第11話

 確実にエリカ王女を手に入れるべく、持てる戦力の大半をこの戦に投入した私は、3隻の魔導船の内の旗艦から、セレーニア王国を眺めていた。


相変わらず、人と自然とが見事に調和した美しい国である。


小国ながら、芸術面では我が国が見習う点も多く、できればこのような形で手に入れたくはなかったが、エリカ王女のためなら致し方ない。


兵士達には、王女は必ず無傷で、それ以外はなるべく被害を抑えて占領せよと申し付けてあるが、ここ最近の有様を見ると、少し軍紀に乱れが出ているように思える。


大国になればなるほど、国を維持するために兵数が必要になり、当然、数を増やせばその質は落ちていく。


命の遣り取りをする戦場では、兵士達にかかるストレスも尋常ではないので、あまり厳しく取り締まらないようにしてはいるが、それにも限度がある。


この国を占領した後、その状況を確認した上で、一度軍紀を引き締めた方が良いかもしれない。


そんな考えに囚われていた私は、轟音と共に、王宮から天に向かって伸びる光の柱に、その意識を呼び戻された。


「何だあれは?」


初めて見る現象に、ただそう口にすることしかできない私を、新たな衝撃が襲う。


光が収まった空間に、黄金色の魔方陣の上に立つ、一人の男を認めたからだ。


こちらを背にして立っているので、その顔や表情までは分らないが、身に着けている鎧や風にたなびくマントからして、相応の身分の者であろう。


あのような者、この国に居たであろうか?


密偵からは何も聞いておらぬが。


どうやら魔の森から襲ってくる魔獣達や、つい先程、こちらの視界に入った深緑竜をどうにかするつもりのようだ。


既に魔導砲のエネルギーチャージは完了しているとはいえ、切り札とも言える魔導砲を、セレーニア王国ではなく、深緑竜のために温存せねばならなくなった状況を苦々しく思って見ていると、あろう事か、その男は、深緑竜のブレスをまるで虫けらでも払うかのように片手で往なした。


深緑竜。


それは我が帝国においても第一級に指定されている、要注意魔獣である。


本気で放ったブレスの威力は山一つを吹き飛ばすほどだと伝えられ、我が帝国でさえ、決してこちらから手を出してはならない相手だと認識している。


私がその深緑竜を前にして、比較的落ち着いていられるのも、こちらには3隻の魔導砲があることと、深緑竜の狙いはあくまでセレーニア王国であるという点が大きい。


信じられない思いで呆然としていると、再び深緑竜がブレスを放つ気配がした。


今度は本気らしく、その全身が魔力で輝いている。


咄嗟に全船にブレスの進路上からの回避命令を出したが、その男は何ら行動を起こそうとはせず、ただその場に突っ立っていた。


そして放たれたブレス、前回とは比較にならないほどの威力を持ったそれは、またしても、男が片手間に差し出した掌に払われた。


あの男はやばい。


あれは人ではない。


只の人間があのブレスを片手で防げる訳がない。


深緑竜よりも先ずあの男を何とかしなければ。


そんな、嘗て感じたことのないほどの恐怖で思考が混乱していた私に、男は更なる追い討ちをかけた。


男の周囲に、まるで彼を守護するかのように現れた、6つの円。


不可思議な紋様で繋がったそれらの中から、六人の女性達が姿を現す。


人のようには見えない、魔力か何かで人型を成している彼女らの1体が輝いたと思うと、竜を簡単に引き裂くほどの風刃や、魔獣達によって踏み荒らされた魔の森を、彼らの傷を癒しつつ、完全に復元するような治癒術を行使した。


未だ嘗て、人体以外を復元するような魔法を見たことはない。


そんな事が可能になれば、戦術上、いや、施政上でも利益は計り知れない。


セレーニア王国が幾ら魔法に秀でた国と雖も、そんな事ができるとは到底思えない。


つまり、全てはあの男の力だということだ。


やはり、この戦に勝つにはあの男をどうにかしなければ。


「全船、全砲門開け。

目標、セレーニア王宮上空で停止している正体不明の人物。

魔導砲出力最大。

カウントダウン開始。

・・・3、2、1、撃て!!」


3隻の魔導船から、たった一人の男目掛けて最大出力で放たれたそれは、キーネルの期待を裏切り、男に届く直前で奇麗に霧散してしまった。


「何だと!!

