第15話

 そろそろ他の兵士達が戻って来る時間だというので、まだ仕事の残っていたマリーと別れ、和也は王宮へと一旦戻った。


自室に入ると、自分の気配を感じたエリカから念話が送られてくる。


『今は少し暇なので、そちらにお伺いしても宜しいですか?』


『構わん。

少し話もあるし』


『マリー将軍の事ですね?

では、直ぐにお伺い致しますね』


5分もしないで扉を軽やかに叩く音がする。


返事をすると、エリカが悪戯っぽく笑いながら入ってきた。


「マリー将軍を抱いたのでしょう?」


「いきなりそれか。

・・何で分った?」


「御免なさい。

お仕事の合間、息抜きに、あなたが今何をしてるのかこっそり覗こうとしたら、プロテクトが掛かっていたので、人に見られては不味い事をしてるのかな、なんて思いまして」


自分のした悪戯を白状しながら、嬉しそうに笑うエリカ。


「自分との関係がより深まるにつれ、念話だけでなく、相手の居場所や、その場の映像までも見る事が可能になる。

更にはその会話内容まで。

・・あれだけ回数を重ねていればそろそろだろうと思って、用心したまでだ。

自分は良くても、相手には失礼な時もあるしな」


「1つお尋ねしますが、それはあなたの眷族同士の間でも起こる事ですか?

その、身体を重ねずとも、仲良くなればそうなるのでしょうか?」


「いや、あくまで自分と他の眷族の間でしか起こらん。

それも、念話以上の、居場所の特定や映像の閲覧などは、自分の妻となった眷族限定だ」


「それを聞いて安心致しました。

仲間とはいえ他の男性に、仮令それが睦言でなくても、わたくしとの事を見られるのは、やはり嫌ですから」


「エリカはまだ自分(和也)というものを分っていないようだな。

自分はな、お前だけは特別なんだ。

勿論、他の妻達も大切にするし、ほとんどの点ではその扱いはエリカと同じだ。

だがな、死ぬ事を許さない、自分の側を離れる事を認めないという点では、決定的な違いがある。

エリカ以外は、自己の選択で死ぬ事も可能だから。

そんなお前との事を、自分がおいそれと他人に見せると思うか?

エリカを抱く時は、仮令他の妻であっても見せん」


余程大事な事なのか、珍しく少し感情的になる和也。


そんな和也に愛しさが溢れて、エリカは内心では和也を抱き締めながらも、気になった点を聴いておく。


「わたくしの事はともかく、何故他の妻となる方にはそのような扱いを?」


「死ねるという事か?

果てしなく長い、生きる事を苦痛に感じるような年月の果てに、自分に愛想を尽かした時にまでその者を縛り続けるのは、それまで自分に尽くしてくれた妻に対して失礼だと思ったからだ」


「あなたって、とことんネガティブなのですね。

ご自分を過小評価し過ぎだと、何度も言ってますのに。

・・生きる事に疲れてきたら、皆で1億年くらいお昼寝すれば良いではありませんか。

いつも気を張る必要などないのです。

休んだり、嫌な事から目を背ける事があっても良いではありませんか。

強さや能力の大きさは、人より頑張らなくてはいけない理由にはなりません。

周囲の期待に応え続ける事は立派だとは思いますが、それはあくまでご自分が望んでそうしてる時のお話。

ともすれば、無責任になりがちな他人の期待に応え続けても、それが全て良い方に傾くとは限らない。

自分では何もしない、無気力で怠惰な人を生んでしまう事もある」


恵まれ過ぎた容姿と、王女としての高い地位から、幼い頃からそういう経験を幾度となくしてきたのであろう。


エリカの言葉には、和也でさえ聞き入る程の含蓄があった。


「あなたなら、そうして適度に心を休めてさえいれば、わたくし以外の女性でも、必ず、ずっと付いて来て下さいます。

寧ろ、わたくし達の方こそ、あなたに愛想を尽かされないよう頑張らなくてはいけない存在なのだから。

・・これからは、妻となる方にそんなお気遣いは要らないと思いますよ。

マリー将軍、怒っていたでしょう?」


「確かに、その機能だけは要らないと言ってたな」


「機能ですか?

何のです?」


「結婚指輪のだ。

エリカに贈った物とは大分異なり、実用性の高い物でしかないが、それだけに、妻達を守るには十分過ぎる程の性能を有している」


「わたくしのこの指輪には、どのような効果が?」


「済まない、言ってなかったか?

