第16話
「フフフッ、何か良い事がお有りになったようですわね?」
和也が王宮の自分の部屋に入ると、仕事を終え、共に食事に行こうと待っていたエリカに、いきなりそう告げられる。
「また覗こうとでもしていたのか?」
苦笑交じりにそう和也が問うと、『その仰りようは、まるでわたくしがいつも覗いているみたいではありませんか。わたくしの名誉のために言わせていただきますが、あの時が初めてですし、今回も覗いてはおりません』と、少し口を尖らせるような仕種を見せ、抗議するエリカ。
だが直ぐに機嫌を直して、悪戯めいた表情で和也に尋ねる。
「またどなたかを妻にお迎えしたのですか?」
「・・エリカ、お前は自分の事を何だと思っている?
そんなに節操なしに見えるのか?」
「あなたが女性に対して手が早いかどうかはともかく、お持てになるのは事実ですから。
女性からの押しに弱い所も。
嬉しそうにされていたので、またお仲間が増えたのかと思いました。
何度も申しますが、わたくしは、その事に喜んでいるのですよ?」
「・・仲間が増えたというか、増えるかもしれない、という所だな。
将来的に、向こうにまだその気があれば、眷族の一員として迎える約束をした。
自分の居城のある惑星にな」
「ご自分の城ですか?」
「そうだ。
エリカにはまだ言ってなかったかもしれないが、異空間に自分専用の惑星を1つ創り、そこに城を持っている」
「惑星というのは、この間、お母様達と一緒に見た星の事ですよね?
あのような大きな星が、1つ丸ごとあなた専用なのですか?」
「そうだ。
長く一人で居たからな。
自分の心を和ませてくれる、美しいものだけを集めて、気を紛わせていた」
「・・今夜は、いつもよりじっくりと愛し合いましょうね?」
慈愛に満ちた表情で、そう告げるエリカ。
「別に寂しくなんてなかったぞ」
「神だからといって、全てにおいて完全無欠である必要はありません。
あなたが長い年月で感じてきたもの、孤独に磨かれ、羨望に彩られたその思いこそが、あなたの限りない優しさの源泉なのですから。
神でありながら、人としての心の弱さも兼ね備えたそんなあなただからこそ、わたくしがあなたに、して差し上げられる事があるのですから」
和也の強がりを微笑ましく感じながら、エリカはそう言って、ベットを椅子代わりに座る和也の隣に腰を下ろす。
和也の首にゆっくりと両腕を回し、その頭を抱き寄せるようにして、エリカは和也を包み込むような口づけをする。
和也の唇に自身のものを重ね、吸い付き、その柔らかな舌で彼の唇を割り割いて、熱い吐息と甘い唾液で以って、心ゆくまでその口内を堪能するエリカ。
「お母様達をお待たせしているでしょうから、続きは夕食の後に」
囁くようにそう言って、頷いて立ち上がる和也の腕に自身の腕を絡めると、二人で部屋を出て行った。
家族揃っての晩餐。
あと何回できるか分らないけれど、自分の引継ぎの仕事と、身の回りの整理が終わるまでは、エリカは家族との時間も大切にしたかった。
責任ある立場と、忙しい職務を言い訳にせず、自分に惜しみない愛情を注いでくれた両親。
どんな時でも自分の意見と幸せを優先してくれた。
唯一の例外は、対外的にそうせざるを得なかったエレナの処遇くらいだ。
そんな両親を、エリカは心から信頼しているし、愛してもいる。
尤も、和也の出現により、その順位が2番目になってしまったけれど、そんなの関係ない。
和也と両親とで囲む食事の席は、今のエリカの大のお気に入り。
たった1つの不満は、給仕の中にエレナが居ない事だが、それすら将来的には彼が何とかしてくれるだろう。
食後の紅茶を楽しみながら、他愛無い会話に花を咲かせる。
他国の王族の接待などではうんざりするこの行為も、大切な人との間なら、こんなにも心満たされる。
願わくば、わたくしがいなくなった後も、両親に、この素敵な時間が訪れますように。
「出かけてくる」
行為の余韻を楽しみつつ、眠りに落ちようとしていたエリカに、和也はそっと、その頭を撫でながら告げる。
「朝食は如何なさいますか?」
薄く開かれた瞼を通して、エリカが尋ねてくる。
「済まないが、三人で済ませてくれ」
「・・お土産は、美味しいパンでお願いしますね」
「何故分った?」
「こんな時間にお出かけなんて、場所は限られてしまいますから」
「他の女の所かもしれないぞ?」
手玉に取られているようで、少し反撃を試みる和也。
「フフッ、まだそのような余力がお有りなのですね?
