第5話
「あの、御剣様でしょうか?」
日が沈むのが早くなってきた空が、段々とオレンジ色に染まり始める頃、一人の女性が声をかけてきた。
共同浴場に、ちらほらと人が集まり始め、いきなりできた養鶏場とため池を、離れた場所から覗き見る者達が出始める。
その女性は、そうした者達とは異なり、明らかに自分に用があるとでもいうように、真っ直ぐこちらに向かって歩いて来た。
30後半くらいの歳に見えるその女性は、和也の前まで来ると、そう声をかけ、こちらを窺うような視線を向けてくる。
「そうだが」
「私は菊乃の母で、綾乃と申します。
昨日は娘共々ご馳走になり、本当に有難うございました。
あんなに美味しい物を食べたのは初めてです。
今朝も高価な卵まで頂いたようで、二人で喜んで食べさせていただきました」
もっと年配の人間だとでも思ったのか、声をかけたのが和也本人だと分って、ほっとしたように話してくる。
「そうか。
喜んで貰えたようで何よりだ」
「昨日の朝から、あの子が見違えるように明るくなって、夜にお屋敷から帰ってきた時には、訓練に行くまでずっと貴方の事を話していました。
見知らぬ人には距離を取る事が多い子ですが、貴方には随分懐いているようですね」
嬉しそうにそう言ってくる。
「年が近く見えるせいかもしれないな。
時に、貴女もお祭りに参加するか?」
「娘から聞いておりますが、貴方と握手をすると、景品を頂けるというものでしょうか?」
「そうだ。
旦那さんがいる人には、セクハラになってしまうかな?」
旦那という言葉に、一瞬少し悲しそうな表情を見せたが、直ぐに元の笑顔に戻して、尋ねてくる。
「セクハラ、ですか?」
「性的嫌がらせとでも言おうかな。
勿論、そんな積りはないぞ?」
「ふふっ、可笑しな事を仰る方ですね。
こんな歳の女を摑まえて」
「何を言う。
とある世界では、貴女くらいの女性は熟女というジャンルを確立していて、一部の男性達から絶大な支持を得ているのだぞ。
まだまだ十分、女性として美しい盛りではないか」
「まあ。
お世辞でも嬉しいですわ。
・・それでは、お願いできますか?」
口元に笑みを浮かべ、子供の遊びに付き合うような仕種で手を差し出してくる。
和也は恭しくその手を軽く握り締め、その後、両手に石鹸とタオルを持って彼女に渡す。
「今回の景品はこれだ。
昨日菊乃に持たせた物より、品質と素材が良い。
これから入浴するなら、是非使ってみると良い」
風呂に入りに来たようだが、昨日渡した石鹸とタオルを持っていなかったので、食材よりもこちらを渡してみる。
「宜しいのですか?
有難うございます」
かなり喜んで貰えたようだ。
「まだ4、5日はお祭りをやる予定だから、良かったら、明日もまた来るが良い」
「はい。
お言葉に甘えさせていただきますね。
それでは、失礼致します」
綾乃が去って、少しすると、今度は男が近付いてきた。
昨日の食事会に居た、喜三郎という男だ。
「昨晩は格別のご配慮を賜り、真に有難うございました。
母も大変喜んでおりました」
「そうか。
それは何より。
それで、お前も参加するか?」
「・・いえ、私は・・」
「分っている。
握手ではなく、じゃんけんで勝負だ」
「?」
「自分は『穢れし者』などではない。
普通の人間だ。
そう思うからこそ、ここで握手をして、結果的にそれを認めた形になるのが嫌なのだろう?
