第3話 犠牲
五問が終了した。
すべての問題を取っている遠西の前には、少し邪魔なくらい札束が積まれている。
「すごいねー、遠西くんはこれで5000万円だ!」
パンダのミーミルはけらけらと笑いながら両手を叩く。
「他の三人はひどいね〜。こんなに簡単に大金が手に入るのにだーれも押さないなんて! お金欲しくないの? じゃあどうしてここにきたの? ふっしぎー」
口の立つパンダだ。
押してたまるか。
「ひ、一つだけ教えてくれ!」
平井さんが悲鳴のような声で言った。
「もーしょうがないなー。何ですか平井くん?」
「か、勝てなかったときも、その、例えば1○しかできずに終わったとしても、獲得した1000万円は貰って帰れるの?」
「もちろんだよ。ルール聞いてたぁ?」
生唾を飲む音が聞こえた。
いや……
「待て、平井さん! 押したらこいつらの思う壺だ。こんなルール、どんな引っ掛け問題が用意されているかわからない。軽率にボタンを押すべきじゃない。この札束だって、きっと一番上だけ本物であとは偽モンに決まってる!」
「え……そうなの?」
俺に向けられた平井さんの顔は、この数分の間で随分やつれたように見えた。
「ちょっとちょっと! 勝手なこと言わないでよ魚乃木くん! お金は全部本物だよ、ねぇ遠西くん」
遠西は無言のまま積み上げた札束の一番上からひと束を取り上げ、俺の方へ投げた。
自分で確認してみろ、とその目が言っている。
「…………」
俺は札束を拾い上げ、その一枚一枚を捲って確認した。
本物だ。
「だが、俺たちが得た賞金を確実に貰える保証はどこにもないっ。こんな胡散臭いルールで、シートベルトまでされて、本当に無事に帰してもらえる保証が」
「今更そんな話するー? 魚乃木くん。君は賞金が貰えると思ってここに来たんじゃないの? それなのに、賞金が本当に貰えるかどうかを心配してどうするのさ?」
「俺が言いたいのはそういうことじゃ……」
「はいはい。野暮ったい話はこれくらいにして、次の問題いくよー」
「くっ……」
平井さんはまだ迷うような表情で宙を見ている。
俺は投げるように札束を遠西に返した。
「問題。国のトルコとベルギーを漢字で書いたとき、共通して——」
「耳」
「問題。設立者である緒方洪庵の号に因んでその名が付けられた、蘭学の——」
「適塾」
「問題。煮崩れを防ぐ為に、大根やジャガイモなどの切りく——」
「面取り」
遠西が淡々と押し、淡々と答える。
また、積まれる札束の壁が広くなる。これで8連答。
これでいい。これでいいんだ。
もしかしたらコイツは……遠西は運営とグルなのかもしれない。ルール説明を聞いても眉ひとつ動かさなかった。何かを知っている可能性は高い。とにかく、遠西のプレイングに目を向けて、自分にも取れるという発想をするのは危険だ。
「問題。歌舞伎で、登場人物が暗闇の中で言葉を発することなく——」
ピン、という音は、これまで聞こえたどのそれよりも、鈍く聞こえた。
「なっ……」
灯っているのは左手にある緑色のランプだった。
平井さんだ。
横顔に、汗が一筋伝っていくのが見えた。
「……だ、だんまり!」
一瞬の沈黙が走った。
「正解! 平井くんに1○だね! おめでとう!」
どすと音を立てて落ちてきた1000万円の札束を、平井さんはがっつくように拾い上げた。
正解した。平井さんが。
「ま、まじか。この金が俺のもの……?」
信じられないという表情だった。
これで1000万円……。
確かに良い押しだった。だが、それは普通のクイズならの話だ。
この状況なら、どんな問題だろうと決して押すべきじゃない。それは変わらない。
「問題。19世紀に活躍した音楽家で、「ピアノの詩人」と称された——」
またしても、平井さんのランプが光った。
「……!」
思わず声が出そうになった。
その押しは危険だ。これは……この問題は、
「ショパン!」
滑舌良く言い切った平井さんは、一瞬の静寂のあとで、
「……ぁ」
声にならないような声を発した。
そのとき、気づいたのかもしれない。
そして不正解音を知らせるブザー音が鳴った。
「ざんねーん! 続きを読むと、「ピアノの詩人」と称されたのはショパンですが、「ピアノの魔術師」と称されたのは誰でしょう? という問題でした。正解はリスト! こんな定番の『ですが問題』でやられちゃうなんて、せっかちだね〜。平井くん失格!」
「ぇ……あ、失格。失格か」
平井さんは虚ろな表情を浮かべていた。
次の瞬間。ガンッと、何かが外れるような音がして、
「ぁ…………………………………………………あ」
平井さんを乗せた椅子が、弾けるように後方へ滑り飛んだ。
その行く先は、暗くて何も見えない。
衝突音も、平井さんの声も、何も聞こえてこない。
「……」
誰も何も反応できないまま、部屋には数秒の無音が流れた。
あまりに一瞬の出来事で、ぽっかり空いた左手の席を見ても、何も言葉が出てこない。まるで初めから三人しかいなかったかのような、そんな気さえしてきた。
「さーて、気を取り直して続きいくよー」
ミーミルの声で、止まった時間が動き出したような感覚がした。
「問題。アステカ王国を侵略したコルテスや、インカ帝国を——」
ピン、と何のモーションもなく、いつの間にか白色のランプをつけていたのは、
「コンキスタドール」
右手の女だった。
凛とした目が、まっすぐに正面を向いている。
平井さんの消えていった方を。
「正解! 鋭い押しですね〜鹿屋さん! さすがリピーターは違うなぁ!」
脳みそを横からガツンと殴られたような感覚だった。
なんだと?