ではこれからは今の倍、可愛がって下さいね?」
「・・ほんの冗談だ。
昼食に、焼き立てを買って来よう」
冗談に聞こえないエリカの願いに、直ぐに白旗を揚げる和也。
「意地悪したお返しに、あなたのベットにたっぷりと、わたくしの匂いを付けさせていただきます。
他の女性を連れ込めないように」
「自分はそこまで勇者ではないぞ」
「?」
苦笑交じりにそう告げる、和也の言葉の意味が、今一つ分らないエリカであった。
王宮を出て、地平線から顔を出そうとする太陽の光を薄く浴びながら、パン屋への道を歩く。
あの
市場の屋台とは少し離れた、住宅街の外れにある一軒家と作業場。
周りの家からは少し距離があり、作業場と思しき古びたレンガ造りの平屋の脇には、竈に使う薪が大量に積んである。
換気と明かり取りのための小さな窓からは、既に作業を始めているらしく、蝋燭の炎が淡く揺れ動いていた。
足音を立てずにそっと近寄り、小窓から中の様子を窺う。
案の定、彼女が一人で一生懸命生地を捏ねていた。
木製の大きな作業台は、長い年月を経て、使い込まれて磨かれて、良い味を醸し出している。
既に幾つものパンが焼かれ、広めの作業場に、香ばしい、良い匂いが漂っていた。
娯楽として取り入れた中でも、物を食するという行為が殊の外お気に入りになりつつある和也は、その香りに我慢できずに、作業を邪魔しないように終わるまで待とうとした初心を見失い、情けなくも作業場の扉を軽く叩いた。
「誰?」
一心不乱に生地と格闘していた彼女が、びっくりしたように尋ねてくる。
「邪魔して済まない。
香ばしい匂いに我慢できなくてな。
できれば焼き立てを1つ、売って貰えないか?」
時間が時間故、少し警戒するように薄く扉を開いた彼女は、声の主が和也だと知るや、勢い良く扉を開けて、その場で涙ぐんだ。
「こんなに早く、もう一度お会いできるなんて。
・・私のような者に、色々とお心遣いを頂いて、本当に有難うございます」
両手を口元にあて、感激で声を詰まらせながら、言葉を搾り出す彼女。
「自分をそんなに卑下してはいけない。
君の作るパンは、本当に素晴らしいのだから。
・・売って貰えるか?」
穏やかにそう応え、先の問いに対する返事を伺う和也。
「どうぞお入りになって下さい。
1つと言わず、幾らでも差し上げます。
貴方は私の大切な、本当に大切な”お客様”ですから」
自分を室内に招き入れようとする彼女に対し、和也は自身に浄化の魔法を掛けてから応じる。
この時代に、そこまで衛生面に気を配る必要はないが、ここは彼女の仕事場であり、食べ物を製作する場所なのだ。
礼儀として、そうする必要性を感じた。
「今、パンのお供に、お茶のご用意を致しますね。
何が宜しいですか?」
「紅茶があればそれで。
でも作業中なのではないか?
あまり時間を取らせる積りはないが」
「・・そんな事を仰らないで下さい。
今の私には、この掛け替えの無い時間の方が、遥かに大切なのです。
もう直ぐ、エリカ様とこの国をお発ちになるのでしょう?