自分も、お前達が『穢れし者』だと言っているのでは決してない。
そんな事はないと否定して、それを行動で示そうとしただけだ。
だから、じゃんけんで勝負だ。
お前も剣術家の端くれなら、勝負の駆け引きくらい、弁えているだろう?」
そう言って、にやりと笑う和也。
和也の心遣いを理解した喜三郎が言う。
「そこまで言われては、引き下がれませんね。
では、いざ、尋常に勝負!」
お互い腰だめに構えをとり、手を出すタイミングを探る。
「じゃんけん、・・ポン!」
喜三郎がチョキ、和也はグーを出す。
「くっ」
「まだまだ修行が足らんな。
顔を洗って出直してくるが良い。
・・これは残念賞だ」
和也が、お茶の葉の沢山入った袋を差し出す。
「母親に飲ませてやると良い」
敢えて年配の女性が好みそうな物を差し出す和也に、喜三郎は感激して頭を下げる。
「かたじけない」
「再戦なら、何時でも受けて立とう」
そう言って笑う和也に、もう一度頭を下げると、彼は去っていった。
その後、それらの遣り取りを遠巻きに見ていた者達がぽつぽつと参加し始め、日が落ちて、和也が撤収するまでに、村人の3分の1くらいが参加したのであった。
その夜。
和也は日本の森林地帯に居た。
この辺りは昔、林業が盛んな場所であったようだが、安い輸入材に需要を奪われ、森林保全のために間伐した木を大量に放出した結果、更に木材の価格が下がり、高齢化で跡継ぎのいない者や、相続したは良いが、売るに売れず、手入れの費用すら出せない者が何もしないまま放置し始め、今では荒れ放題になっていた。
小さな町が3つか4つ入るくらいの面積がある森林に、和也は魔力を放出し、木材としての商品価値のない木を間引いていく。
そして、それらを魔法で小さな薪にして、数千の束にし、次々と収納スペースに放り込む。
途中で見つけた食用のきのこも、その根を傷つけないように採取し、貰っておく。
木材ときのこを貰ったお礼に、その場所の害虫駆除をしてから、元の場所に帰って行った。
「御免下さい」
夕食の時間を1時間程過ぎた頃、領主屋敷を訪れる。
呼び声に、食事中だったのか、僅かに遅れてあやめが顔を見せる。
「まともに挨拶できるんじゃないか。
これからはそう言いな」
「遊び心の無い奴だ。
何事にも、ゆとりは大切だぞ」
「あんたがあたしの心のゆとりを奪ってるんだよ!」
「そう怒るな。
今日は良い物を持ってきた」
「何だい?」
「きのこだ。
紫桜と食べてくれ」
そう言って、1ⅿくらいある大きなザルに、山盛りのきのこを渡す。
「それから、何処かに薪を置く場所はないか?」
「薪?
もしかして、森に入ったのかい?」
「いや。
紫桜との約束だから、ここの森には入らない。
余所の場所で少し拾ってきた」
「助かるよ。
じゃあ、蔵の横にでも置いといてくれるかい?」
まさか数千もの束があるとは思ってもいないあやめが、そう答える。
「分った。
今日はこれで帰る。
食事中に済まなかったな」
「姫様に会っていかないのかい?」
「ああ。
ではな」
和也は、4つの蔵の側面に、其々200の薪の束を積み上げると、魚を獲りに海へと向かうのであった。
「何で顔を見せなかったの?」
もうすっかり二人の日課となった深夜の風呂で、紫桜は不満げに言ってくる。
「昼に見せたではないか」
「別に何回見せたって良いでしょう?
わざわざ屋敷まで来たのだから、顔くらい見せなさいよ。
・・それと、薪、有難うね。
あやめさんがびっくりしてたわよ。
『村人全員に分けても3ヶ月は持つ』って、かなり喜んでたわ。
森に入れないと、薪にも苦労するから」
「今までどうしてたんだ?」
「嵐の後に川に流れてくる小枝を拾って、乾燥させて使ったりもしてるけど、ほとんどは本国から買ってるわ。
温泉があるから、お風呂を沸かすのに使わなくて済む分、かなり助かってるけど、やっぱりご飯を炊く際には必要だもの。
この島の人達が1日2食なのは、食料が十分ではなかったせいもあるけど、薪が足らなくて、煮炊きが頻繁にはできないせいもあるの。
これまでの本国との取引では、塩や醤油などの調味料と薪が、かなりの金額を占めていた。
それを今回、貴方が全て差し入れてくれたお陰で、来年分のお金がほとんど必要なくなったわ。
本当に有難うね。
石鹸も、あんなに沢山、とても良い物をくれたから、肌がいつもよりすべすべしてるの。
・・触ってみる?」
只でさえぴったりくっ付いて湯に浸かっているのに、わざわざ和也の耳元に口を寄せて、そう囁いてくる紫桜。
「折角だが、止めておこう。
それより、薪はまだあの10倍近くあるから、なくなったら補充しておく。
自分で各家に積んでやっても良いのだが、君から村人に配給する形を採った方が、何かと都合が良いだろうからな」
「何よ、意気地なし。
・・どうも有難うね」
先程とは、お礼の言葉の響きが大分違う。
「・・君はもっと己の魅力を自覚した方が良い。
自分でなかったら、男に襲われても文句は言えないぞ?
源とやらが心配するのも無理はないな」
「あ・な・た・ねえ!