・・一体何が起きた?」


キーネルの発した最初の叫び、そしてその後の驚愕の呟きは、魔導船の乗組員全員の声を代弁していた。


今まで、帝国の覇道を確固たるものにしていた魔導砲。


それが相手に傷を付けることさえできずに消え去ってしまったのだ。


暫く、艦内は無言の静寂に包まれた。



 「馬鹿な人達。

この世界の魔素が、お父様を害するはずがないのに」


「それも、わたくし達がいる前でね。

本当に愚かね。

これだから人間は・・・」


「でもちょうど良いわ。

これだけの魔素が集まっていれば、お父様を称える歌が歌える」


「歌?」


「そう、歌。

貴女達は知らないでしょうけど、わたくしは魔素の一部になってお父様を陰ながら拝見していた時に、お父様がメロディーを奏でるのを聴いたことがあるの。

素晴らしい音色だったわ。

でも、あの曲は今のお父様を称えるには少し寂し過ぎる。

だから、わたくしが、この場に相応しい歌を歌わせてよ!」


水の精霊王が得意げにそう口にした瞬間、周囲に拡散した水の魔素が、水の精霊の力を借りて歌い出す。


爽やかな、清く澄んだ歌声が、和也を中心に流れ始める。


「狡いわ!

わたくしだって聴きたかったのに。

でもそれなら、他の魔素もその旋律を覚えているはずよね?

・・我が光の精霊よ、魔素を助けて、お父様を称える歌を歌いなさい。

朝日に輝き、この世を隈なく照らす、偉大なるお父様を称える歌を!」


命令を聞いて喜びに震えた光の魔素が奏でる、明るく、かつ聖なる歌声が、水の精霊のそれとハーモニーを成していく。


「負けていられないわね」


「勿論、お父様を称えることで負ける訳にはいかない」


「他の仕事を全てなげうってでも、これに賭ける」


水と光の振る舞いを見ていた他の精霊王達も、闇はその音色に荘厳な響きを加える低音を、風は軽やかさとしなやかさ、火はサビの部分の高揚を、そして土は重低音のアルトでもって、流れる歌に彩りを加えていく。


やがて1つの歌として完成されたその曲は、魔の森周辺とセレーニア王国全土を包み込み、森の生き物は暫しその活動を止めて歌に聞き惚れ、木々や植物、湖などは、まるでおのが存在を確かめるかのように、その身に浴びるのであった。



