第4話

 「皆揃っているか?」


夕方の6時を少し過ぎた頃、和也は領主屋敷を訪れる。


「・・昼間と雰囲気が全然違うね」


あやめが奥から出てきて、真面目な顔で和也を迎え入れてくれる。


「自分なりに反省したからな。

もう二度と同じ轍は踏まん」


「・・あんた、何処まで奥が深いんだい?

正直、今のあんたには、私でも勝てる気がしないよ」


「・・大広間に紫桜を除いて五人居るな。

ちゃんと六人揃っているようだ」


心なしか冷や汗をかいているあやめの脇を通り抜け、勝手に皆が居る場所へと向かう。


大広間に通じる襖の前で、立ち止まる和也。


後ろから付いて来たあやめが、息を飲む。


和也の全身から、今にも溢れ出そうとする何かを、無理やり押さえ込もうとしているような、物凄い気を感じる。


あやめが襖の向こう側に声を絞り出そうとするより早く、和也が口を開いた。


「どういう積りかは知らんが、今は止めておけ。

今日だけは、自分はあまり手加減ができんぞ?」


「ひっ」


和也の全身から、怒涛の如く迸る殺気。


後ろにいたあやめが、恐怖で腰を抜かしそうになっている。


同様に、襖の奥からも、複数の人間が畳を這いずり回る音がする。


暫く待ってから、和也は襖を開ける。


そこには、正面の上座に青い顔をした紫桜が座り、テーブルを挟んだその左右には、同じように真っ青な顔を引き攣らせた五人の人物が、大人しく正座していた。


「約束通り、夕食をご馳走しに来た。

もう、お遊びは済んだのか?」


紫桜の直ぐ左前に座る源に向かって声をかける和也。


「・・お、おう。

もう十分だ。

手間を取らせたな。

悪かった」


流石に精鋭と呼ばれる者達の筆頭だけあって、この短時間で、何とか自分の放った殺気から回復している。


まあ、ほんの極僅かしか洩らしていないから、当たり前だろうが。


「済まん紫桜。

別に皆を威嚇する積りは大してなかったのだが、昼間に自分の犯した愚行に対する怒りが未だに少し残っていてな。

ここに来ると、それを思い出してしまうのだ。

言った通り、ここには食事をご馳走しに来ただけで、他意はない。

明日にはいつもの自分に戻っているだろうから、さっきの無礼は許してくれ」


「こちらこそ、皆が悪ふざけをしようとしたのを止められず、申し訳ありません。

わたくしとあやめさん達の話を聞いた他の皆が、どうしても、貴方の実力を知りたいと申しまして・・。

ご配慮、感謝致します」


紫桜が、膝に両手をついて、頭を下げる。


和也ともう一人を除いた五名が、彼女にそうさせた責任を噛み締める中、和也は穏やかな、落ち着いた声で言う。


「自分に頭を下げる必要などない。

自分はお前の味方だ。

どんな事が起ころうと、決してお前にだけは危害を加えぬ。

だから、これからも宜しく頼む」


紫桜が和也の顔を見る。


彼のその瞳は、一緒にお風呂に浸かりながら、手を繋いで夜空を眺めた時と同じ色。


その表情は、昼に自分が抱き締めた、あの時の自らを責めるやるせなさを伴った、悲しみの色。


先程だって、わたくしはただ、他の人に向けられた気の余波に充てられただけに過ぎない。


彼が自分に言ってくれた言葉は、そのまま、わたくしの思いでもあるのだから。


「こちらこそ、これからも”末永く”、宜しくお願い致します」


そう言って、花が綻ぶように笑う紫桜は、その場の誰もが心を奪われてしまいそうな程、可憐であった。


「それでは、改めまして、貴方に皆をご紹介致します。