次は何時お会いできるか分りませんから、せめて今この時間だけでも大事にしたいのです。
パンは後で、幾らでも作れますから。
・・こんな事を言ったら、職人失格でしょうか?」
自分の言葉が恥ずかしいのか、俯きながらそう言って、上目使いに和也を見つめてくる。
あまり人付き合いがないようだし、話し相手が欲しいのかもしれないな。
そう思い、和也は彼女の勧めに応じようとするが、作業台の上に、彼女がそれまで頑張って捏ねていた生地を見つけ、また、竈の近くには、焼かれるのを待っている幾つものパンの型を目にし、少しお節介を焼く事にする。
「暫くこの部屋の時間を止める。
自分達の行動に影響はないが、部屋の内部にあるものには時の経過が及ばない。
パン生地も、焼くのを待つだけのものにも、全て今この時と同じ状態がずっと保たれる。
勿論、部屋に流れる時間そのものも停止するから、何時間過ごそうが、自分が魔法を解除するまで時が進まない。
市場に行く時間に遅れないようにな。
・・これで、多少はゆっくりできる」
和也が魔法を行使すると、竈の炎が動きを止め、立ち昇る煙が固まった。
それでいて、自分達は自由に動く事ができ、お湯を沸かす事さえ可能だ。
一体どれ程の魔法が行使されたのか想像もつかないが、彼女にとっては、そのような事は些事に過ぎない。
今の彼女にとって、和也と共に過ごす時間ほど、大切なものはないのだから。
誰かと一緒にお茶を飲むなんて、両親と別れて以来、初めての事だ。
私がやっと一人前のパン職人になって、独り立ちできるようになると、両親はさっさと他の国に行ってしまった。
どんなに努力しても、工房の職人のようには扱って貰えず、いつまでも軽く見られている事に、嫌気が差したのだろう。
私も誘われたが、あの時はまだ、外の世界に出る勇気がなかった。
人に認めて貰えなくても、自分が納得できるものを作れれば、それで良いとも思っていた。
・・それから約10年。
両親の残した家と屋台を引き継ぎ、店主として人前に出るようになって初めて、彼らの気持ちが少し分るようになってきた。
決して自分を褒めて欲しい訳ではない。
でも、精魂込めて作ったものだからこそ、お客さんの笑顔や感想が欲しかった。
『美味しかった』の一言でもあれば、どんなに励みになっただろう。
だが現実は、『値段が高い』とか、『無駄に品数が多くて迷う』なんていうような、厳しいものばかりだった。
元々エルフ族は食が細く、食べ物にはあまり拘らない性質だが、私は、彼らは人生の何分の1かを損していると思っている。
仕事に疲れた時、温かい飲み物と美味しいパンで過ごす休憩時間は、私の大のお気に入り。
焼き立ての芳醇なパンの香りが鼻腔をくすぐり、その美味しさが疲れた身体に染み渡る、あの感覚が大好きだ。
そんな細やかな楽しみで以って、何とかモチベーションを保っていたけれど、いい加減心が乾いてきた、そんな時、彼に出会った。
真っ黒な身なりで、近隣では見かけない漆黒の髪と瞳。
周りから奇異の目で見られる事に、少し寂しげな印象を受けた。
いつもなら、こちらからお客さんに声をかけたりはしない。
でもあの時は、不思議とそうするのが当たり前のような感覚を受けた。
実際、頑張って声をかけてみたら、気のせいかもしれないけれど、少し嬉しそうに見えたもの。
その後の、彼からかけていただいた言葉の数々を、私は決して忘れない。
消えかけていた私の心の
そしてあの光景。
光輝く白銀の鎧を身に纏い、尋常ではない存在に思える六人の精霊達を周囲に侍らせながら、天高く、エルクレールの兵士達を見下ろすお姿。
あまりの神々しさに、無意識に跪きそうになるのを懸命に堪えながら、彼の勇姿を1つも洩らさないように瞼に焼き付けた。