 その日、いつもより少し早起きした少女は、街の様子がおかしいことに気が付いた。


自分の目が見えるようになって、すっかり仲が良くなった両親の姿も見えない。


枕元に畳んであった服を手早く着ると、少女は家の外に出た。


すると、両親を含めた大勢の人々が、それぞれの家の前で、上空に映し出されたある映像を凝視していた。


誰も一言も喋らない。


身じろぎもせず、呆けたようにその映像だけを眺めている。


自分も釣られてその映像に目を向けて、・・視線が釘付けになった。


光り輝く魔方陣の上に立ち、周囲に相当な力を持った精霊達を従える一人の男、何より、その男が放っている魔力の輝きに。


それは忘れもしない、あの日、捜し求めた人のもの。


今も自分の瞼に鮮明に焼き付いている、鮮やかな魔力の残滓と同じ波動。


込み上げてくる感情を必死に抑えながら、少女もまた、その光景しか目に入らない一人になった。



 作業場の、小さな窓から差し込む朝日にその顔を優しく撫でられて、疲れ切っていたその女性は、重い瞼をゆっくりと開いていく。


ミューズである。


あれから、あの人に贈る、自分の最高の品を作るべく、寝る間を惜しんでモチーフを探していた。


あの人は、自分から優しさを貰ったと言っていた。


でも本当は、自分こそが、久しく忘れていた人の温もりを貰ったのだ。


2つのギルドに同時に入ろうとした途端、それまで親しかった仲間達は皆、自分に背を向けた。


自分の作品を取り扱ってくれていた商人にまで、無視された。


自分の作品を、自身が納得のいく人に売りたくて、その人の笑顔が見たくてした行動が、皮肉なことに、自分からその機会を奪ってしまうところだった。


あの人がくれたものは、それだけではない。


法外な価値を有する素材、その評価額を聞いても眉一つ動かさなかった、彼自身の信念に対する誇り。


私に才能が有ると言ってくれたその言葉を、確かなものとして受け入れられる彼の行動。


その全てが、今の私を支えてくれる。


眠気覚ましに紅茶でも飲もうとして、外の異変に気が付いた。


静か過ぎる。


いえ、何か歌声のようなものが聞こえる。


今まで耳にしたことのない、荘厳で、かつ心沸き立つような、何かを称える歌声。


本来なら、未だ見つからないモチーフ探しを再開するところだが、この時は何故か、外の状況を確かめなければならないような胸騒ぎがして、入り口の扉に手を掛けた。


そこで私が目にしたもの、その光景を、私は生涯決して忘れることはないだろう。


人には見えないその男性が、何故か私にはあの人と重なって見えた。


俗に言う、神とでも表現すれば良いのだろうか。


しかしその言葉さえ、陳腐に思えてしまうほどのインパクト。


探し求めていたモチーフが、私の長い人生の全てを賭けて取り組むべき課題が、決定した瞬間であった。



 パン屋の朝は早い。


まだ薄暗い内に起き出して、前日に仕込んでおいた様々な生地と格闘する。


あの人に頂いた、心温まる言葉を胸に、最近は新商品の開発にも力を入れ始めた。


私の作ったパンが、何時かきっと人に笑顔を齎す時がやって来る。


まだ実感はないけれど、そう言ってくれたあの人が、また買いに来てくれることを信じて、私はただひたすらに努力するのみ。


だって、私が誰よりも見たい笑顔は、あの人のものだから。


あの人のことを考えるだけで自然に笑みが零れる私が、竈に使う薪を取りに外へ出て目にしたもの、何と表現したら良いか分らないその光景を、私は己の命尽きるその時まで、決して忘れることはないだろう。


頬を撫でていくそよ風が、あの人だと教えてくれたような気がした。



 深緑竜の件に一区切りつけた和也に向かって放たれた、魔導砲。


被弾する直前で周囲に拡散する色とりどりの魔素を眺めながら、和也はその意識をエルクレール帝国の魔導船へと向ける。


切り札を使って何の効果も得られないことにショックを受けているのか、その後の動きはない。


視点を地上の軍隊に切り替える。


空中戦における味方の動揺をよそに、数万の軍勢が、ゆっくりとこちらに向かって移動して来ていた。


まだこちらとは距離がある上、集団で移動して来る敵ほど殲滅しやすいものはないが、誰彼構わず皆殺しにするのは、自分の流儀ではない。


「あれを使うか」


和也の呟きに敏感に反応した精霊王達が、そのただならぬ雰囲気に居住まいを正す。


「人相手に今の我が力を使うのは無理がある。

またお前達の力を借りるぞ」


そう告げるや否や、和也を取り巻く魔法陣と曼荼羅の輝きが一層強くなる。


「ジャッジメント」


今、人類史上初めての、神による審判が下されようとしていた。


和也の発した、たった一言の厳かな呟きが、天地さえをもひれ伏させ、蒼き風が、数万の軍勢とその上空で停止している魔導船に向かって吹き抜けてゆく。


一見何の変哲もない、何も危害を加えない只の風のように思えるそれは、通り過ぎた者の、これまでの行いを全て和也へと知らせる、正に裁きの風であった。


風が兵達の間を吹き抜けるにつれ、和也の両目に変化が現れる。


普段、漆黒の色をしたその瞳は、右目が蒼く、左目は紅く輝いている。


裁きの風が齎した、数万の兵の厖大な情報を瞬時に判別し、それぞれの兵にマーキングを施していく。


善なる者は右目に、悪しき者は左目に、それ以外の者は、個別の行いを振り分けた後、天秤の傾きに委ねた。


そしてその過程で、和也の興味を惹いた者達には、その者達の想いを辿り、想いの対象の現状へと目を向けていく。



 ある男の想いの先には粗末なあばら家があった。


その庭先で、薄汚れた衣服に身を包んだ一人の少年が、一心不乱に剣を振るっていた。


剣を振るうその掌からは、肉刺が潰れて血が滲み、よく見れば、その剣も所々刃こぼれしている。


けれど、その少年の瞳には、少しでも強くなろうとする強い意志の輝きがあり、現状を決して諦めてはいなかった。


何が少年にそこまでの意志の強さを齎したのか?