先ずは、こちらから、既にご存知の源さん」


紫桜の掌が、自分(紫桜)の右側の方を示す。


「藤堂源一郎だ。

うちの家は、本国では代々花月家の留守居役をしていた」


「その後ろが影鞆かげともさん」


「初めてお目にかかります。

鬼塚影鞆です。

うちは代々、花月家御当主様の護衛任務を授かっておりました」


「その後ろが喜三郎さん」


「初めまして。

近江喜三郎です。

私の家は、名のある剣術道場でしたが、御前試合で、対戦相手の皇族に父が怪我をさせてしまい、母と共にこの島に流されてきました」


男三人の紹介が済むと、今度は反対側の女性達を紹介する紫桜。


「こちらに移りまして、先ずはあやめさん。

わたくしの身の回りのお世話をして下さる方です」


「如月あやめです。

私の家は、代々花月家の女官長を仰せつかっておりました」


何時の間にか自分の後ろから移動したあやめが、まだ少し青白い顔をしながら丁寧に挨拶してくる。


「その隣は志野さん。

あやめさんと共に、わたくしの護衛をしてくれています」


「神埼志野です。

うちは代々、花月家の女寝殿警備を任されておりました」


彼女が一番ショックを受けているように見える。


自分を侮っていた分、他の者より衝撃が大きかったのだろう。


「最後に菊乃さん。

彼女は戦闘部隊では最年少ですが、とても努力家で、ぐんぐん腕を上げているんですよ」


「・・菊乃です。

私はここに流されてきた平民ですが、皆様のご厚意により、この場に加えさせていただいております」


先程、気を放つ際に、何故かここに菊乃の気配があるのに少し驚いて、彼女の様子を探ったが、菊乃は悪ふざけには加わらず、自分の席で下を向いて座っていたので、彼女には障壁を張って、気を遮断してあった。


その分、他の者と違って直接のダメージは負っていない。


皆を止められなかった自分を恥じているようだが、彼女の立場では仕方のない事だ。


「まさか君が居るとは思わなかったが、ちょうど良い。

今宵はお腹一杯食べると良い。

遠慮は要らないぞ」


菊乃の顔を見て、優しく語りかける。


「はい!

有難うございます」


和也が怒っていないのが分り、ほっとしている。


だが、何故か紫桜が、少し面白くなさそうな顔をしている。


「お知り合いだったのですか?」


「ああ。

偶然川原で会って、少し話をした」


「意外と手がお早いのですね。

『わたくしには、何もしてこないのに』」


「この国では、話をしただけで手を出した事になるのか?

でもまあ、確かに手は出したな」


「!!!」


「頭を撫でただけだが」


そう言って笑うと、彼女から物凄い目で睨まれた。


菊乃は恥ずかしそうに下を向いている。


「さあ、挨拶はこのくらいにして、食事にしよう。

皆、いつも満足に食べていないのだろう?」


「どんなものを出してくれるのか楽しみだぜ。

言っとくが、こう見えて俺は結構味には五月蠅いぜ?」


「嘘お言いでないよ。

口に入るものなら、何でも食べるじゃないか」


透かさずあやめからツッコミが入る。


大分落ち着いてきたようだ。


「大人たちの中で、酒が飲めない者はいるか?」


「酒があるのか?

こいつは楽しみだぜ」


源がかなり喜んでいる。


「皆飲めるみたいだな。

ああ、菊乃はまだ子供だから、他の物を出そう」


「え?

私、もう15ですが」


「そうなのか?

でも、何れにしてもまだ早い。

その代わり、今まで飲んだ事のないものを出してやる」


「本当ですか?