今度そんな事言ったら、思い切りひっぱたくわよ!!
貴方以外の男なんて、陸に近寄らせもしないわよ。
裸で一緒にお風呂に入るのも、肌を直に触れ合わせるのも、口づけを交わすのも、全部、貴方とだけよ!!!」
もの凄い剣幕で怒られる。
「・・済まない。
自分は、またしても会話の選択肢を誤ったようだ。
自分が以前に女性の気持ちを勉強するために読んだ、とある世界の本では、思わせぶりな態度を取って、何人もの男に色々と貢がせていた女性に思い切って告白した男が、『何を勘違いしているの?鏡で自分を見た事ないの?』と、随分酷く蔑まれていたので、婦女子の態度に過度な期待はしないよう、常に己を戒めているのだ」
「・・貴方、まさかそんな女と、わたくしを同一視している訳ではないわよね?」
「滅相もない」
紫桜から漂う、湯に浸かっているにも拘らず底冷えのする冷気に、慌てて否定する和也。
「・・いい加減気付いてよね。
わたくしは、貢物などくれなくても、何時でも差し出す準備があるのよ?
”貴方にだけ”の、無期限特別大奉仕なんだから」
溜息交じりにそう言う紫桜に、『何を?』とは、怖くて聴けない和也であった。
次の朝、昨日と同じ時間に菊乃を待つ。
やって来た彼女は、少し微妙な顔つきをしていた。
「そんな顔をして、どうした?」
「いえ、・・御剣様は、ご自分よりもかなり年配の女性がお好みなのですか?」
「何?」
「・・昨日、母が入浴から帰ってきた時、かなり上機嫌だったので、どうしたのか聴いてみたのですが、その時に、御剣様のお話が出まして・・。
まだ十分美しい盛りだと言って貰えたって、喜んでおりました。
訓練で汗をかく私が使いなさいと、自分の分の石鹸も使わずに、私の為に取って置いてくれた母から、とても良い匂いがしたので、それも尋ねたら、御剣様と握手して、高価な石鹸を頂いたって。
まるで、貴婦人を相手にするような扱いをしていただいたと・・。
御剣様は、年下の女性には、興味ありませんか?」
俯きながら、小声でそう言ってくる。
「・・君は何か勘違いをしている。
自分が女性を褒め称える時、常に性的視線で見ている訳ではないぞ。
寧ろそんな時は極々稀だ。
普段は相手に失礼のないように、そういった感情は全て除外している。
・・女性の美しさは、何も性的な魅力だけに限られるものではない。
その者の考え方、行動、生き方によっても、大きな差が出てくる。
若い者には、これから何色にも染まってゆける、若さ特有の瑞々しい輝きが、歳を重ねてきた者には、その年月の重みが生み出す、気品と落ち着きが、その者に様々な美しさを添えてくれる。
限りある命を持つ身であれば、与えられた時間の中で、その姿形を移ろわせ、変化させていくのは寧ろ当然の事。
故に自分は、どんな年代の女性に対しても、相応の敬意を持って接したいと考えている。
勿論、君に対してもだ。
それでは駄目か?」
そう言って、菊乃の頭を優しく撫でる。
「・・御剣様のお国の人は、皆こんなに優しい方ばかりなんですか?」
大人しく頭を撫でられながら、菊乃が尋ねてくる。
「さあ、どうだろうな?」
今日の握手を、昨日の母親と同じようにしてやると、やっといつも通りの笑顔を見せて、やはり母と同じ景品を手に、彼女は帰っていく。
紫桜といい、菊乃といい、女性の心を本当に理解するのはまだまだ難しい。
つくづくそう実感させられる和也であった。
菊乃を見送った後、昨日のイベントを通して大体の村人の状況を把握した和也は、早急に必要なお金を稼ぐため、地球のカジノの前にいた。
競馬で稼いだお金がまだ半分以上残ってはいるが、今回購入しようと考えた物はどれもそれなりに高価で、紫桜の為に買おうとしている物に限っては、500万円以上する。
手っ取り早く何億ものお金を稼ぐには、自分が今選択可能な手段の中では、この場所が最も適していると思われるが、顔を覚えられ易いので、偶にしか使えない。
近年、社会主義国の大国に返還されたその場所に、多数存在するカジノの中から、資金を貯め込んでいそうな大きな建物に順に入って行く。
最初の店では、100万円分の専用チップを購入し、それをルーレットで1目賭けして36倍にする。