興味が湧いた和也は、ここ暫くの少年の生活を覗いて見る。


少年の朝は早い。


まだ日が昇る前に起き出して、剣の修行をした後、とある宿屋に出向き、その厨房で朝食作りの手伝いをして、それが終われば汚れた皿を洗う。


その後、冒険者ギルドに足を運び、依頼を受けたパーティーの荷物持ちを引き受ける。


日帰りの依頼しか受けることができず、しかも戦力にならない少年の取り分はごく僅かだ。


宿での賃金を含めても、日に銅貨40枚足らず。


本当はもう少し貰えるはずだが、どうやら足下を見られているらしい。


夕暮れ時、手にした銅貨で1番安いパンを買って、家へと帰って行く。


立て付けの悪い扉を開けて、最低限の物しかない家の中に入れば、そこには少年より4つくらい年下の妹が居た。


「おかえりなさい、お兄ちゃん」


「ただいま。

今日も良い子にしてたか?」


「またそれ?

もう子供じゃないといつも言ってるのに」


「俺から見れば、お前などまだまだ子供だ。

パンを買ってきた。

一緒に食べよう」


そう言ってズタ袋から取り出したパンは見るからに固そうで、どうするのかと見ていたら、同じ袋から宿屋の手伝いの際に貰ったくず野菜を取り出し、それを煮込んで、その中に入れて食べていた。


「勉強は進んでるか?」


「うん、買って貰った本は、もう大体覚えた」


「そうか。

じゃあ父さんからの仕送りがきたら、新しい本を買ってこよう」


「でもお兄ちゃん、本って凄く高いんじゃないの?