楽しみです」


和也は、紫桜とテーブルを挟んだちょうど対面に腰を下ろす。


未だに紫桜が少し睨んでいるが、大広間全体に浄化魔法を掛け、皆の服や手も奇麗に殺菌しておく。


それから、各自のテーブルの前に、木製の長方形の板と杯、醤油皿、菊乃と紫桜の前には、木製のコップも出現させる。


何もない所から、いきなり皿や杯などが出てきた事に、紫桜達三人の女性以外は驚くが、構わずに料理を載せ始める。


先ずは、タイ、ヒラメ、コハダ、ハマチ、サバの白身系から。


杯に大吟醸を注ぎ、菊乃のコップには、絞りたての100%オレンジジュースを注いでやる。


板の端には、鋼鮫で擦り下ろした山葵を添える。


「さあ、遠慮なく食べるが良い。

手で食べた方が良いな。

お前達の手は既に浄化してある」


「これは、・・もしかして寿司か?」


源が酷く驚いている。


他の皆も同様だ。


「そうだ。

やはり知ってはいるのか」


「ああ。

ガキの頃、偶に食った事がある程度だが。

本国でも、かなりのご馳走の部類に入る。

・・いきなり出てきたが、これも全部魔法で転移してるのか?」


「企業秘密だ」


「企業?」


「商店という意味に近いな」


「お前、ちりめん問屋じゃなかったのかよ?」


「あれは挨拶の言葉だろう」


「はあ?

・・まあ良いや。

姫様、どうぞ召し上がって下さい」


領主である紫桜が口にするまでは、誰も食べようとしない。


「ええ。

では、・・頂きます」


僅かに頭を下げ、3本の指を上手に使い、食べ始める。


「!!

・・美味しい。

凄く美味しい。

皆も食べて。

本当に美味しいから」


彼女の言葉に、其々が寿司に手を出す。


「・・これは美味い。

こんなの本国にもねえぞ」


「!!

本当に美味しい。

ただ魚を切っただけじゃないね」


「当たり前だ。

熟練の職人の技を参考にさせて貰った」


先日連れて行って貰った寿司屋の職人の技を、仕込みに遡って拝見し、それをそのままトレースしているのだ。


尤も、シャリの握り加減までは、彼らに遠く及ばないであろうが。


他の皆は一言も喋らず、黙々と食べている。


10貫の寿司が直ぐになくなる。


次は、カツオ、アジ、ブリを出す。


もう、誰も話などせず、黙々と食べ始める。


更に、本マグロの赤身、中トロ、大トロ。


おっと、ガリを出すのを忘れていた。


板の端、山葵の隣に一つまみ添える。


源が堪らず酒に手を出す。


「・・何だこれ。

本当に酒なのか?

こんな美味い酒がこの世にあるのか?」


源の反応に、菊乃を除いた他の皆も、思い出したように杯を傾ける。


上品な香り高さと、重過ぎず、口の中をすっきりとさせる、極上の味わい。


「・・これ、何ていうお酒なんですか?」


余程気に入ったのか、志野が尋ねてくる。


「田んぼの酒(銘柄をぼかしている)の大吟醸だ。

米だけで作る、魚料理に適した銘柄だ」


「・・もしかして、蔵にあるお酒も?」


「全部が同じ銘柄ではないが、当然ある」


「菊乃、ジュースの味はどうだ?」


さっきから、無言で飲み食いに専念している彼女にも尋ねてみる。


「ジュースっていうんですか、これ?

凄く美味しいです。

爽やかな酸味が、身体に染み渡ります」


「気に入ったか?」


「はい」


締めにバフンウニ、イクラ、ネギトロの軍艦巻きと、煮アナゴを1本出す。


「これで大体一通りだな。

あと、イカ、ボタンエビなどもあるが、今まで出したネタで、まだ食べたい物があれば、遠慮なく言うが良い」


杯が空になる度に、その者に魔力で酒を注ぎ足しながら、和也は勧める。


「まだあるのか?