それには、空間障壁、魔力の泉、物質変換の3つの魔法が仕込んである。

空間障壁は、文字通りエリカを守る障壁だ。

お前の同意なしには、自分以外、如何なる物質、魔法、存在も、半径2m以内には近寄れない。

それが命を脅かす可能性がある時は、仮令エリカが同意したとしても、近寄る事は不可能だ。

魔力の泉は、使う側から使った分の魔力が溢れ出し、結果的に、無尽蔵に魔法を放てるものだ。

物質変換は、所謂変身機能だな。

お前が思い描く事が可能な衣装、装備を、瞬時に身に着ける事ができる。

ただ、衣装に関しては、そのデザインが未だ存在しないものでも可能だが、素材は現に存在するものに限られる。

装備はデザイン、素材とも現存する物だけだ。

自分の物質変換はあらゆる面で無制限だが、エリカのものには制限を付けておいた。

何を創り出すか想像もつかないからな。

また、物質変換に際しては、どこぞの世界のヒロインのように、一旦裸になどなりはしないから安心してくれ。

エリカの裸身は、自分以外の異性には決して見せん」


「有難うございます。

わたくしの裸身はともかく、空間障壁は少し過保護のような気が致しますが、それだけあなたに愛されていると思って宜しいのですよね?」


「コメントを控える」


照れたように、あらぬ方向を見遣りながら言う和也。


「あら、それは身体に聞いて欲しいという事でしょうか?」


「お、お手柔らかに頼む」


「フフッ、夜が楽しみですね」


話している内容とは、まるで異なる無垢な笑み。


和也に抱かれ、純潔を失った後でも、こういう笑顔ができる所が、エリカの魅力の1つでもある。


その容姿、性格、声音、仕種の1つ1つが、和也の琴線に触れまくる。


その匂い、温かさ、柔らかさは和也を捉えて放さない。


エリカとは、そういう存在なのだ。


「・・話が逸れてしまったが、マリー将軍を妻の一人として迎え入れた事を、エリカに伝えておこうと思った。

昨日の今日で早過ぎるかとも考えたが、彼女の気持ちを知ってしまった以上、無下にできなかった。

済まない」


「謝る必要などないと、昨夜お伝えしたではありませんか。

わたくしは嬉しいのです。

あなたが、そういう人でいて下さる事が。

ご自分から見れば、取るに足らない、わたくし達のような存在にまで、心を砕いて下さる事が。

そ・れ・に、わたくし一人だけでは、あなたの夜のお相手は、とても務まりませんから」


右手の人差し指を、軽やかに和也の前で振りながら、悪戯っぽくそう告げるエリカ。


折角の彼女の心遣いに、和也は、『そんな事はないだろう』という言葉は、胸の中に終っておいた。



 『夕食の時間は、いつもより少し遅くなります』という言葉を残し、まだ仕事の途中であったエリカは、職務に戻っていった。


夕闇が空に広がり始めた頃、和也は部屋を出て、ミューズの店へと足を運ぶ。


相変わらず殺風景な店構えだが、和也が刻んだ文言は、やがてくる繁栄を約束するかのように、輝きを放っている。


音も立てずに扉を開け、彼女が居るであろう作業場へと足を踏み入れると、案の定、何かに取り憑かれた様に、一心不乱に作業をするミューズが居た。


心なしか、少し窶れて見える。


自分の中にあるイメージを、思うように表現できないもどかしさ、苛立ちが、こちらまで伝わってくるようだ。


そんなミューズを気配を殺して眺めていると、少し開かれた飾り窓から、まるでミューズを労わるように、そよ風が吹き抜け、彼女の髪を優しく撫でていった。


何気なく、風の行方を目で追ったミューズと視線が合う。


暫くして、状況を把握したのか、弾かれたようにミューズが立ち上がった。


「・・御剣様。

またいらしていただけたのですね。

とても嬉しいです。

壁に刻んでいただいたお言葉、有難うございます。

私には勿体ないくらいのお言葉ですが、店の看板として、それに恥じないように努力して参ります。

神様とは知らずに、先日はご無礼致しました。

・・あの、実はまだ、お渡しする作品ができておりません。

申し訳ありません。

どうか、今暫くお待ちいただけないでしょうか?」


突然和也を目にして、狼狽えて、考えが纏まらないままに、どうにか口を開くミューズ。


ただ、作品ができていない事は、本当に申し訳なさそうに、消え入りそうな声で告げてきた。


「ミューズ、あれからまだ幾らも経ってないが、少し窶れたな。

無理をするな。

急ぐ必要はないのだ。

納得のいくまで、どんなに時間をかけても良い。

最高の品をプレゼントしてくれるのだろう?