無理しないで」


「大丈夫だ。

余計な心配をするな。

お前は頑張って勉強すればそれで良い。

この国は、試験にさえ合格すれば、俺達平民でさえ役人になれる良い国だ。

俺と違ってお前は頭が良い。

お前には、試験に合格して、もっと良い暮らしをして欲しいんだ」


「お兄ちゃんと一緒なら、今のままでも十分幸せだよ」


そう言って笑う妹を見る少年の顔が、まるで何かを堪えるように少し歪んだ。


この少年は知っていた。


妹には友達の一人もいないことを。


同世代の女の子達が、楽しそうに初等学校に通うのを、切なそうに眺めていたことを。


女の子だから、もう少し奇麗な服を着たいだろうに、たった2つの薄汚れた服を、大事に着ていることを。


せめて母さんさえ生きていたなら、少しはまともな暮らしができたであろうが、妹を産んだ時の産後の肥立ちが悪く、妹が5歳の時に、呆気なく死んでしまった。


治癒術師に診て貰うためのお金もなく、日に日に弱っていく母さんを、黙って見ていることしかできなかった自分達。


母さんが死んだ後、それまで頑なに戦争への参加を拒んでいた父さんは、志願兵に応募した。


兵士になれば、毎月人並みの給金が国から支給される。


この国の未来のために意義ある研究をしたいと常々口にしていた父さんは、志だけでは生きていけぬと戦争へと赴いて行った。


出かける間際に、妹のことを頼むと済まなそうに言う父さんに、『任せておけ』と、しっかりと約束した自分。


あれから5年、赴任先の砦から、毎月必死に仕送りをしてくれる父さんのためにも、妹は自分が守るのだ。


その父さんからの仕送りは、ほとんどが妹の本代に消える。


任官試験用の本はどれもみな高価で、それでも月に1冊買うのがやっとだ。


高等学校に通えれば、図書館で無料で閲覧できる物ばかりだが、妹が入学できる歳になったとしても、通わせるだけのお金がなかった。


仕送りの余ったお金は、妹の任官試験の受験費用と、その将来のために貯めている。


再来月の妹の誕生日には、せめて新しい服を買ってやりたい。


それには自分がもっと強くなって、一人でも迷宮に潜れるようにならないと。



 そこまで少年の近況を覗いていた和也は、少年が剣を落とす音で再び今の少年に目を遣った。


荒い呼吸で、大地に倒れているその姿は、かなり苦しそうだ。


無理もない。


日の出前から起き出して、剣の修行後、直ぐに宿屋で働き、迷宮で荷物持ちをして、粗末な食事を妹と取った後、夜遅くまで、更に剣の修行をしているのだから。


どうやら自己流らしく、無駄な力が入っているようで、その分余計に疲れるのだろう。


所々刃こぼれした、安物の剣を杖代わりに、何とか立ち上がろうとしているその姿が、不思議と和也の心を打った。


少年の身体を、優しい光が包んでいく。


それと同時に、少年の身体から疲労が消え失せ、掌に滲んだ血は止まり、刃こぼれした剣は新品の如き美しい輝きを取り戻した。


後になって分ることであるが、この剣は普通の鉄剣でありながら、以後、決して折れたり刃こぼれしたりせず、その後の少年の迷宮探索に大いに役立つことになる。


更に、少年の頭の中に、幾つもの剣の型が入り込んでくる。


何が起きたのか分らず、混乱している少年の頭を、風が優しく撫でていく。


「将来を楽しみにしているぞ」


風に乗ってそう囁き声が聞こえた少年の傍らには、異国の金貨が2枚と、焼き立ての美味しそうなパンが数個、見知らぬパン屋の袋の上に置かれていた。



 次に想いを辿った先は、とある貴族の館であった。


貴族といっても下級貴族らしく、帝都の中心付近にある大貴族が住む場所からはずっと離れた、平民区との境目に程近い場所に、その館は在った。


その館の1室で、当主の奥方と思しきうら若き女性が一人、ベットに身を横たえていた。


どうやら何かの病気を患っているらしく、時折激しく咳き込んでいる。


ベットの脇に備え付けられた小さなテーブルには、薬と水差しが置かれている。


かの者の想いの理由を確かめるべく、和也は、この女性とその者の過去へと目を向けた。



 二人は俗に言う幼馴染らしく、子供の頃はよく一緒に遊んでいたようだ。


女性の方は平民の出であったが、男の方も貴族とはいえ下級であったため、特に問題はなかった。


男が高等学校に通い始めると、女性は昼間に仕事を始め、自分も翌年同じ学校に通うべくお金を貯め始める。


なかなかの器量良しで働き者の女性は直ぐに職場で人気者となり、お金は順調に貯まっていった。


だが、1年が経とうとした頃、男の家が家業で大きな損を出す。


隣国との貿易を家業にしていたのだが、大貴族から請け負った品を盗賊団に奪われ、既に料金を受け取っていたため、巨額の賠償金が発生した。


先祖伝来の品まで売り払い、どうにか払い終えたものの、男の家には最早、男を学校に通わせるお金すら残っていなかった。


貴族といえど、下級であれば、高等学校を卒業しなければろくな職業にありつけない。


領地も持たず、任官試験にも受からなければ、待っているのは平民と同じ仕事だけだ。


更に不運は続く。


男の両親が、失意のあまり、相次いで亡くなる。


数少ない親類も、男の家とは付き合いを避けるようになり、男は館で一人になった。


女性の両親は娘に男との付き合いを止めるように説得したが、彼女は聞き入れず、遂には男の家の借金が自分達に降りかかることを恐れた両親に、家を勘当されてしまう。


そして、その足で男の館まで来た女性は、男に、自分が働くから、男には学校に通い続けて欲しいと告げるのであった。


それから2年の月日が流れ、人が変わったように学業に打ち込んだ男は、女性の援助を受けて、学校を優秀な成績で卒業し、任官試験にも上位合格して、今度は自分が女性を幸せにする番だと、女性と籍を入れ、結婚する。