・・全部?」


「勿論だ。

言ったであろう。

遠慮なく、腹一杯食べるが良い」


源が半信半疑で尋ねた言葉に、当たり前のように答える和也。


そこからは皆、満腹で暫く動けなくなるまで食べるのであった。



 「とても美味しかったです。

こんなに美味しいものを頂いたのは初めて。

蔵への貢物といい、御剣殿には何とお礼を言ったら良いか・・。

・・つきましては、1つお願いがあるのですが」


食後に出したお茶を飲み終え、お腹が少し落ち着いた紫桜が、遠慮がちに言ってくる。


「蔵に入れた物資は君にやった物だ。

好きに使うと良い。

・・村の皆にも、分けてあげたいのだろう?」


「!!」


食事中、皆喜んで食べていたが、時折、何かを考えている者達がいた。


恐らく、自分が食べている美味しいものを、他の誰かにも食べさせてやりたかったのだろう。


菊乃は母親がいると言っていたし、喜三郎という男もそうだ。


「自分がここに居る間は、海の魚など、幾らでも獲ってきてやるし、明日からは、村人にもちょっとしたイベント、お祭りの意味だ、を考えている。

・・ここは君が預かる島だ。

思った通りにやると良い」


「・・有難うございます」


頭を下げる紫桜の目には、涙が少し滲んでいた。



 お開きになり、和也は部屋を出る前に、忘れていた事を思い出す。


「紫桜に土産だ」


そう言うと、彼女が座る上座の床の間に、100個の石鹸と、同数のタオルを積み上げる。


「それから、これは皆に」


六人の前に、今日食べた寿司ネタが全て入った折り詰めと、石鹸とタオルを2つずつ置く。


「では、またその内な」


そう言って、和也は自らに宛がわれた家へと帰って行った。



 それから数時間後、和也が家で今後の事を考えていると、戸を遠慮がちに叩く音がする。


「御剣殿、居りますか?」


気配と声から、志野である事が分る。


「どうした?」


和也が戸を開けると、何かを思い詰めたような彼女が立っている。


「中に入れて貰えますか?」


いつもは玄関先で用件だけを告げる彼女が、珍しくそんな事を言ってきた。


「ああ。

まだ何もないがな」


家に彼女を招き入れると、志野は、草履を脱ぎ、奥の部屋へと入って行く。


何をしたいのか訝る和也の前で、彼女は徐に着物を脱ぎ始めた。


衣擦れの音をさせながら、手際良く全てを脱いだ彼女の前で、呆然とそれを見ている和也。


「・・一体、何をしている?」


「貴方に抱かれに来ました。

初めてなのでよく分りませんが、お好きになさって結構です」


目を伏せ、淡々とそう告げる志野。


訳が分らず、とりあえず、話をする事にする。


「いきなり何故そんな事を言う?

ついこの間まで、そんな素振りは見せなかったではないか」


「この島では、私達姫様の側用人は、子供を作る義務があります。

姫様をお守りする、次世代の者を生む必要があるのです。

私達も、火狐と戦っている以上、何時死ぬか分りません。

そうでなくても、御屋形様のように、奴らの毒が身体に回り、満足に動けなくなっていく日もそう遠くはないかもしれない。

だからその前に、子を設ける必要があるのです。

・・今までは、私達に子ができて、その間戦う事ができなければ、それだけ奴らを倒せる可能性が減るのと、あまり豊かではない状態で、姫様にご負担をおかけするのが忍びなく、控えておりました。