その後、200万ずつ1目賭けを2回繰り返したら、チップを換金して、注目を集め出した店を出る。
先日買った大型の旅行鞄にぎゅうぎゅうに詰め込まれた札束を、収納スペースに転移させ、次の店で同じ事を繰り返す。
それを更に別の店を回りながら3回繰り返した後、街のブランドショップで1番大きな鞄を2つ買う。
その後、今回の大本命である、一際華やかな店に向かった。
平日にも拘らず、人で溢れる店内を進み、1000万円をチップに換金した後、迷わずに、大きなルーレットのある席に着く。
ヨーロピアンスタイルを採るこの地域のルーレットでは、アメリカンスタイルと違って控除率が低く、客に人気が高いため、多くの店が機械式の台を置き、複数のディーラーを配置して、一度に数十人の客をさばく。
先程までの、1ベットの金額が200万くらいだった勝負では、和也も皆に混ざって機械式をしていたが、今回は1000万での勝負なので、少人数でやる、ディーラー一人の台に着いた。
黒い衣装に、セクシーな網タイツを身に付け、黒のハイヒールを履いた女性が近付いて来て、飲み物の注文を聴いてくるので、ミルクを頼む。
それを聞いた近くの者達がゲラゲラと笑い出し、女性が困ったように、扱っていないと詫びてきたので、仕方なくオレンジジュースを注文し直す。
・・可笑しい。
以前、日本で見た映画では、酒場のマスターに、主人公の少年がミルクを注文していたのに。
気を取り直して、最初の勝負をする。
「1つ尋ねたい」
女性ディーラーに声をかける和也。
「何でしょうか?」
「ここでは、1回のベットは幾らまで可能だ?」
「お幾らでも。
マスに入り切らないのであれば、私に申し出ていただければ、対処致します」
黒いサングラスをかけてはいるが、少年のように見える和也が、まさか1000万ものチップを一度に賭けるとは夢にも思っていない女性が、余裕の笑みを見せて答える。
「ではもう1つ尋ねる。
この店が、即日現金で払う事のできる金額は幾らまでだ?」
ディーラーの女性が、ピクリと眉を動かす。
「・・正確ではありませんが、20、30億は十分可能です」
「それを聴いて安心した。
では、数字の24にこれを全部賭ける」
そう言って、1000万分のチップを差し出す和也。
先程、和也を笑っていた者達がどよめいた。
女性ディーラーが、和也の事を、良いカモが来たとでもいうような目で見る。
皆が賭け終り、静かになったテーブルで、ルーレットが回され、玉が投げ入れられる。
周囲の客達の、好奇心に満ちた眼差しを、一手に集めた玉が落ちたその場所は、和也が賭けた、数字の24だった。
見ていた客達が大歓声を上げ、ディーラーが、信じられないものでも見るかのように、玉の落ちた場所を呆然と眺めている。
暫くして、我に返ったディーラーが、チップを山のように和也の前に移動させる。
その時、椅子に座る和也に、一人の女性がわざとらしくぶつかってきて、手に持っていたグラスから、和也の服に飲み物を溢した。
「御免なさい。
あまりの大勝ちにびっくりしてしまって。
服を弁償しますから、後で貴方の連絡先を教えて下さる?」
胸元を強調したドレスを着た、色気たっぷりのその女性は、妖しく微笑みながら、そう言ってくる。
「気にするな。
安物だし、これだけの金があれば、幾らでも買えるから」
陸に自分を見もせずにそう言ってくる和也に、プライドを害されたのか、その女性は『そうですか。ではせめて、お拭きさせて下さい』と事務的に言って、ハンカチで和也の服を拭う。
その際、和也のジャケットの襟の中に、極小さな何かを忍ばせてきた事を、和也は当然気が付いていた。
「次は数字の3に、これ全部だ」
山と積まれたチップの3分の1を、ディーラーに差し出す和也。
盛り上がっていた場が、女性のせいで少し白けたが、再び和也が大金を賭けた事で、再度熱狂に包まれる。
ディーラーの顔が引きつる。
この大勝負を邪魔しないように、他の客は誰も賭けない。
やがて、震える手でルーレットを回した彼女が、玉を投げ入れる。
通常の時間の何倍にも感じられた数十秒が過ぎ、カコンという音を残して玉が落ちる。
数字の、3であった。
更なる大歓声。