だが、やっと幸せを摑んだと思えた矢先、今までの心労が祟り、女性が病に倒れる。


男の学費や生活費を稼ぐため、それまで以上に無理をした女性の身体は、限界を疾うに超えていたのだ。


名のある治癒術師に診て貰おうとしたが、とても今の自分達に払える額ではなかった。


絶望が男の脳裏をよぎったその時、一人の男が近付いて来る。


その男は、任官試験での成績が自分の直ぐ下だった男で、自分がいなければ、花形の部署に仕官できた男であった。


その男は、笑いを耐えるのが精一杯だとでも言いたげな顔で、こう言った。


『自分に仕官先を譲ってくれれば、治癒術師の費用を持とう』


その話を聞いた男に、迷いはなかった。


直ぐ様仕官先を断り、唖然とする係りの者を尻目に、代償として受け取ったお金で女性を治癒術師に診せた。


しかし、ここでも不運に見舞われる。


その治癒術師はちょうど大きな治療を施したばかりで、高位の魔法を使うには魔力が足りなかった。


だが、名声を得て、世俗にまみれたその治癒術師は、それを事前に告げることなく魔法を行使し、その結果、当然の如く失敗した。


男がもし上流貴族であったなら、この治癒術師もそんな事はできなかったであろう。


下級、それも貧乏貴族であったが故に、ぞんざいな扱いを受けたようだった。


愕然として、項垂れたまま言葉もない男を前に、さすがに悪いと感じたのか、その治癒術師は『次に施術をするようなことがあれば、きっと成功するだろう。その時は料金も半額で良い』と告げて、逃げるように去って行った。


当然、全てを擲った今の男にそのようなお金があるはずもなく、傍らで、落胆を感じさせまいと気丈に微笑む女性の顔を見ることすらできずに、男は最後の賭けに出る。


花形の部署を断った時点で、役人になる夢は潰えた。


今の自分に残された、たった1つの道は、軍人になることだ。


幸い、帝国は領土の急拡大により、志願兵を常時受け付けている。


下級とはいえ、貴族の自分なら、戦で功績を挙げれば出世や報奨金も夢ではない。


自分の命の灯火が、もう長くは持たないことを何となく悟っていた女性の、側に居て欲しいという願いを受け入れず、館を担保に女性の世話をその両親に頼むと、男は戦地へと旅立った。



 女性が突然、激しい咳を繰り返し、血を吐いたことで、和也は現在の女性へとその意識を向け直した。


その女性は瞳に涙を浮かべ、愛する男の名を口ずさみ、今にも息を引き取ろうとしていた。


女性の瞳から、涙の雫が零れ落ちようとしたその刹那、弾丸の如き蒼き光が女性の身体を駆け抜ける。


光が過ぎ去った後には、長い患いで艶のなくなった髪が以前の輝きを取り戻し、仕事で無理を重ね、張りや潤いが失われ、痩せこけたその身体が本来の美しさを回復し、何より、これ以上ないくらいに元気を取り戻した女性がいた。


そしてその頭の中に、治癒術の高位術式が、厖大な魔力と共に流れ込んでくる。


「男は無事に帰って来る。

君はもっと幸せになって良い。

この力が、これからの君の人生を、実り多きものにしてくれることを祈る」


そう女性の耳元で囁く声を、彼女は聞いた気がした。


あまりのことに思考が停止した女性の、ベッドの側にある小さなテーブルには、何時の間にか、セレーニア金貨が2枚と、見たこともないパン屋のロゴが入った袋の上に、美味しそうな香りを漂わせたパンが数個、置かれていた。



 更に数名ほど、その想いを辿った後に、キーネルの審判が巡ってきた。


風が齎した彼のこれまでの行いは、生まれや権力を笠に着た、決して善とは言えないものだが、かといって、人として踏み越えてはいけないラインは越えてはおらず、本来なら、個々の行いを振り分けて、天秤の傾きに委ねるはずであった。


だがキーネルには、これまでとは逆の、彼へと伸びる強い想いがあった。


意外に思った和也は、その想いを辿っていく。


その先に見えたのは、エルクレール帝国の王宮にいる、一人の女性であった。



 王宮の、いわゆる後宮と呼ばれる場所の一画に、他と比べてかなり見劣りのする部屋があり、その部屋の主は、飾り窓から差し込む光に照らされながら、物思いに耽っていた。


一見したところ、後宮に居るだけあってそれなりに美しい女性ではあるが、取り立てて他に特徴がある訳ではないこの女性に、何がそこまでキーネルを想わせるのか、和也は気になった。