ですが、貴方がこの島にやって来て、食料事情は当面の心配がなくなりましたし、地下住居の完成の目処が立ちましたので、あやめさんとも相談し、二人で作る事にしました。

・・あやめさんには、源という夫がおりますが、私には決まった相手がおりません。

ですから、姫様にあれ程の笑顔を下さった貴方に、抱かれたいと思います。

貴方もお若いから、そういった処理が大変でしょうし」


あくまでも淡々と、感情を交えずにそう告げる志野。


「だが、君は自分の事を好きな訳ではないのだろう?」


「そうですね。

勿論嫌いではありませんが、今は好感が持てるという程度ですね」


「では、止めておこう。

君にも何れ、心から愛する者ができるかもしれない。

後で後悔しないためにも、その時まで、取って置く方が良い」


「・・据え膳食わぬは男の恥と言いますが、こんな傷だらけの身体では、その気になりませんか?」


そう言われて、改めて彼女の身体を見る。


肌の至る処に、火狐のものと思われる、爪でひっかかれたような傷跡がある。


「そんな事はない。

君は十分に綺麗だ。

だが、やはり今は止めておく。

君も、あまり自棄になるな。

島の問題は、何れ必ず、何とかなるだろうから」


「・・その言葉を信じましょう」


暫く和也を見つめていた志野は、脱いだ服を着直すと、静かに家から出て行った。




 「ちょっと聴いても良い?

貴方って、菊乃の事が好きなの?」


深夜、例によって風呂にやって来た紫桜は、いきなりそう尋ねてくる。


「随分唐突だな。

そうだと言ったらどうする積りだ?」


目に見えて落ち込む彼女に対し、慌てて付け加える。


「冗談だ。

色々辛い思いをしてきたようだから、気にかけているだけだ」


「意地悪して・・。

でも、・・良かった」


かけ湯をして湯に入り、和也の隣に座った彼女は、ぴったりと身を寄せてきて、話し始めた。


「・・彼女はここへ来た当初、随分酷い状態だった。

向こうで相当嫌な目に遭ったのでしょうね。

母親以外とは陸に話もせず、人に近付く事を極端に恐れていた。

ただ、訓練には凄く熱心に参加していたわ。

母親があまり身体が丈夫ではないみたいで、その分も頑張る積りだったのでしょうね。

きつい基礎訓練も、人の倍もこなして、初めの頃は皆で心配していたのよ。

潰れてしまうのではないかって。

でも、何がそこまで彼女の心を強くしたのかは分らないけれど、2年経つ頃には、既に十分戦力として数えられるまでになった。

どちらかというと近接戦闘向きの源さんや喜三郎さん、志野さんと違って、彼女は小さい身体をフルに活かして、遠距離からの投擲攻撃を得意としていた。

だから、皆のサポートをして戦う事ができたのね。

去年の初陣では、新人としては異例の、1体を仕留めた。

それが自信に繋がったのか、最近の上達ぶりは目を見張るものがあるわ。

他の精鋭の皆も、人一倍頑張る彼女に好意的で、そのせいもあって、彼女は大分明るくなって、他の人ともよく話をするようになってきたの」


「そうか」


『入り口の門を潜る時、生き残る以外の希望は捨てたはずなのに』


彼女が言っていた言葉を思い出す。


平和であっても、陸に食べる物がなく、日々飢えと闘いながら生きる者。


食物には困らなくても、命の危険に晒されながら、毎日を過ごす者。


平和で豊かな世界でも、天災や不治の病、他人からの妬みや中傷にさえ、苦しむ者がいる。


この世には、まだまだ人を苦しめるものの方が断然多い。


世界が上手く回るように、人や動物達の数を適正に管理する事をしない以上、ある程度は仕方のない事ではあるが、少しやるせなさを感じていた和也の顔に、物理的な影が差す。


視界が少し陰るのに気が付いた和也の唇に、紫桜がそっと口づけてきた。


しっとりとした、柔らかい唇が、和也のそれを丁寧に包み込む。


目を見開いて、至近距離から見る紫桜の顔は、湯に浸かっているせいか、ほんのりと桜色に染まっていた。


「貢物と、今回のご馳走のお礼よ。

初めてだから、それなりの価値が有ると思うわ」


暫くして、ゆっくりと唇を離した彼女は、目線を僅かに逸らしながら、小声でそう言ってくる。


「料金にしては、大分多過ぎる気がするが・・」


「そう?

