第4話

 エリカからの信じられない言葉を聞いた和也は、その瞬間意識がフリーズしていた。


果てしなく長い、気の遠くなるような時を経て、やっと叶ったその願いは、創造神である彼をして、一時的に己の思考を停止させるに十分なほどの力を持っていた。


一方で、和也からの返事をいつまでも貰えないことに不安を覚えたエリカは、寄せていた身体をそっと離し、その顔を覗き込んだ。


そこには、瞬きもせず、焦点の合っていない瞳から、静かに涙を流す彼がいた。


ただその表情は悲しみのものではなく、まるで美しい光景を見て、その情報を心に刻み込んでいるような、穏やかで優しいものであったので、エリカは一先ず安心し、もう一度そっと彼の唇に口づけると、『お返事をお待ちしています』と囁いて、部屋を出て行った。


和也が意識を取り戻すのはその少し後である。



 気が付くと、目の前に居たはずのエリカの姿はなく、自分の頬に涙の痕跡がある。


どうやら一時的に意識が飛んでいたらしい。


涙を流すなど今まで一度もなかったことだが、その理由を思い出し、ぶり返す大きな喜びと、若干の情けなさで苦笑いする和也であった。


テーブルの上にある、エリカが淹れてくれた紅茶の残りを口に含みながら、和也は今後の予定を考える。


先ず何より大切なのは、エリカに返事をしなければならないことだ。


次いで、何か仕事を貰ってお金を稼ぐ必要がある。


折角だし、この国を色々見て回るのも良いだろう。


観察では得られない何かがきっとあるはずだ。


多くの人々と接して、人付き合いを学ぶことも重要だ。


頭の中を整理した和也は、誰かを探そうと部屋の外に出ようとしたが、こちらに向かってくる人の気配を感じ、一歩下がって待つことにした。


程無く、扉がノックされ、声がかかった。


「入っても宜しいでしょうか?」


「どうぞ」


扉を開けて入って来たのは、メイドが着る黒の衣装を身に付けた20代後半くらいの、知的な印象の中に僅かな色気を纏った美しい女性であった。


「失礼致します。

今回、貴方様の王宮でのお世話を仰せ付かりましたエレナと申します。

宜しくお願い致します」


「自分の世話?

どんな?」


「滞在されるお部屋のお掃除やお食事のご用意、王宮内でのどなたかへのご連絡など、必要とされることなら何でもお申しつけ下さい」


「エリカの指示か?」


王女を呼び捨てにされ、彼女は少し表情を強張らせたが、直ぐにそれを戻して答える。


「いえ、女王陛下のご指示です」


「部屋の掃除は浄化の魔法であらかた済むし、食事は外で取るつもりだ。

エリカへの連絡は助かるが、あとは聞きたいことがあるだけなので、わざわざ専任の人材を就けて貰うほどではないが」


「申し訳ありませんが、貴方様の王宮での監視も兼ねておりますのでご了承下さい。

エリカ様の大切なお客様ではありますが、全面的に貴方様を信頼するには、今暫くの時間が必要ですので」


「了解した。

では先ず何か仕事を紹介して貰いたいが、誰に頼めば良い?」


「どのようなお仕事をお望みですか?」


「逆にどんな仕事ならある?」


「国としては魔獣の討伐とその素材の徴収、各種土木作業。

個人では素材探しに病人の治療、商人の護衛が主なものでしょうか」


「国や個人は問わないが、魔獣の討伐と素材探しを希望する」


「畏まりました。

直ぐに揃えて参ります」


一礼して部屋を出て行こうとするエレナに、もう1つ尋ねる。


「エリカに連絡をつけるにはどうすれば良い?」


「私がエリカ様の担当係に話をしますが、エリカ様はご多忙ゆえ、何時お越し下さるかは分りません」


こちらを振り返り、型通りの返答をしたエレナは、直ぐに部屋を出て行った。


あまり良い印象を持たれていないようだと、少し落胆する和也であった。


暫くして、エレナが揃えてきた依頼は7件、何れも魔の森に住む高位の魔獣の討伐と、その素材の回収だった。


話を聞くと、この国には冒険者ギルドはなく、必要に応じて国の精鋭部隊が討伐に行くか、隣国の冒険者ギルドに依頼を出すそうだ。


冒険者ギルドがないのは、エルフ族以外の人種が長期滞在すると治安の悪化を招く恐れがあるからだそうだ。


神殿もなく、あるのはエルフ族の商人組合と職人組合、国立療養所のみ。


元々エルフ族は、頻繁に他国と関わりを持とうという意識に欠け、必要がなければ何事も自国のみで処理しようとする傾向がある。


他の人種に比べ、遥かに長寿で、その容姿にも魔力にも優れた点の多いエルフ族は自尊心が強く、他の種族を見下すことこそしないが、敢えて関わりを持つ必要性を感じないのだ。