彼女の過去を注意深く遡ってゆく。


この女性はどうやら平民の出身らしく、ろくな後ろ盾もないことが、この部屋に住む理由のようだ。


後宮に入ることになったのも、同じ学校の上級生であったキーネルが、気まぐれに彼女に手を出したのが主な理由のようである。


代々女児に恵まれず、近隣諸国では珍しい男系王族のエルクレール帝国では、僅かな可能性さえも取り零さぬよう、王族の手が付いた女性は皆、後宮へと迎えていた。


勿論、年々増える女性達をいつまでも囲っている訳ではなく、3年経っても懐妊の兆候を示さなければ、僅かな手切れ金で追放されることも多かった。


大貴族の出身や、その後ろ盾があれば、政治的理由もあり、追放されることはないが、この女性のように平民出身で何の後ろ盾もなければ、ほぼ間違いなく追放された。


そして、この女性が追放される期限まで、もうあと半年もなかった。


女性の身体に問題がある訳ではない。


キーネルがこの女性を後宮に迎え入れてから約2年半、その間に彼女の下を訪れたのは僅かに5回だけ。


しかも、抱いたのは一度だけだ。


これでは余程運に恵まれない限り、子を授かることはできないだろう。


そんな扱いを受けながら、この女性にはキーネルを恨む気持ちがかけらも無い。


寧ろ、戦地へ赴いたキーネルのことを心配している。


新しい女性を後宮に迎えるための戦争だと知っているのにだ。


この女性に益々興味を持った和也は、更に女性の過去を辿っていく。


彼女の学校での出来事が、幾つも流れ込んでくる。


豊かとは言えない家に生まれたものの、働き者の両親と、彼女の懸命な努力のお陰で高等学校に通え、両親の期待に応えるべく学業に励んでいたこの女性は、決して天賦の才があった訳ではないが、成績も良く、教師陣の覚えも良かった。


だが、それを妬む者達が居た。


上流貴族の生まれというだけで、何の努力もせずに、プライドだけは高い数人の女生徒達から、いじめを受けていたのだ。


最初は、彼女の生まれに関する厭味をいう程度であったが、どんどんエスカレートしていき、最後には、彼女の両親の働き先にまで圧力をかけて、クビにしようとさえした。


そんな時、偶々沈んでいた彼女を見つけ、暇潰しに彼女の話を聞いて、気まぐれに助けてくれたのがキーネルだった。


それ以来、キーネルはこの女性を学校では側に置くようになり、彼女をいじめていた者達も、皇太子のお気に入りに手を出す訳にもいかず、いじめは沈静化した。


キーネルが彼女を手折ったのはそれから間も無くであるが、この女性は嫌がる素振りも見せず、何の抵抗もしなかった。


半ば無理やりに近い形で純潔を散らされておきながら、何故そこまでキーネルに想いを寄せるのか?


この女性の心の内を探っていく和也に、彼女の様々な想いが流れてくる。


自分が沈んでいた時、暇潰しに話を聞いてやると言ってきた彼の眼が、決して笑っていなかったこと。


両親を助けてくれた後も、気まぐれを装いながら、自分を側に置いて守ってくれたこと。


学費が苦しくて、昼食を節約していた自分に、食事に付き合えとぶっきらぼうに言いながら、美味しい物をお腹一杯食べさせてくれたこと。


自分に余計なお金を使わせないように、もう要らないから捨てておけと言って、学校の教科書をくれたこと。


更には、卒業しても守れるようにと、無理やりを装って自分を抱いた時の、彼の悲しげな瞳。


後宮に入れられた後も、強引に入れたことで自分に負い目を感じながらも、後ろ盾のない自分に気を遣い、自分の誕生日や国の祝い事の際には、素敵な贈り物をくれたこと。


我が儘で、自分勝手な所も少しはあるけれど、自分にとっては大切な人。


今はセレーニア王国の王女様に夢中だけれど、あの御方は、見た者全てを虜にすると評判の美姫だから、仕方のないことなのだ。


せめてその御方が、強い皇太子であろうと無理をされてるキーネル様の癒しになって下されば。



 ここまで彼女の想いを辿ってきた和也は、苦笑いと共にその行いを止める。


「残念だが、それはないな。

その代わり、キーネルにはやり直しの機会を与えよう」


耳元でいきなりそう囁かれた女性は、驚いた様子で周囲を見回すが、見つけることができたのは、飾り窓の窓辺に何時の間にか置かれていた、セレーニア金貨2枚と、見知らぬロゴの入った袋の中の、美味しそうなパンだけであった。