じゃあ、お釣りを貰うわね」


そう言って、再度唇を重ねてくる紫桜であった。



  朝早いこの地に合わせ、まだ薄暗い田舎道を、和也は養鶏場まで歩く。


鶏だけあって早くから活動し始めた彼らに、餌となる粟や稗を撒いていく。


その後、養鶏場の看板の隣に立て札を建てる。


『君も、御剣養鶏場で、卵や野菜を貰って僕と握手』


立て札には、そう書いてある。


そして、参加者が来るまでの間、これからの事をぼんやりと考え始めた。


ここで紫桜達に必要なものを配るにしても、地球で若夫婦のために毎月野菜を購入するにしても、魔法で創るのでなければ、何をするにもその世界のお金が必要になる。


元々、お金は魔法で創る事を戒めているが、食べ物やその他の物品も、できる事なら魔法で創らず、人が生産したものを買った方が世のためになる。


あの夫婦のように、熱意を持って真面目に励んでも、必ずしも良い結果が出るとは限らない。


お金に困って、本当にやりたい事から仕方なく離れてしまう者は大勢いる。


陸な努力もせず、行き当たりばったりの行動しかしない者まで助ける気は更々無いが、夢を叶えるために、自分の大切な何かを我慢してまで励む者には、時には少しばかりの手助けをしても良いのではないか。


そのためには、なるべくなら、そういった者達に援助ができるように、お金をより沢山持っていた方が良い。


先日の競馬を思い出し、あの世界のお金を定期的に稼ぐためにも、月に何度かは足を運んで、現金をプールしておいた方が良いのかもしれないと考え始めた。


どういう理屈かは知らないが、ダンジョンでモンスターを倒せば、お金が出てくる訳ではないのだから。


そこまで考えた時、前回と同じ視線を感じた。


振り向くと、果たして菊乃が不思議そうな顔をして、こちらを見ていた。


「何しているのですか?」


突然でき上がっていた養鶏場と魚の養殖池に酷く驚きながらも、立て板の文言の意味が分らずに、尋ねてくる菊乃。


「村人と親睦を深めるための、イベントを催している」


「・・卵や野菜を配って、皆さんと仲良くなりたいのですか?」


「少し違うな。

この立て札の文言のポイントは、『僕と握手』にある。

別に、自分がスターだとか言っている積りはないぞ」


「スター?」


「有名人とか、輝いている特別な人、くらいの意味だな」


「それなら、その通りじゃないですか。

私にとっての貴方は、とても輝いている特別な人です」


「・・言ってて恥ずかしくはないのか?」


「でも本当の事ですから。

私にも、このイベントの参加資格が有るのでしょうか?」


「勿論だ。

景品は1日1回しか渡してあげられないが、握手なら何回でも良いぞ」


「本当ですか?

じゃあ、お願いします」


そう言って、握手のための手を差し出してくる菊乃。


和也は力強くその手を握り締め、頭を撫でてやる。


途端に、菊乃が目を大きく見開く。


どうやら、このイベントの真の意味に気が付いたようだ。


「・・もしかして、私達『穢れし者』に、触れて下さるために?」


和也が微笑みながら、僅かに頷くと、彼女は我慢できずにボロボロと泣き出した。


そして、握手している手を振り解いて、和也に抱き付いてくる。


「戦闘では大活躍したみたいだが、まだまだ泣き虫だな」


自由になった両手で、菊乃を優しく抱き締めてやる。


「知りません。

・・貴方が、いけないんです」


この地に来て、周囲の優しさに触れ、少しずつ以前の心を取り戻してきた菊乃。


泣ける時は、我慢せずに、思い切り泣くが良い。


その後に、少しでも心が晴れるなら、幾らでも泣くと良い。


きっとその涙は、心の澱を洗い流すのに、なくてはならないものなのだから。



 「御免なさい。

またご迷惑をおかけして」


暫く経ってから、やっと和也を放した菊乃は、彼の前で何度も泣いた自分が恥ずかしいのか、俯いて、照れたような声を出した。


「気にするな。

迷惑などではない。

それより、ほら、景品だ」


何処から出したのか、その手に卵とサツマイモを持っている。


「有難うございます。

・・そういえば、昨日のお礼もまだちゃんと言っていませんでした。

ご馳走様でした。

本当に美味しかったです。

お土産を頂いた母も、『美味しい、美味しい』って、大喜びで食べていました。

母の笑顔を見たのは、随分久し振りです」


「嬉しい事を言ってくれるお客さんには、御負けしてやろう。

これも持っていけ」


卵をもう1つと、カボチャをつける。


「わあっ!