100年や200年くらい、平気で待つ」


ゆっくりとミューズに近付いていきながら、穏やかに話す和也。


「でも、御剣様はエリカ様と、この国をお出になるのでしょう?

それまでにお渡しできなければ、次は何時お会いできるか分りませんし。

・・私には、時間が無いのです」


「二度と戻らぬ訳ではないし、何より、君が本当に作りたいものは他にあるのだろう?」


「え?

何故それを?」


「そう遠くない未来、君がそれに着手できる日が必ず来る。

それまでは、君のもう1つの希望であった事に、精を出してみてはどうかな」


ミューズの問いには直接答えず、それが叶う事だけ伝える和也。


「でもあれは、着手し始めてから完成まで、少なくとも100年はかかるはずです。

・・それまで、待っていて下さいますか?」


「言ったであろう。

100年や200年、平気で待つと。

良いものを作るには時間がかかるものだ。

焦らず、じっくりと、納得のいくまで励むと良い」


神としてミューズに接しているため、口調が自然と神のそれになるが、その声音は、荘厳というより、ミューズを労わる優しさに溢れている。


時間のない中、焦燥と、最高のものを作らねばという重圧に、押し潰されそうになっていたミューズの心と表情から、思い詰めた者に見られる暗い陰りが取れる。


「貴方は、何でそんなにお優しいのですか?

本当に、泣きたくなるくらいに・・」


泣くのを必死で耐えてはいるが、あくまで、その表情を笑顔に見せようと努力しながら、和也にそう問いかけるミューズ。


「自分が優しい訳ではない。

自分を優しいと感じる、君の心が優しいのだ。

人は、自分の中にあるものでしか、自らを表現できない。

他者に向ける感情もまた同じ。

自分へ感じるその思いは、そのまま君の心の中にもあるものだ。

今君が感じている、その気持ちを大切に育てて欲しい。

それはやがて、君の人生にも、仕事にも、その全てにおいて生きてくる。

君ならきっと、できるはずだ」


「・・少しだけ、胸をお借りしても宜しいですか?」


「ああ」


二人を隔てる僅かな距離を、ゆっくりと詰めて、その泣き顔を和也に見せぬよう、静かに抱き付いてくるミューズ。


暫くの間、飾り窓から差し込む、今日の別れを惜しんでいるような夕日と、ミューズが時折洩らす、すすり泣きの音だけが、本来殺風景なはずの作業場に、穏やかで、心地良い時間を与えていた。



 「ではな。

何時か見る君の作品を楽しみにしている」


落ち着いたミューズがその抱擁を解き、恥ずかしさで下を向きながら、自分からゆっくり離れると、和也はそうミューズに告げて去ろうとする。


「・・また、お会いできますか?」


「大丈夫だ。

君の事は、仮令直接会わずとも、遠くからでも時折見ているから」


「そんなの・・嫌です」


「?

覗くような真似をされる事がか?」


「違います!

・・もう、御剣様とお会いできないかもしれない事がです」


「?

君が自分に贈ってくれる積りの作品は、手渡しできるようなものではないし、他に何か自分に用事があるのか?」


「理由がなくては、お会いしたいと思ってはいけませんか?

仮令100年に一度でも、ほんの僅かな時間でも、御剣様にお会いしたい。

私のような者が、そう思ってはいけないでしょうか?」


ミューズの口調は穏やかだが、その瞳には何かしらの強い決意の光がある。


「・・もしかして、自分に好意を寄せてくれているのか?」


「そうお伝えしている積りなのですが、分り辛かったでしょうか?

初めての経験なので、うまく言葉にできなくて。

申し訳ありません」


ちょっと困惑したように、そう告げてくる。


「君はまだ若くて、美しい。

これからの長い人生で、君だけを想ってくれる、素敵な男性に巡り合う事もあるだろう。

君の気持ちは嬉しいが、一時の感情で、相手を決めてしまわなくても良いのではないかな?」


「ご迷惑でしたか?