更には、全てが終わった後の、私に対するあの贈り物。
市場で少し話しただけの、取るに足らない平民の私に、あんな素敵な看板を描いて下さった。
まるで私の娘が(勿論、私はまだそんな歳ではないし、恋もした事のない私に、娘などいるはずもないが)、私の焼いたパンを、嬉しそうに何処かに届けているような、そんな思いを抱かせる、温かな絵。
作業場に積まれていた金貨は、暫く使う積りはない。
何時か、彼の為に役立てられる時が来るまで、大切に取っておこう。
彼の為に焼くパンに、もうお金など取れないから。
・・やっぱり、職人失格かもしれないわね、フフフッ。
静かな室内で、お湯の沸いた音が、私の意識を呼び戻す。
さあ、彼に美味しいパンを食べて貰わなくては。
「お待たせ致しました。
紅茶は少し蒸らす必要がございますが、先にパンをお召し上がり下さい。
パンはこちらで宜しいですか?」
先日、彼に頂いたアドバイスを基に、木の実や果実を練りこんだ新作を、幾つか作ってみた。
彼を自分が使っている休憩用の小さなテーブルに案内しながら、その中の1つをお出ししてみる。
「有難う。
幾らだ?」
「貴方様からお金など頂けません」
「精魂込めて仕事をされた物には、それなりの・・」
「それでもです!」
和也のお決まりの台詞を、何時になく強い口調で遮る彼女。
「・・済みません。
でも、これは私にとって、とても大切な事なのです」
外見からは少し意外に感じる程の強い口調で自らの言葉を遮られ、呆気に取られた和也に、謝罪する彼女。
「お金を頂いてしまっては、貴方様は私にとって、とても大切な御方とはいえ、お客さんの一人になってしまいます。
今の私には、それが耐えられないのです。
店主とお客という、形式的な関係ではなく、もっと別の、特別の関係が欲しい。
例えば、貴方様を敬う信者とか、恐れ多くも、友人としてとか。
・・私なんかでは、その、・・贅沢過ぎる望みでしょうか?」
普段あまり人と話さず、相手が和也だという事もあり、緊張でがちがちになりながら、俯いてそう告げる彼女。
「だがそれでは、自分が大量に君のパンが欲しい時、貰うのを躊躇ってしまう。
それと、自分の事を、『なんか』なんて言ってはいけない。
それは、自分の可能性と努力を、諦めてしまった者が使う言葉だ。
前向きに仕事に励んでいる君には相応しくない」
どう解決しようか考えながら、出してくれたパンを2つに割って、その内の1つを、自分が作ったこの店のロゴ入りの袋(神として、助けた者に授ける物とは、絵柄が若干異なる)の上に置き、残りにかぶりつく和也。
甘い蜂蜜と香ばしい木の実、果物の酸味が其々を邪魔する事なく口内に溢れ、外側はカリっと、それでいて中はもっちりとしたパンは、噛むごとに味が増してゆく。
しかも、焼き立てを、その場で頬張れるのだ。
食べるという行為の喜びを、美味しいパンと共に噛み締めていると、彼女が自分を、正確にはパンの下に敷いている袋を凝視しているのに気が付いた。
「どうした?」
「あの、その袋は、貴方様がお作りになったものですか?」
「これか?
・・そうだが、不味かったか?」
「いえ、とても素敵です。
もしかして、まだ沢山お持ちなのですか?」
「いや、必要な時にその場で作っているので、予備という意味では他に持っていないが」
「あの、でしたら、これからはパンの代金の代わりにその袋を頂けませんか?」
「それは構わないが、それでは君の作るパンに釣り合わないだろう?」
「そんな事はありません。
是非、お願い致します」
和也は少し考える。
当人がそれで良いと言うならとも思うが、自分が貰う量の事も考慮する。
一度に何十、何百と貰おうとした時、果たしてそれで彼女は大丈夫なのだろうか?