卵なんて、ここに来てから初めてです。

景品はもう要りませんから、明日もまたここに来て、握手して貰っても良いですか?」


「勿論良いが、景品はきちんと受け取るように。

これも大切なお仕事なのだ」


「・・貴方を見てると、本国での事が、まるで夢のように思えてきます。

どちらも同じ人間なのに、・・不思議ですね」


「気をつけて帰れよ」


「子供じゃありませんよ、もう。

明日もまた、ここに居て下さいね」


そう言って、笑顔で帰って行く菊乃。


人一倍辛い事を経験してきたからこそ、時折見せるその笑顔が、より眩しく見える。


今日という日が、彼女にとって良い1日になる事を、心から願う和也であった。



 ・・・可笑しい。


何故、誰も来ない?


菊乃が来た後は、昼になっても誰も来なかった。


人一人通らない。


仕方がないので、領主屋敷まで出向き、紫桜と昼飯でも食べる事にした。



 あの後、恋愛経験値の不足から、満足に言葉もかけてやれない和也に対し、紫桜は、和也の首に両腕を回し、その身体をしっかりと抱き締めながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「これからは、わたくしに会いに来る時でも、一々目通りの手続きを踏まなくて良いわ。

普通に会いに来て。

貴方がわたくしに向かって、畏まって頭を下げてくるの、何だか他人行儀で嫌なんだもの。

そうしたとしても、貴方には、もう誰も文句を言う人はいないわ。

源さんも、あやめさんも、志野さんでさえ、貴方には一目も二目も置いている。

尤も、菊乃だけは、違う意味で貴方に懐いているみたいだけどね」


最後の言葉だけ、他とはトーンの異なる言い方をして、紫桜は和也を放す。


「・・ねえ、これからは、『和也さん』って呼んでも良い?」


「好きに呼んでくれて良いぞ。

自分も君を呼び捨てにしているしな」


「嬉しい。

・・何時か、もっと別の呼び方ができるようになる日を、・・待ってるわ」


「?

今じゃ駄目なのか?」


「・・ええ。

その様子だと、もう少し時間がかかるかしらね」


少し呆れたように、そう言ってくる紫桜。


それからは、お互いに何も喋らず、湯の流れる音だけを聞きながら、二人、寄り添っていた。



 「頼もう」


「どうれ」


「・・・」


そう言いながら奥から出てきたあやめに、和也は言葉が出ない。


「何だい、何かお言いよ。

相手してあげた私が馬鹿みたいじゃないか」


「・・いや、まさか本当に言ってくるとは思わなかった。

言ってて恥ずかしくないのか?」


「あ・ん・た・ねえ!

もしかして、私を馬鹿にして遊んでいたのかい?」


あやめの口元がひくひく動いている。


「そんな事はない。

自分の知っている挨拶の言葉を使って、相手がどういう反応をするか、観察していただけだ」


「それを遊んでいると言うんだよ!」


「・・何を玄関先で喚いているの?

奥まで聞こえてくるわよ?」


紫桜が奥から出てくる。


「姫様、いけません。

こんな所まで出ていらしては。

何かあったらどうなさるお積りですか」


「何もないわよ。

大体、和也さんがその気なら、何処に居たって同じでしょう?」


「・・『和也さん』?