・・神様に想いをお伝えしても、報われない事くらい分っていました。

でも、どうしてもお伝えしたかった。

私の気持ちを知っておいて欲しかった。

これから私が御剣様の為に作ろうとしているものは、その想いの結晶だから。

自分の生命いのちを削ってでも、表現したいものだから。

何年掛かるか分らない、私の人生の全てだから。

もし完成したら、死んでも良い。

だからその前に、心残りだけは作らないように、敢えてお伝えしました。

・・これで、何の未練もありません。

その時が来たら、全力で励めます」


目尻に先程の涙の後が残ってはいても、満面の笑顔でそう告げるミューズ。


ただ、あらゆる偽りを許さない和也の眼には、彼女の心の奥底に、無理やり溶け込もうとしている想いの残滓が見える。


このまま何もせずにミューズと別れても、彼女は決して自分を恨みはしない。


だが、それは今の自分が許さない。


今の自分は、人々の営みを遠くから羨ましそうに眺めていた傍観者ではないのだ。


生命の息吹感じる、その暮らしの只中にいる当事者なのだ。


それが世界に大きな影響を及ぼさぬのなら、少しくらい我が儘であっても良い。


ならば、我が道を行こう。


我が通る道は、人々の幸せに通じる道だと信じて。


「ミューズ、君はまだ、この世界でやりたい事がある。

芸術家としても、人としても、多くの経験を積み、様々な事を体験して、君の人としての器を高めて欲しくもある。

・・ここで1つ、君に問おう。

もしそれらを終えたその先に、新たな世界の扉があるとしたら、君はそれを開きたいと願うか?」


「それはどんな世界なのですか?」


「あらゆる面で、我が美しいと思うものしか存在しない、それ故に、少し歪かもしれないが、我にとっては心休まる世界。

何より、我が居城がある。

ただし、今はまだ他に住人が居なくてな。

今後増えていく予定ではあるが。

住人となる条件は、我が眷族となる事のみ。

そんな世界だ」


「・・神様の一員になるという事ですか?」


「人でなくなるという点ではそうだ。

初めは大した力を持たぬであろうがな。

それでも、我が眷族に相応しい、それなりの能力を与える。

我との念話や、星々でさえ瞬時に移動できる転移能力、不老不死、万能言語能力、魔力の泉・・そんな所だな。

勿論、眷族になったからといって、果たすべき義務はない。

強いて言えば、眷属間で危害を加えるような攻撃ができないくらいで、あとは自由に過ごしてくれて良い」


「念話とは何ですか?」


「どんなに離れていても、心で念じるだけで、我と会話ができるものだ」


「!!

・・もしかして、眷族になれば、御剣様とお会いできる機会が有りますか?」


「我に用事がない時であれば、何時でも会えるが」


「!!!

なります。

いえ、是非お願い致します。

御剣様の眷族に迎え入れて下さい」


「・・今直ぐではないぞ?

君が果たすべき事をしたその後に、君が望めば、だぞ?」


「勿論、それで結構です」


予想外のミューズのテンションの高さに、押され気味になる和也。


「思い切ってお伝えして良かった。

こんなに素敵な未来に繋がるなんて。

有難うございます。

私、今この瞬間を決して忘れません」


やっと心から笑えているミューズを見て、和也もまた、嬉しくなる。


あの時の、彼女の手の温もりを思い出しながら。


「では、約束の印を渡しておこう」


そう言って和也が掌をかざすと、そこに光が集まって、1つの小さなリングが生まれる。


それをミューズの右手の薬指に嵌めながら、説明を加える。


「君がもう人としてやるべき事が無くなったと感じた時、若しくは人の生に飽きたり、生命の危険を感じたりした時、このリングに転生への思いを込めれば、君の目の前に光り輝く扉が開かれる。