とりあえず、渡された資料に目を通すと、そのほとんどがよく知っている魔獣ばかりだった。


ここに来る途中、隠密魔法を使う前に襲ってきたものばかりだから当然だ。


ただ、1つだけ見覚えのないものがある。


資料によると、全長10mくらいの木の魔物で、非常に珍しく、その枝や幹が、エルフ族の使う弓や高級家具の素材になり、その実は貴重な霊薬を作る際に欠かせないものらしい。


ただ、滅多に出会うことがなく、仮に出会えたとしても、その討伐には軍の精鋭が三十人程度は必要になるらしい。


エレナによると、国の依頼を全て持ってきたので、その実現可能性の有無までは考慮していないという。


あまり当てにされていないのだろう。


もう1つの用件であるエリカへの伝言は、担当に伝えたので返事待ちだそうだ。


エリカの方は時間がかかるようなので、今できることをすべくエレナに確認する。


「依頼の完了は何処に報告すれば良い?」


「王宮を出た左側に衛兵の兵舎があります。

そこで用件を言えば、担当の方に取り次いでいただけます」


「分った」


早速報告に行こうとした和也をエレナが呼び止める。


「これから魔の森に向かわれるのですか?

途中で夜になりますが、夜だと更に強い魔獣も出てきます。

それに、魔の森への通路は今は開けることができません」


「森に行くのではない。

報告に行くのだ」


「は?

今何と仰いました?

報告に行くと仰いましたか?」


「そう言ったが」


「失礼ですが、何もお持ちではないようですが?

それに、そのリストの魔獣はとても一人で倒せるようなものではありません。

最低でも六、七名の最上位ランク者でパーティを組んで、やっと討伐できる類のものです。

ご冗談が過ぎますよ」


「別に冗談を言っているつもりはない」


いちいち説明するのがめんどうだと思った和也は、エレナを置いて兵舎へと急いだ。



 「討伐依頼の達成報告に来たのだが、担当者に取り次いで貰えるか?」


兵舎に着くなり、門番と思しき人物に声をかける。


いきなり見知らぬ人間族の男が来たと思ったら、自分達衛兵が達成できず、暫くそのままになっていた討伐依頼を成し遂げたという。


見たところ一人のようだが、他のメンバーはどうしたのだろうか?


まさか自分だけ逃げ帰って来たとでも言うのであろうか?


エルフ族ならまず着ることのない黒一色の服に身を包んだ若い男を凝視しながら、門番の男は、この件の担当であるマリー将軍が今何処に居るかを思い出していた。



 門番の男にここで待つように言われてから暫くして、その彼が一人の女性を伴って戻って来た。


見るからに値段と階級が高そうな鎧を身に纏い、それでいて品のなさを少しも感じさせないその女性は、鎧を纏っている者独特の動作の硬さがなく、滑らかな歩みでこちらに近付いて来る。


ただその表情に笑顔はなく、心なしか睨まれているように見える。


『思えばエリカ以外、まだ自分に好意的な存在はいないな』などと考えていると、その女性から声がかかった。


「貴方が、エリカ様の大切なお客様である、御剣和也様ですか?」


「確かに自分が御剣和也だが」


そう名乗ると、あからさまではないにせよ、こちらを品定めするような視線を向けてくる。


「魔獣討伐の報告にいらしたとお聞きしていますが、回収された素材はどちらに?