何で名前でお呼びに?」


「和也さんはこの島の恩人ですもの。

別にそれくらい構わないでしょう?」


「・・そうですね。

まあ、姫様がそう仰るなら」


「それで、どんなご用件かしら?」


紫桜が尋ねてくる。


「ちょっと相談がある。

昼飯でも食べながら、話を聞いてくれないか?

卵焼きと焼き魚でどうだ?」


「卵ですか?

それは嬉しいですね。

是非ご一緒させて下さい。

さ、奥へどうぞ」


「君も食べるだろう?

他にも人がいれば、呼んで良いぞ」


あやめにも、そう声をかける。


「では、遠慮なく。

志野も呼んで参ります」


そう言って、玄関から出て行くあやめを見送り、紫桜と二人で広間で待つ。


「話って何なの?」


「実は、今日の朝からずっと、借りた土地に作った養鶏場で人が来るのを待っていたのだが、早朝に菊乃が来た以外は、昼まで誰も通らなかったのだ。

もしかして、自分は避けられているのだろうか?」


「養鶏場?

あの川原に?

1日で造ったの?」


「ああ。

そこで、村人を対象にしたイベントをやっているのだが、菊乃以外、誰も来なくてな。

何故なのか、理由を知りたいのだ」


「時間が悪いんですよ」


そこへ、あやめと志野がやって来る。


「時間?」


志野の言葉に聞き返す和也。


「ええ。

村の西側にある川原までは結構な距離がある上、あの辺りには共同浴場くらいしかありません。

村人達は、午後の4時くらいまで畑仕事や地下住居の作業に従事していますから、浴場を使うのは夕方以降です。

菊乃は、体力作りのために、毎朝あの辺りまで走っているそうですから」


「成る程。

確かに一番近い畑まで1㎞近くあるな。

でも、ここの住人は朝の散歩すらしないのか?」


「皆が皆、貴方のように暇ではないのです」


「失礼な。

自分だってやる事は沢山あるのだ」


「どんな?」


「散歩、昼寝、食事、風呂、あとは、・・考える事くらいだな」


「「「・・・」」」


「・・め、飯にしよう」


部屋全体を浄化で包み、テーブルの、皆が座る場所の前に木製の食器を並べ、料理を盛り付けていく。


ご飯、味噌汁、卵焼き、ヤマメの塩焼き、海苔、キュウリの浅漬け。


「昨晩も思いましたが、貴方がいると、さぞ、家事が楽でしょうね。

上げ膳、据え膳、料理を作る手間すら要らないのですから。

一体どうなっているのでしょうね?」


「細かい事は気にするな。

さあ、腹一杯食べてくれ」


「とっても美味しそう。

では、頂きましょう」


紫桜の一声で、和やかな食事が始まるのであった。



 昼食後、気を取り直して養鶏場まで戻って来る。


夕方までの間の時間潰しに、再び思考に沈む和也。


競馬も良いが、それだけでは不十分だな。


効率よく稼ぐためには、競馬は中央競馬に限る。


地方競馬は観客数も馬券自体の購入金額もかなり中央競馬に劣る上、何度も高額の馬券を換金すれば、かなり目立つ。


中央競馬のように、全国に馬券売り場があれば、各地を転々とするだけで、あまり目立つ事はない。


券売機では換金できない高額的中馬券も、窓口で直接換金すれば、ネットで購入し、銀行振り込みで配当を受け取る場合のような、足が付く事もない(国税局には大変申し訳ないが)。


だが、基本的に土、日しかやっていないため、回数が限られる上、いつも土、日に時間が空いているとも限らない。


やはり、もう1つくらいは、お金を稼ぐ手段を作っておいた方が良い。


・・ただ、自分が考えている手段を用いるには、どうしても、実存する人間の戸籍が必要になる。


どうしたものかな。


魚の養殖池に時折魔法で餌を撒き、池の底に産卵に適した水草などを整えながら、色々と考えていた和也の下に、待望の参加者がやって来たのは、それから間も無くの事であった。

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