君にしか見えない、君だけが入る事のできる扉だ。

それが作り出す空間に足を踏み入れれば、君は我が眷族となり、我が世界に招待される。

ただし、それまでの過程で、君にその気が無くなったり、他に大切な人ができて、その者と共に歩みたいと願った時は、このリングはひとりでに消滅する。

それまでは、決して外したり、壊したりする事ができない」


和也にリングを嵌められた右手を、胸の前で大事そうに左手で包み込み、その説明に聞き入るミューズ。


「では、達者でな。

作品ができた時、一度見に来る」


「またお会いできる日を楽しみに、励んで参ります。

『私の大切な、愛しいご主人様』

そして、何時の日かきっと・・・」


ミューズの柔らかな声音を背に受けて、和也は、夜の帳が下りようとしている王宮への道を歩き始めた。



 ここで、以後のミューズについて、少し語っておこう。


10年後、とある少女を教皇とする異例の人事を以って、セレーニア王国に、主神、御剣を信仰する教団、「蒼き光」が誕生する。


国民には信教の自由を保障しつつも、王家の人間は必ず洗礼を受ける事が義務づけられたその宗教の大聖堂の建設に当たって、建設費用の全てを負担するセレーニア王家は、一人の女性を、その内部の装飾責任者、及び御剣神の神像製作者に指名する。


その女性は、既に装飾品の職人として、近隣諸国に名を馳せ、名声を欲しいままにしていたが、指名されるや否や、本来の仕事は二の次にして、その時間の大部分を大聖堂の仕事に当てた。


完成まで実に200年を費やしたその大聖堂は、教団の信者だけではなく、セレーニア王国随一の観光名所として多くの旅行者を集め、王国の貴重な収入源ともなる。


中でも圧巻なのは、製作者が生命を削って作ったとまで言われる、主神、御剣像である。


ブロンズをベースに、様々な宝石や貴金属を用いて、御剣神と、それを取り囲むようにして配置された6体の精霊王達を表現したそれは、目にした者に、仮令それが信者でなくとも、深い畏敬の念を与えずにはいられない、傑作という言葉さえ、陳腐に思えてくる作品である。


のちの世に、世界中で多数の信者を獲得し、最大教団として君臨する「蒼き光」の、その礎を築いたとされる二人の人物、その内の一人が、神像製作者ミューズである。


彼女の晩年については、曖昧な記録しか残されていない。


その生死が不明であるのが理由である。


大聖堂が完成した1ヶ月後、店の権利と、その財産の大半をセレーニア王家に寄付したミューズは、更にその数日後、まるで消えてしまったかのように、忽然とその姿を消した。


彼女の作品の熱烈な愛好家達が必死に探し回ったが、その痕跡すら摑めなかった。


事情を知っていそうな人物もいるにはいたが、その者達は決してその事に言及せず、後に同様に姿を消してしまう。


そんな彼女達の事を、いつしか人々は、こう噂するようになった。


『彼女達は、神の国に召されたのだ』と。



 ミューズについては、もう1つだけ、語らなければならない事がある。


それは、彼女が蒔いた、幸せの種についてだ。


大聖堂の建設を1年後に控えた頃、神が太鼓判を押した店として、また、その繊細かつ優美な造形から、近隣諸国の貴族や富豪達に絶大な人気を博していた彼女の店に、一人の少年が訪れた。


見るからに平民の、少し薄汚れた、10代後半くらいの少年。


明らかに場違いなその少年は、店の入り口から、こっそり中を覗くような仕種を見せて、他の客の顰蹙を買っていた。


見かねたミューズが、『遠慮なく見ていって』と優しく声をかけると、暫く躊躇った後、おずおずと中に入ってきた少年は、ケースに陳列された作品の中から、1つのブローチに目を留めた。


店のロゴとして、今やこの店の代名詞にもなっている、白鳥をモチーフにしたブローチ。


小振りだが、白鳥の持つ可愛らしさと優雅さ、清純さを兼ね備え、自分が贈ろうとしている女性ひとにぴったりのイメージだった。


でも、そこに添えられていた、その商品の値段と思われる文字を見て、諦めざるを得なかった。


少年が、1年かけて死に物狂いで貯めた予算の5倍以上の金額だったからだ。


早くに親に死なれ、親戚の家をたらい回しにされながら、その中で培ってきた勤勉さ、謙虚さを頼りに、朝も昼も夜も懸命に働いた。


好きな食べ物も我慢して、人の嫌がる仕事も率先して引き受けた。


けれど、何の後ろ盾もない、大人として見ても貰えない少年が手にする金額は、いつも少なかった。


ある時、それについて少し文句を言ったら、『お前みたいなのを雇ってやるだけ有難いと思え』と、逆に怒られた。


思えば、親に死なれて以来、人に褒めて貰った事が無い。


今は一人暮らしだが、親戚の家で世話になってた頃は、稼いだ金の半分を家に入れても、仕事を終え、くたくたになって帰って来た自分を待っていたものは、その家の家族達によって食べ尽くされた後の、残り物だった。