それに、共に討伐に参加されたお仲間はどうされたのですか?」


「素材は収納スペースの中に入れてあるので、広げても良い場所を指定してくれ。

それと、自分に仲間はいない」


最後の言葉は自分で言ってて少し情けなかったが。


「それはつまり、貴方お一人で倒したと仰っているのですか?」


「そうだが」


一瞬、女性の視線の険しさが増したが、直ぐに元に戻り、身振りと共に和也に付いて来るように促す。


「素材を改めさせていただきますので、どうぞこちらに」


女性はそう言うと、こちらを待たずに歩き出した。


暫く歩くと倉庫のような大きな建物に辿り着き、見張りの兵に素材処理班を呼んでくるよう命じた女性は、倉庫の一角を指し、そこに素材を出してくれるように頼んできた。


言われるままに、和也は異空間の収納スペースから6体の魔獣の素材を取り出すと、並べていく。


本気で和也が討伐したとは考えていなかった女性は、彼が素材を何処かから取り出しては並べていくその姿を、驚愕に大きく見開いた瞳で、ただ呆然と眺めていた。


「これで良いか?」


和也の声で我に返った女性は、慌てて1体1体確認していく。


どれも自分達が討伐できなかった魔獣に間違いない。


その大きさ故、ちょっとした小山の連なりのようになっている側で、所在無さげに立っている和也を、彼女は初めに見た時とは全く異なる眼差しで見つめた。


興味を持って観てみると、清潔感のある精悍な顔立ちに、髪や瞳の色と同じ漆黒の衣装が良く映える。


今まで何度か目にした人間族の男性は皆、不精髭を生やした身なりのだらしない者が多く、そうでなくても、こちらを見る眼差しに、色欲の濁りが混ざるのを抑えられない者ばかりで、正直、人間族に会うのはうんざりしていたが、思えば、この男にはそういうものが欠片もない。


吸い込まれそうな澄んだ瞳に映るのは、強いて言えば僅かな倦怠感であろうか。


こちらの今までの態度を考えれば無理もない。


ここに来る前、エレナから彼について色々話を聞いていたが、随分と違うものだと少し呆れた。


エレナのエリカ姫に対する忠誠心は盲目的なところがあるので、彼女に近付く者を冷静には見れないのかもしれない。


自分でも知らない内に、彼に対して偏見に囚われていたことを恥じ、女性はまだ自分が彼に名乗ってもいないことを思い出すと、姿勢を正し、穏やかな声で話しかけた。


「確かに討伐依頼の魔獣のものばかりです。

それも6体も。

ご協力ありごとうございます。

わたくしは、セレーニア王国の将軍を拝命致しております、マリーと申します」


僅かに頭を下げながら、先程までとは口調の温かさがまるで違う声色で話すマリーに対し、和也は彼女がそうする理由までは分らなかったが、嬉しさが込み上げてくる。


自分に対して好意的に接してくれた二人目の女性であり、エリカほどではないにせよ、マリーもかなり魅力的な女性だったからだ。


エルフ特有のやや薄い肌色をした、しなやかな肌と、背中まで伸ばしたプラチナブロンドの髪をした、青い瞳を持つマリーは、胸のサイズこそエルフ族の平均をやや上回る程度だが、十分に美しい存在だった。


和也が何か言おうと口を開きかけた時、呼びに行かせていた素材処理班が到着し、検分を始める。


処理班のメンバー達は先ず、魔獣の素材が6体もあることに驚き、次いでその状態の良さに驚愕した。


精鋭部隊や他国の冒険者達がこれまで倒した魔獣の素材は、所々に穴や傷があり、お世辞にも奇麗とは言えない物ばかりだ。


和也のように一撃で倒せる力はないから、何発も何発も魔法や矢を打ち込まなければならず、その分どうしても傷が多くなる。


だが、魔の森の大型魔獣の素材は他では入手できず、背に腹は代えられなかった。


それが、ほぼ無傷の状態で、しかも6体もあるのだ。


処理班の者達の興奮は凄まじかった。


検分には少し時間がかかるとのことなので、和也は一旦部屋に戻ろうとしたが、そこにマリーから声がかかった。


「もし宜しければ、この後少しお時間を頂けませんか?

これだけの魔獣をお一人で倒す貴方のお力を是非見てみたいのです。

わたくしとお手合わせ願えませんか?」


少し期待してしまった自分を苦笑いでごまかした和也は、マリーに承諾の意を伝える。


満面の笑みを浮かべたマリーに連れて来られた場所は兵士達の修練場のようで、壁の一角には様々な武器が掲げられている。


その中から木刀を二振り取り出してこちらにその一方を差し出したマリーは、確認するように言ってくる。


「わたくしは全力でお相手しますが宜しいですか?」


「この施設が耐えられるのなら、魔法と併用でも良いぞ」


馬鹿にするでもなく、あくまで自然体の物言いに、マリーの心に僅かな対抗心が生まれる。


たとえほんの少しでも、和也の顔に今とは異なる表情を浮かべさせてやりたい。


幸いなことに、魔法剣士が多いエルフ族の為に、この施設には魔法訓練用の結界が張ってある。


城壁を囲むように掛けてある結界に比べればかなり劣るが、それでも個人が放つ魔法程度ではびくともしない。


凛とした外見からは窺い知れないが、マリーはかなり負けず嫌いでもあった。


「ではお言葉に甘えさせていただきます。

万が一、怪我でもされた時は、わたくしが優しく介抱して差し上げますので」


その言葉にこそ、和也が動揺したのは内緒である。


「何時でも良いぞ」


内心では、少しばかり掠り傷でも作って、マリーに優しく介抱して貰おうかなどと考えてもみたが、それは誠実に接してくれる彼女に対して礼を失すると思い直し、何の構えもせずにマリーの攻撃を待った。