他のテーブルで遊んでいた客達が、何事かと覗きに来る。
魂が抜けたように呆然とするディーラー。
騒ぎに駆けつけて来た他の従業員達によって、別室に案内された和也は、今直ぐ現金で用意できるのは30億しかないが、夜までには残りの14億も揃うと言われ、この店の金庫の中を透視する。
案の定、100億以上のお金が保管されていた。
「では、夜になったらもう一度ここに取りに来る。
その時に全額貰おう」
そう言って部屋を出て行く和也の後姿を、その部屋の者達は、薄ら笑いで眺めていた。
店を出て、人混みに紛れた和也は、自分の跡をつけてくる者達が、先程の店から出てくるのを遠視で確認すると、自分のすれすれを徐行もせずに走り抜けていく車の荷台に向かって、襟に付けられた発信機を放り投げ、裏路地に入る。
そして、先程の店の金庫から、44億円分の現金を自らの収納スペースに転移させた後、同じ世界の、別の場所に向かって自らも転移する。
最初の何軒かの店と違い、最後に訪れたこの店は、大勝ちした者が不慮の事故で亡くなったり、強盗に入られて殺されたりといった、以前から、裏社会の組織と関係があるのではないかという、黒い噂の絶えない店であった。
和也は最初に勝った時、もうこれで良いかとも考えていた。
2つ買い足した鞄一杯に札束を入れても、入るかどうか怪しいくらいの金額だ。
だが店側は、そんな和也の気持ちを踏みにじるかのように、罠を仕掛けてきた。
和也が必要以上に資金を巻き上げたのには、そんな理由がある。
あの店の者達が、裏組織の上層部から、なくなった大金の責任を取らされるのは明白だ。
自業自得ではあるが、律儀にも、控除率分の金額だけは取らずにおいた。
また、今回の件で自分に注目した人物の、己に対する認識を操作し、其々が全て別の人物を思い浮かべるように記憶操作を行ない、スマホなどを使って動画を撮影していた者の投稿を、拡散した分も含めて全て削除した上、元のデータを完全に消し去ったのは言うまでもない。
余談だが、この店ではこれ以降、大勝負しようとする際に、何故かミルクを注文する客が増えた。
あまりに多いので、メニューに加えられたという。
次に和也が訪れたのは、日本の着物即売会の会場である。
先程稼いだ全部で52億相当のお金を、迷惑料の代わりに、あの国の国営銀行でこっそり円に換金させて貰い、目当てのB反を物色する。
B反といっても、正規品と変わらぬ物でありながら、色や柄が市場に受け入れられず、倉庫に売れ残った品々や、倒産した店からやむなく買い取られた品、染めムラやキズのある本来の意味の物まで様々だ。
そんな大量の品々の中から、職人が丹精込めた物でありながら、流行に乗る事のできなかった品や、運悪くキズが付いてしまったものの、仕立て次第でどうとでも隠せる物を数十点購入する。
別の会場でも同じ事を何度か繰り返した後、本命の品に手を出す。
紫桜に贈る、大振袖。
染め抜き日向紋の五つ紋が入った、漆黒の生地に、鳳凰の絵羽模様が付いた着物。
帯や小物を入れると800万円以上する。
その他に、三つ紋入りの黒の留袖、同じく三つ紋入りの色留袖を帯や小物と共に購入し、木綿の紬と袴を数点、訪問着を3点買う。
男性用の甚平も、100点ほど購入した。
どれも皆、現金で購入したので、少子化で成人式での需要が減り、着付けなどの大変な和服を避ける傾向が顕著になってきたこの国の苦しい業界に、少しは貢献できたであろうか。
紫桜の居る、元の世界に戻ってこれたのは、日の暮れる、夕食の時間まで残り1時間を切った頃。
風呂上がりに御剣養鶏場の前で待っていてくれた綾乃に、遅れた事を詫び、握手をして、買ってきたばかりの訪問着を1着渡す。
「こんな高価な着物、受け取れません。
これはどうか姫様に」
手渡された上質の着物に驚き、遠慮してそう告げてくる綾乃に和也は言う。
「紫桜には別の着物を用意してある。
これは貴女に買ってきた物だ。
失礼ながら、ここでは満足な着物を手に入れるのは難しいだろう?
セルフ浄化と保存の魔法が掛けてあるから、汗や汚れを気にせず着れて、収納する際にも、虫に食われるなどの心配もない。
時にはおめかしして、散歩でも楽しんでは如何かな?