そんな中で、仕事先で出会った女性に淡い思いを抱くようになり、その女性がこの店の事を話題にしていたので、ここの商品を贈って、一度だけ、自分の想いを伝えてみようとしたのだ。


それで駄目なら、もう何も望まず、期待せず、静かに暮らしてゆこう、そう思って。


でも、それすらも叶わなかった。


人生における賭けにすら、参加する事さえできなかった。


他の客が眉を顰めて自分を見てる。


薄汚れ、希望を失い、項垂れている自分を。


・・帰ろう。


少年は、絶望に打ちひしがれ、動きが鈍くなった身体を引きずるようにして店を出た。


「待って」


今の自分を見られたくなくて、近くの路地裏で気持ちが治まるのを待とうとした時、背後から優しい声がした。


その声があまりに優し過ぎて、自分にかけられたものではないと歩みを止めなかったが、再度、そう声をかけられて、ゆっくりと振り向く。


そこに、先程の店の女主人が居た。


「少しお話させてくれない?」


「あの、先程は何も買わずに店を出て、済みませんでした。

恥ずかしながら、僕なんかに買える金額ではなくて。

その事でしたら謝ります」


そう言って、頭を下げる。


「違うわ。

そんな事気にしないで。

誰かにプレゼントしたかったのよね?

良かったら、どんな人にあげたかったのか聞いても良い?」


意外な事を言われ、俯いていた顔を上げ、その人の目を見る。


優しく、温かな眼だ。


こんな眼で見られたのは何時以来だろう。


ミューズの眼差しに、心を覆う氷がほんの少し溶けた少年は、自分が贈りたい相手の事、どうして贈ろうとしたのか等を、たどたどしく語り出す。


「・・手を見せてくれる?」


話を聞き終えたミューズは、徐にそう言った。


少年は戸惑った。


自分の手は、決して奇麗なものではないから。


どうしようか迷っていると、彼女の両手が優しく自分の右手を包み、思わず握り締めた掌を、ゆっくりと開かせる。


まだ年若い少年の手とは思えない、ごつごつした皮膚。


そこに存在する、あかぎれ、やけど跡、擦り傷、そして血肉刺。


ありとあらゆる傷跡が、少年の手を、まるで壮年の逞しい男の如く見せていた。


「・・こんなにまでして稼いだお金で、私の商品を買おうとしてくれたのよね?

大事な人の為に、選んでくれたのよね?

・・有難う。

とても嬉しいわ」


そう言って、その掌に、自分の店のロゴが入った小箱を載せるミューズ。


信じられない言葉を聞きながら、少年が半信半疑でその小箱を開けると、自分が先程目に留めたあの白鳥のブローチが、淡い光を放ちながら、まるで買ってくれた自分を見て喜んでいるかのように、そこにあった。


「あの、済みません。

先程もお伝えした通り、お金が全然足りなくて、とても買える金額ではないのです」


驚きと同時に、不安を口にする少年に対し、ミューズは尋ねる。


「ご予算は、お幾らくらいかしら?」


少年は、恥じ入りながらも正直に答える。


「・・金貨2枚です」


「それで十分」


「でも、金貨10枚と書いてありました!」


「良いの。

私はね、自分の作った作品を、自分が納得のいく人に売りたいの。

それにね、私は思うの。

価値あるものは、何もお金だけではないわ。

貴方のその手が教えてくれる。

そのお金を稼ぐために、貴方がどれだけ頑張ったのかを。

きっと、色々な事を我慢してまで、貯めてくれたのよね?