自分のように、無からパンを作れる訳ではない。
小麦、木の実などの材料、パンを焼くための薪などを、自分で用意せねばならないし、何より、彼女がかける情熱と労力に対して、申し訳ない。
・・そうだな、あれなら良いだろう。
「この袋が欲しいなら、何時でも欲しいだけ差し出そう。
だがそれだけでは駄目だ。
今後長きに渡り、数え切れない程のパンを貰うかもしれない。
だから君には、【豊穣の庭】の権利を与えよう」
「【豊穣の庭】、ですか?
それは一体どのようなものでしょうか?」
「君が望む時、何時でも、何処でも、目の前に扉が現れる。
効果の程は、実際に入ってみれば分るだろう」
そう言うと、和也は自分で扉を出現させる。
いきなり目の前に、銀色に輝く両開きの扉が現れ、驚く彼女。
和也に扉を開くように言われ、恐る恐る開けてみると・・・。
言葉がなかった。
扉の向こうに、別の世界が広がっている。
何処までも澄んだ青い空。
薪に最適の木々の林の側を小川が流れ、そこには、仕込みに欠かせない清く澄んだ水が流れている。
林と川を隔てた反対側には、豊かな土壌の畑が一面に広がり、様々な野菜や果物が、今が食べ頃の実を付けていた。
どのくらいの広さがあるのだろう?
住宅街全部より広いかもしれない。
中に足を踏み入れ、畑の野菜や果物を見て回る。
どれも見るからに美味しそうで、少なくとも、この国の市場などではお目にかかれないものばかりだ。
我慢できずに、その1つを捥いで口に運ぶ。
『美味しい!!』
何これ、野菜がこんなに美味しいなんて知らなかった。
今度は見知らぬ果物に手を出す。
甘酸っぱい味と香りが口一杯に広がる。
『・・世の中には、私の知らない美味しい物が、まだ沢山あるのね』
食べ物の美味しさが、身体に染み渡っていく。
ああ、この瞬間、私は生きていると実感できるわ。
両親の作ってくれたパンを初めて食べた時、美味しくて、自然と笑顔になった。
美味しいパンを食べていた、家族皆が笑顔だった。
やっぱり、美味しい物には、人を幸せにさせる力がある。
あの人が、言っていた通り・・。
そこまで考えて、彼女は、その当人を置き去りにしていた事に気付く。
振り向くと、扉の入り口で、自分を優しく見つめる彼と目が合った。
慌てて駆け戻り、お詫びする。
「済みません。
つい夢中になってしまって。
・・何ですかこれ?
俗に言う、楽園というものでしょうか?」
「いや、単なる君専用の食料庫だ。
その時君が欲しいとイメージする食材が、扉を開ける度に現れる。
何度でも、尽きる事なく。
薪が欲しいと望んで開ければ、作る品に最適の火力や香りを出す木材が、薪となって積まれているだろう。
今は自分が考えた食材になっているがな」
興奮して、いつもの控え目な彼女からは想像もできない程、言葉に力強さがあるのを嬉しく思いながら、そう告げる和也。
「そんな事って・・。
・・あの、本当にこれを下さるのですか?