「いきます」


剣礼と共にマリーの姿がぶれる。


恐らく加速の魔法だろう。


受け止めた木刀にかなりの重さを感じる。


剛力の魔法も重ね掛けしているようだ。


こちらが受けた瞬間、マリーの攻撃は流れるように4回、5回と連続で繰り出されてくる。


しかも、その間を縫って気弾のような魔法を撃ってくる。


片手で木刀による攻撃を往なし、気弾を全てキャンセルしていると、鍔迫り合いを利用して少し後方に跳んだマリーが、満足げな表情で見つめてくる。


「さすがですね。

全て受け止められたのは初めてです。

でも、次はどうかしら?」


そう言うや否や、彼女の周囲の空間がぼやけ、氷刃と、拳ほどの礫が螺旋状になって飛んで来る。


マシンガンの弾丸に匹敵する速度で打ち出されるそれらを、和也は少し感心しながらキャンセルしていた。


あの程度の魔獣に苦戦するようだから、正直マリーの力もそれなりだろうと高を括っていたが、この世界でも上位に入るのではなかろうか。


少し試してみようかと考えた矢先、マリーの放つ魔力が膨れ上がった。



 敵わないまでも、表情さえ変えさせることができない自分に苛立ちを感じ始めたマリーは、徐々に冷静さを失い、本来なら訓練などでは決して使うことのない大魔法の詠唱を始める。


氷の大魔法、ブリザードストーム。


氷刃の弾を連射する先程のアイスショットと異なり、周囲の空間ごと圧倒的な冷気の嵐で凍らせるこの大魔法はマリーの切り札であり、決して人一人に対して使って良いようなものではない。


使用後は魔力が激減するので、彼女自身、10日に一度程度しか使えない。


なまじ和也のことを気に入り始めただけに、その彼に無様なところは見せられないと意気込んだ結果、彼女にしては珍しく、冷静な判断力さえ失ってしまっていた。



 今までとは比べ物にならない膨大な魔力の渦がマリーを中心に回り始めたのを見た和也は、彼女が暴走ぎみなのを即座に理解し、詠唱を止めさせるべく瞬間移動でその鳩尾に当て身を食らわす。


崩れ落ちるマリーを抱き止めた和也は、『まだまだだな』などと考えながら、優しくその髪を撫でていた。



 気が付くと、マリーは修練場の床に敷かれた毛皮の上に寝かされていた。


とても肌触りの良い、自分の魔力と相性の良さそうな気がするその毛皮を撫でながら、思考をクリアにしていく。


確か自分は大魔法を放とうと詠唱中だったはず。


だがその際中、強い衝撃を受けて気を失ったようだ。


そこまで考えて、マリーははっとして身を起こす。


慌てて周囲を見回すと、壁に寄り掛かりながらこちらを眺めていた和也と目が合った。


一瞬で自分の顔が赤くなるのが分った。


気を失ってからのことは分らないが、何故かとても心地良く、安心できる感覚の中にいたような気がするのだ。


和也には、自分では手も足も出ないことが分り、喜びも芽生えてくる。


一般的に女性が強いこの世界で、自分より強い男性を探すのは難しい。


マリーとて、エルフから見れば、まだ年頃の娘である。


恋に恋する純情なところもあるのだ。


何て声をかけようか悩んでいると、和也の方から声をかけてきた。


「身体は何ともないか?」


「はい、大丈夫です。

止めていただき、ありがとうございました」


「さすがに無理をしたように見えたからな。

気が付いたことだし、自分はそろそろ部屋に帰る。

報酬は後でエレナにでも渡しておいてくれ」


そう言って立ち去ろうとする和也に、マリーは一言言うのが精一杯だった。


「また会っていただけますか?」


訓練でもしたいのだろうと考えた和也は、『分った』とだけ口にすると、急いで部屋へと戻って行く。


その後姿を、マリーが熱い眼差しで見ているとも知らずに。

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