貴方が働いて流した汗、辛い時に耐えた涙、その1つ1つにお金と同じ価値がある。

少なくとも、私はそう思うわ。

それにね、足りない分は、もう神様から頂いているの。

だから、金貨2枚で良いわ」


少年は、もう涙を堪える事ができなかった。


歯を食いしばり、大声を上げる事は辛うじて耐えたが、時々漏れ出る嗚咽だけはどうしようもなかった。


どんなに頑張っても報われない、誰も自分を気にかけてくれない。


今この時まで、そう思っていた。


だけど、こんなにも自分に優しくしてくれる人がいた。


自分を認めてくれる人がいた。


心に湧き上がる、この喜び、この幸福感を、僕は一生忘れない。


有難う。


本当に有難う。


貴女のお陰で、自分のこれまでの人生に、初めて意味があったと感じられました。


少年が泣き止み、落ち着いてから、ブローチの代金をミューズに支払うと、彼女は銀貨を1枚取り出して、少年に握らせる。


「これは、商品をご購入いただいたお客様に対するサービス。

本当は現物を渡せれば良いのだけれど、焼き立ての方が絶対に美味しいから。

市場に行って、可愛いエルフの子供の絵が描いてあるお店を探して、そこでパンを買って食べてみて。

きっと気に入ってくれるはずよ。

他のお客様をお待たせしているから、もう行くね。

私の商品を買ってくれて有難う」


明るい笑顔を残して去っていくミューズに、少年は、礼儀正しく頭を下げ、心の中で感謝し切れない想いを大切に胸に刻みつけていた。



 少年はその後、教えられた店を探してパンを買う。


ここでは、その事については詳しく記さないが、ミューズの店同様、少年の人生を変える何かがあった事は確かだ。


その証拠に、自分の国に帰った少年の顔つきは、国を出る前とは、明らかに異なっていた。


そして少年は、ブローチを直ぐには目当ての女性に渡さなかった。


自分がこのブローチを贈るに相応しい人物になるまで、ミューズのブローチが軽く見られないようにするため、自分の想いを我慢して仕事に励んだ。


それから2年の時を経て、少年は自分の店を持つ。


初めは少年一人だけの、小さな店に過ぎなかったその店は、10年後、その国1番の大店おおだなになり、20年後には、近隣諸国の貴族でさえ、その顔色を窺うまでに成長する。


何故か。


少年はあの時、真の優しさが、一体どれ程人の心を打つものなのかを学んだ。


どんなに心に響くものなのかを、身を以って体験した。


それをそのまま、商売に移したからだ。


身なりが悪くとも、僅かしか買わずとも、客に対して一切の差別をせずに、最大の誠意で以って応対した。


少しずつ増えていった従業員に対しても、同様な扱いをした。


自分がされてきた扱いが、人にどう思われるのかは十分に理解している。


その上で、人を大切に思い、尊重する行為が、どれ程の効果を生むのかも学んだ。


当時はあり得なかったボーナス、つまり年2回の、業績に付随した特別報酬や、有給休暇、家族手当まで、従業員を大切にする制度を次々に創設し(これには、とある宗教の経典が絡んでいるが)、優秀な社員の獲得に成功しつつ、社員のやる気を最大限にまで高めた。


更には、取引先にまで、この概念を取り入れる。


取引のある農家が、凶作で約束の商品を納められない時は、その納付を待つばかりか、無利子で資金を貸し付け、その生活を保障し、その家の子供達が、資金難から奴隷に売られる事を防いだ。


豊作で、商品の値段が下がっている時も、決して値切りはしなかった。


逆に、予想以上に質の良いものができれば、約束の値段より、僅かではあるが高く買い取った。


自分達が丹精込めて育てた作物を、少しでも安く買い叩こうとする商人がほとんどの、この時代、この世界で、そんな事をすればどうなるか。


自分の仕事に誇りを持ち、真剣に仕事に打ち込んでいる農家、生産者ほど、少年の起こした店と、取引を望むようになる。


当然、そこから送られてくる作物や商品は、皆押しなべて品質が良い。


人々は、少年の店に日々行列を作った。



 後の世で、商売の神様とまで言われるようになる少年の話はこれで終わるが、また何処かで語られる事もあるだろう。


巨額の財を成し、憧れていた女性と結婚して、人生が180度逆転した少年は、建設の始まったセレーニア大聖堂に毎年多額の寄付金を出し、その足で、ミューズの店と市場のパン屋に顔を出しては、店主二人と語らうのをとても楽しんでいた。


その彼が、口癖のように言っていた言葉がある。


少年の家の家訓として、今も家族だけでなく、従業員にまで反芻されているその言葉は、以下の通りである。


『言葉は人の心を映し出す鏡。

信念を体現する行動は、その者の名刺代わり。

思い遣り、誠意こそが、人を動かす最大の武器となる』

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