パンの代金などでは、とても釣り合いが取れませんが」
「今後どれだけ貰うか想像もつかないからな。
せめて材料費だけでも負担したい。
それに、何にどれだけの価値を付けるかはその者次第。
自分には、君の作るパンに、このくらいの価値はあるのだ」
・・嬉しい。
本当に、本当に、心から嬉しい。
自分を認めてくれる言葉を、1番かけて欲しい人から、直にかけて貰えた喜び。
駄目、もう我慢できない。
こんな素敵な贈り物を頂いた後でも、もう一度だけお尋ねしたい。
「私は、これから死ぬまでずっと、貴方様の為にパンを作り続けていきたいです。
できれば、貴方様の為だけに。
職人としては失格ですが、貴方様にだけ、他の人とは違う、何か特別な事がしたいです。
・・私を、貴方様の信者の一人として、迎え入れては下さいませんか?」
先程の、高揚した気分から出た力強い言葉ではなく、拒絶されるかもしれない不安を抱えた、弱々しい響き。
それでいて、その背後に並々ならぬ彼女の決意が透けて見える。
「・・信仰とは、その者の内心の自由に関するもの。
自分にはそれをどうこう指図はできない。
それに、君とはそのような堅苦しい関係でいたくはない。
前にも言ったと思うが、美味しい物は人の心を豊かにし、疲れた者には
君の住むこの世界はまだ未熟で、世の中には、不安や苦しみ、悲しみが溢れ、人はその中で、何かに縋って懸命に生きている。
夢、希望、愛しい者達。
そしてもしその中に、美味しい物が加われば、それらは更に輝きを増し、人に笑顔が増えるだろう。
大切な人にだけ、特別に作る何か。
それは確かに必要だ。
だが、多くの人を笑顔にできる力のある君には、我の為だけではなく、この世界で歯を食いしばって生きている、弱き者、貧しき者にも手を差し伸べて欲しい。
精一杯努力して、明日への道を切り開いていく者達の、生き甲斐の1つとなって欲しい。
・・これはあくまで我の願いであり、勿論、君に強制できるものではない。
だから、君の望みを、我の願いと共に叶える道を用意しよう」
そう言って、和也がかざした右の掌に光が集まる。
やがてそれは小さな1つのリングとなって、和也の掌に納まった。
「このリングは我が眷族の証。
我と共に永劫の時を生き、我が居城への門を開く鍵。
君があと200年程、この世界のために働いてくれた後に、それでもまだ我の為にパンを作ってくれるという気持ちが残っているのなら、その時は喜んで君を眷族として迎え入れよう。
それでどうだろうか?」
「私を貴方様の僕にして下さるのですか?」
「僕ではなく、我が星の住人、仲間としてな」
「・・あと200年、これまで通り、パンを作るだけで宜しいのですか?」
「それでも良いが、折角なら、様々な料理や菓子なども手がけてみてはどうだろう。
そのためのレシピはこちらで用意するし、君の独創性を試してみるのも良い。
暑い夏には果物の瑞々しさが喉を潤し、寒い冬には手間隙かけた煮込み料理が、身体を
親しき友との語らいや、気心知れた者との集まりでは、お茶と共に食べる甘い菓子類が、会話を更に弾ませてくれるだろう。
食の世界は奥深く、様々な可能性と喜びに満ちている。
人には叶わぬ長き生を謳歌するのであれば、1つの事を極めたその先に広がる、新たな世界を旅し続ける事もまた、選択の1つではないかと思う」
「200年・・貴方様を知る前の私なら、何て事のない年月だったでしょう。
ですが今は、その期間が果てしない時の彼方に感じられます。
けれど、その時間が私の、貴方様を思う心の証明になるというのなら、励んでみせます。
一人でも多くの方に、私のパンを食べていただけるように。
仮令僅かでも、何かを感じていただけるように。
ですから、時が来たら、必ず迎えに来て下さいね?」
「このリングは君の意志で発動する。
君がこの世界で、もうやり残した事がないと思えた時、リングに思いを込めれば、君の前に光り輝く門が現れる。
それ以外では、君の生命を脅かすような状況に陥った時にも、同様の現象が起こる。
我の我が儘で徒に君を待たせるような事はしない。
もし耐えられなくなったなら、何時でも好きな時に来るが良い」
彼女の不安を打ち消すための言葉をかけながら、その右手を取り、薬指にリングを嵌める和也。
「そういえば、まだ名前も聞いてなかったな。