少しは心配事が減るかもしれないぞ?」
まるで自分の心の奥底にある、鉱山送りにされた夫への申し訳ない気持ちを見透かすかのような、和也の穏やかな声。
自分達は、姫様や他の皆のお陰で、何とかこの島で無事に暮らしている。
でも夫は、有毒ガスが充満する過酷な現場で、日々確実に寿命を減らしている。
3年経った今では、生きているかも分らない。
・・夫が鉱山に送られる日、会いに行った自分に、彼は一言も恨みつらみを口にしなかった。
直ぐ後にこの島に送られる自分達の事を、心配してくれていた。
娘の前では、これ以上の迷惑をかけないように、敢えて抑えていた大量の涙が、我慢できずに流れ落ち、袖を濡らしていく。
御剣様は、そんな自分の、涙で歪んだ顔を見ないように背を向けて、暫くの間、奇麗な月を眺めて下さっていた。
泣き止んだ綾乃が和也に丁寧にお礼を述べ、帰っていった後、喜三郎がやって来て、昨日のリベンジを試みるも叶わず、顔には出さないが、若干悔しそうな彼にも、母親用の訪問着を1着渡す。
やはり姫様にと遠慮する彼に、綾乃と同じ説明をしてやる。
和服を両手に捧げ持ち、深く腰を折って礼を述べる彼を見送り、領主屋敷への道を歩く。
「誰か居るか?」
「何だい?」
あやめが奥から顔を出す。
「夕食がまだなら共に食べても良いか?」
「勿論さ。
上がりな」
好きに入って来いとでも言うように、そのまま奥に引っ込んでしまう。
先日、三人と一緒に昼食を取った広間まで来ると、紫桜が座るテーブルに、あやめと志野が食器を並べていた。
「いらっしゃい。
貴方のお陰で、最近の食事は凄く豪華なのよ。
遠慮なく食べていって」
紫桜が笑顔で和也に席を勧める。
「今晩のおかずは何だ?」
「鰤大根と南瓜の煮物に、きのこの味噌汁だよ」
あやめが代わりに答える。
「あんたが砂糖や昆布、みりんなんかもくれたから、味付けに幅が出て助かってるよ」
「では、ご馳走になる礼に、自分からはこれを出そう」
和也はそう言うと、各自の前に油をとる紙が敷かれたザルを出し、その上に天ぷらを幾つも乗せていく。
大海老、穴子、きす、アスパラ、蓮根、茄子、椎茸。
別の小皿に塩と天つゆを用意してやる。
「・・何ですか、これ?」
皆を代表して紫桜が聴いてくる。
「これはまだ普及していないのか・・。
天ぷらという。
食感が大事だから、揚げ立てを早めに食べた方が美味いぞ」
皆が席に着いた事を確認した紫桜が、食事の音頭をとる。
「では、頂きましょう」
其々が食事の挨拶をして食べ始める。
サクッ、カリッという音が和也の周囲から聞こえ始め、初めての食感に驚きながらも、皆美味しそうに食べている。
「本国からここに来て、1番変わったのは食生活だけど、この間のお寿司といい、今日の天ぷらといい、今は逆に、こちらの方がご馳走を食べてるわね。
・・皆和也さんのお陰。
本当に有難うね」
箸を止め、懐紙で口を軽く拭った紫桜が、そう言って微笑む。
「礼を言われるような事ではない。
自分が好きでしている事だ。
お前達が満足してくれたなら、それで良い」
和也は自分の料理には手をつけず、三人の嬉しそうに食べる様を、ただ穏やかに眺めている。
「どうしたんだい?
食べないのかい?」
あやめが不思議そうに聴いてくる。
「今は良い。
自分は何時でも食べられる。
これは後で源に持っていってやれ。
冷めないように、保存の魔法を掛けておく」
そう言って、自分の前に置かれた天ぷらを差し出す。
「・・済まないね。
きっと喜ぶよ」
あやめが、普段はあまり見せない、優しい顔で礼を言ってくる。
「今は精をつけねばならぬのだろう?
せいぜい、励むが良い」
照れ隠しに和也が言った言葉に、彼女は顔を真っ赤にする。
「志野、あんたかい!」
彼女の方を向き、非難するように言うあやめ。
当の志野は、僅かに視線を下に逸らし、知らない振りをする。
そんな彼女達の遣り取りを、紫桜が嬉しそうに眺めている。
この島には、今まで辛い事が多過ぎた。
だからもっと、こんな穏やかな時間があっても良い。
願わくば、今この時が、島の皆にとっての心休まる時間であるように。
じゃれあう三人を見つめながら、和也は心からそう思っていた。
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