩しい空へと顔を向けながら、和也は言う。
「君がこれまで辛い事に耐え、頑張ってきた分の利息が、今になって支払われているだけさ。
全ては皆、君が貯め続けてきたものだ。
自分はただ、それを返しているだけなんだ」
今日もまた、やる事がある。
紫桜と、この島の、彼女を慕う者達の為に。
和也は、地球の海上にいた。
俗に七つの海と言われるその全ての海底を隈なく探索し、そこに沈んでいる沈没船や飛行機、その他、人の手の加えられた金属類を見つけ出す。
その中から、既に何処かの国家や個人が見つけて何らかの対策を講じている物や、ダイビングスポットなどに活用されている物を除き、船体や機体は全て一度原子レベルまで分解した上、浄化した後、金属のインゴットにして収納スペースに放り込む。
船や飛行機の荷に、金銭や陶磁器、貴金属など、まだ使える物があれば、それも浄化してから全て貰っておく。
船体などを分解した際、人の白骨化した遺体が出てきた場合には、その場所の海底の砂地に丁寧に埋め、遺品がある時は、その周囲を人に発見されるという解除条件をつけた結界で包み、側に一緒に埋めてやる。
その後、海から大量の利益を得たお返しに、貰った場所の近辺を掃除する。
タンカーが座礁して流れ出た大量の重油成分。
捨てられたり、嵐などで海に流された沢山のプラスチック製品等のごみ。
そういった、海自体に負担をかけるものを取り除いてやる。
船体を
最後に、金銭などの貴重品を貰った船体や機体の沈んでいた場所が、何処かの領海内であれば、貰った額の半分を、その国の慈善団体に匿名で寄付をして、元の世界に帰って行った。
昼過ぎに、領主屋敷に出向いた和也は、応対に出てきたあやめに告げる。
「農機具と、料理に使う包丁類を持ってきた。
村人に行き渡る分は十分あるが、何処に置けば良い?」
「・・今度は農機具かい。
相変わらず、気前が良いね。
本当に助かるよ。
特に鉄製の物は、本国から買うしかないからね。
皆、手入れをしながら大切に使ってるけど、新しい住人が増えたり、地下住居のための穴掘りなんかでどうしても数が足りなかったからね。
包丁も、あんたのお陰で今は大活躍さ。
刺身なんかは、包丁の善し悪しで、大分味が違うからね。
・・蔵の空いている場所に置いといて貰えるかい?
貰った米や塩、酒を除いた調味料や魚、果物なんかは村人にも分けてやったんで、かなり場所が空いたから」
「分った。
紫桜は居るか?」
以前、屋敷に来たのに顔を見せなかったと文句を言われたので、念のため、そう尋ねてみる。
「・・お昼寝の最中さ。
あんた、昼ご飯に顔を出さなかっただろう?
それでご機嫌を損ねてしまって、今は寝ていなさるよ。
・・あんた、よっぽど気に入られてるんだね。
姫様がこれ程までに人に執着するなんて、初めての事だよ。
最近は、以前にも増して夜遅くまで起きていなさるみたいだし、昼間はその分、よく寝ていなさるのさ」
「そうか。
では、後で蔵に置いておく。
邪魔したな」
紫桜が、昼寝ができるくらいにまでなった事を喜んで、帰っていく和也。
それだけ、この村が落ち着いてきたという証なのだから。
屋敷から出たその足で、今度はとある国の、その国が直接に管理する食糧倉庫に出向く。
そこにうず高く積まれた、政府管理米の古米、古古米の中から、状態と品質の良いものを見繕い、100トン程購入する。
米価調整のため、国が必要以上に買い上げた物や、諸外国から貿易均衡を迫られた国が、消費する見込みがない物を敢えて購入させられた米がうなっている。
増える一方のそれらの米を、近年は、家畜の飼料や他の製品の原料などに安く下げ渡していた。
そういった中から、お金のためだけに、いい加減に作られた物ではなく、生産者の手間と思いの込められた良質の米だけを買った和也は、国が業者に払い下げる額ではなく、正規の市場価格の料金を、メモと共に置いていく。
後になって、何者かが勝手に侵入し、100トンもの米を持ち去った事が判明するが、そこに置かれていた必要以上に多い金額に、事を明るみにせず、機密事項として処理された。
国としても、管理責任を問われずに、しかも、過剰在庫を大量に高値でさばけるなど、不利益は1つもなかったせいである。
次に、木桶や手桶を扱う店を何軒か回って、全部で10個ずつ買い、裁縫に用いる針や糸を、専門店でアドバイスを受けながら100セット程購入してから、再び紫桜のいる世界へ帰る。
屋敷の蔵に、なくなった分の米と塩の袋を足し、片手間に捕った海藻や魚を大量に積んで、鮮度を保つ魔法を掛ける。
その際、買ってきた古米や古古米は、その成分を新米と同じものに調整しておく。
敷地の空きスペースにもう1つの蔵を建て、そこに、手に入れた金属を使って、鍬や鋤、鉈を何十も作り、保管する。
村の共同浴場の男湯、女湯に、購入した木桶と手桶を4つずつ設置し、周囲を囲む木の塀を修復して、きちんと周りから見えないように補強した上、雨を防ぐ屋根を築く。
序でに更衣室も拡張してやった。
これまでは、狭いスペースで陸に着替えを置く棚さえなかったようだが、今後は十分、各自の服の置き場所ができるだろう。
1日の疲れと汚れを落とす風呂くらい、ゆったり、ゆっくり入りたいだろうから。
そこまで終えて、夕方、奇麗に改装された露天風呂に驚き、喜んだ村人が、風呂上りに並んだ御剣養鶏場で、握手やじゃんけんをして、卵や石鹸、希望者には反物を仕立てるのに必要な針や糸なども渡してから、和也のその日の仕事が終わる。
綾乃と、喜三郎の母だと名乗る女性が、特に念入りに和也に礼を述べ、穏やかに帰ってゆく。
始めた頃とは違い、今は村人の全員がこの養鶏場を訪れる。
夕食の時間に遅れ、紫桜の機嫌を気にしながらも、何処か満ち足りた和也であった。
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