 裁きの風が齎した全情報を処理し、気になった想いを辿ること、僅かに数分。


そこで得られた情報を基に、今、神の裁きが始まる。


「センテンス」


和也の厳かな呟きと共に、上空に何時の間にか現れた、7色の巨大な魔法陣。


その輝きが一段と激しさを増したその瞬間、帝国の兵士達に向かって、天から7色の光の雨が降り注ぐ。


和也の左目にマークされた者達は、容赦なくその身体を光の雨に貫かれて死んでいく。


善悪の区別が明確につかず、天秤の傾きに委ねられた者達は、その傾きの程度によって、死なない程度に傷を負った。


そして、その右目にマークされた者達は・・。



 「・・どうやら父さんはこれまでのようだ。

済まない」


周りの兵達が次々に倒れていく様を見ながら、帝国に残してきた二人の子供達に詫びた男に向かって、光の雨が降り注ぐ。


観念して目を閉じた男が感じたものは、痛みではなく、在りし日に妻に抱き締められたような、優しい温もりだった。


「良い息子を持ったな」


頭の中に直接流れ込んできた声を聞いて、驚いて目を見開いた男の視界に入ったその光景は、それまで居た戦場ではなく、粗末ながらも懐かしい、二度と帰れぬと諦めていた、我が家のものであった。


 

 「リサ、結局僕は最後まで運がなかったよ。

君との限られた時間を捨ててまで、僅かな可能性に賭けたのに。

・・先に行って待ってるよ。

なるべくゆっくり来て欲しい」


俯いてその時を待った男を、光の雨が貫く。


覚悟していた痛みがなく、寧ろ癒されるような穏やかな感覚に、不思議に思って顔を上げると、そこには、最愛の妻を置いてきた、見慣れた館が建っていた。


「天命とは、人事を尽くした後に下されるもの。

お前のこの数年の努力に報いよう」


頭の中で、そんな声がした。



 こんなはずではなかった。


セレーニア如き、1日で占領して、念願のエリカ王女をやっと手に入れるはずであった。


それがたった一人の見知らぬ男のせいで、完全に潰えてしまった。


深緑竜の本気のブレスも、自分達の切り札である魔導砲の、それも3船分の最大攻撃でさえ、傷一つ付けることができなかった男。


その男が今、人外の力で以って、我が軍を壊滅させていく光景を呆然と見つめる。


自分の乗る旗艦の左右に展開する魔導船が、光の雨に打ち落とされていく。


爆発もせず、ゆっくり降下していく様を不思議に思いながら、これまで弱者を好きにしてきた自分が、今度は逆の立場に立たされたことを理解したキーネルは、来たるべき衝撃に備えて、静かに目を閉じた。


その直後、無数の光の雨がその魔導船を貫き、乗組員共々、キーネルに襲い掛かる。


胸を打ち抜かれたキーネルが死を予感したその時、頭の中に声が響いてきた。


「案ずるな。

死にはせん。

ある者に免じて、お前にはやり直しの機会を与えよう。

・・今後暫く、お前には辛い事も多かろう。

だが、それを乗り越え、更に成長して見せろ。

人として、為政者として、我を納得させて見せろ。

・・大丈夫だ。

お前は決して一人ではない。

何もかも一人でやる必要はないのだ。

多くの優秀な人材が、お前に声をかけられるのを待っている。

本当に辛い時、苦しい時にこそ、側に居てくれる者達を大切にせよ。

人の上に立つ者として、他人の心の痛みに敏感であれ。

帝国あっての民ではない。

民あっての帝国であることを確と心に刻め。

・・彼女を大切にな」


その言葉を最後に、キーネルの意識は途絶えた。



 「さて、残るはエレナだけだな」


今回の騒動の最大の原因たるエレナを探した和也は、思わず顔を顰めた。


魔の森の一角にある廃墟の傍らで、彼女は毒をあおって死にかけていた。


「愚か者!」


和也の怒声と共に、蒼き光がその身体を貫く。


口から血を流し、今将に死ぬ寸前であったエレナは、何が起きたのか分らず、はっきりしない意識を周囲に向ける。


そんな彼女に、天上から、先程とは打って変わって穏やかな声がかけられる。


「お前が死んだらエリカが悲しむだろうが」


死ぬ前に何を思っていたのか、涙の残るその瞳が、黄金色の魔法陣の上に立つ和也を、ゆっくりと捉えた。

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