我は御剣和也。
君の名を、教えて貰えるか?」
「アンリと申します。
・・御剣様、私のご主人様」
至近距離から和也に見つめられ、白い素肌をほんのり朱色に染めてそう答えるアンリ。
最後に可笑しな事を言われたような気がしたが、気にせず言葉を付け加える。
「我がこれまで見てきた料理、スイーツのレシピを数百冊の本にして、このリングの中に入れておく。
リングに手を添え読みたいジャンルを念じれば、何時でも取り出せるし、逆に、収納もできる」
「スイーツとは何ですか?」
「こことは異なるとある世界で、君のようなうら若い女性を虜にしている、甘い菓子類の総称だ」
「御剣様もお好きなのですか?」
「・・君に授けたレシピは皆、これまで我が様々な世界で見てきたものの中で、自分でも食べてみたいと思えたものばかりだ」
アンリから少し視線を逸らし、気不味げにそう伝える和也。
『つまり、私に作って欲しいという事ですよね?』
「嬉しいです。
一生懸命練習しますね!」
満面の笑顔でそう告げてくるアンリを、照れくさそうに見つめながら、自身が彼女のパンを分け与えた者達に、思いを馳せる和也であった。
ここで、彼女のその後についても少し触れておこう。
天性の才能に加え、和也という心の支えと、【豊穣の庭】という物的援助を得たアンリは、僅か数年で、近隣諸国にその名を馳せる事になる。
そのきっかけの1つは、セレーニア王宮が、他国の王族や貴族を接待した際に、その会食や晩餐の席で、アンリの作ったパンやスイーツを出した事ではあるが、何よりもその名を世に知らしめたのは、とある不思議な現象によるものであった。
何時の頃からか、市場のアンリの屋台の前で、突然、何かに撃ち抜かれたかのように、足を止める者が出た。
身なりも職種も様々なその者達には、1つだけ共通点があった。
先ず、和也が描いた屋台の絵柄をまじまじと見て、次に、恐る恐る目当てのパンを注文すると、震える手を懸命に抑えながら、その場でパンを齧る。
そして暫く噛み締めた後、皆一様に静かな涙を流すのである。
活気溢れる市場の屋台街のその場所だけが、まるで時が止まったかのように静寂に満ち、旅人が流す涙を際立たせる。
そう、彼らは皆、和也によって救われた者達である。
本当に辛かった時、生死の境を彷徨った時、心からの願いが叶った時。
神による奇跡のその傍らに、数枚の金貨と共に、控え目に置かれていた数個のパン。
溢れる涙と共に、がむしゃらに頬張ったそのパンの味を、忘れた者は一人もいなかった。
何処の誰が作ったとも知れない、決して華美な装飾など施されてもいない、一見何の変哲もない只のパン。
だが、噛み締める度に口の中に広がる旨み、その味と共に浮かんでくる様々な記憶や思い出、喜び、悲しみ、愛おしさ。
それら全てがパンの味を際立たせる。
神の恩寵を感じさせる。
それへと至るたった1つの手掛かりは、パンが包まれていた包装紙に描かれた、可愛らしいロゴの絵柄のみ。
かの者達は、その袋を大切に折りたたみ、肌身離さず持ち歩いていたのだ。
そんな彼らを見て、アンリもまた、目頭が熱くなる。
自分の作ったパンの感想が欲しい。
そう思っていた事が、遠い昔のように感じられる。
私が真に欲しかったのは、そんな事ではないと、今なら分る。
連綿と続く人々の営みの中で、決して出しゃばらず、ただ控え目に、その記憶や思い出に、私のパンが寄り添えれば良い。
それは何処か信仰にも似ている。
御剣様を想い、ただひたすらに生地を捏ねる。
それが他の人の幸せに繋がるというのなら、他に何も望むものはない。
私は今、とても充実しています。
『貴方が私に学んで欲しかった事は、求めていた道は、そういう事なのですよね、”ご主人様”?』
余談ではあるが、アンリの屋台で時々、一瞬で全てのパンが消える事がある。
偶然その場に居合わせた者達は、自分達がパンを買えない事を気にもせず、何処かの世界で違った意味で使われる、とある言葉を叫んだ。
神の奇跡を間近で見れた幸運と、この瞬間にも何処かで誰かが救われている事を意味して、誰が最初に言ったのかは定かでないが、彼らはこう叫んだ。
「GOD BLESS YOU !」
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