「おい! リ、リピーター? つまり2回目ってことか?」
思わず身を乗り出してしまった。
「そうですが。何か」
「な、何かって……」
言葉が続かなかった。
リピーターということは、前回は誤答もせずに無事に帰ってるってことだ。
こんなやばいクイズ大会に参加し、それでもまた、性懲りもなく参加してるってことだ。
「いくらだ?」
「はい?」
「前回はいくら獲得して帰ったんだ? 優勝したのか? それとも——」
パン、と柏手を打つ音。
「はーいはい。デリカシーが無いな〜魚乃木くんは。女子にそんなガツガツお金の質問したら嫌われちゃうよー?」
「……」
自分でも驚くくらい力強く奥歯を噛み締めていた。
よくわからない歯痒い感情を、抑えられない。
ガチなんだ。全部ガチ。色々疑って、水差して、でも結局はこのパンダが言うとおり、勝てば大金で負ければ……
「クソっ!」
平井さんが1○を積んだとき、改めてきちんと止めるべきだったんだ。「押すな」と。だが俺はあのとき、1000万円を獲得して喜ぶ平井さんを見たとき、あろうことか「悔しい」と思ってしまった。自分には押す勇気が無かったことを、恥じてしまっていた。
両頬を手で叩く。
平井さんがどうなったのかはわからない。
けどもう、俺が後悔したってどうしようもないんだ。
「問題。モズに見られる習性の一つで、捕まえた昆虫や——」
次に押したのは遠西だった。
「はやにえ」
即座に正解のブザーが鳴る。
これで遠西は勝ち抜けの10○にリーチとなった。
落ちてくる札束を、遠西はまた丁寧に積み上げて並べる。9000万円の壁は早押しクイズをするには邪魔なくらいの存在感だった。
「驚きましたね」
遠西が突然、口を開いた。
「中二で高校生オープンを優勝して、博覧強記の神童とまで謳われた男が、ここまできて一度も押せていないとは。ねえ、魚乃木さん」
「……なんだよ。昔の知り合いだっけ?」
「いえ、こうして面と向かうのは初めてですね」
眼鏡の奥の暗い瞳からは、何の感情も窺えない。
「一度くらい押してみたらどうですか? 大金が手に入りますよ?」
「うるせーよ。……お前もリピーターなのか?」
「さあ。どうでしょう」
ジッと、観察するような視線をお互いに交わし、どちらからともなく目を外した。
「こらこら。積もる思い出話もあるだろうけど、クイズの続きにいくよ! それじゃ次の問題ね〜!」
遠西はボタンに指を置いた。
右を見る。鹿屋という女は前問から腕組みをしていて、押す気が無さそうだ。差し詰めさっきの1000万円で満足なのだろう。リスクを鑑みれば、それは賢い選択かもしれない。
「問題。技術革新によって約ご——」
——
遠西の指が動いた。
だが灯ったのは————俺のランプだった。
「あんまり遅いもんだから、俺の指が先に動いちゃったよ。これで満足か? 遠西くんよ」
遠西は物言わぬまま俺の方を見、ボタンから手を引いた。
これはたぶん、意地だった。
何の意地なのかはわからない。平井さんに「押すな」と言えなかった後悔を抱えながらも、それとは別に、煮え切らない何かがあった。胸の中に、指の先に。
俺は震える指をぐっと握って、静かに息をついた。
技術革新によって、約50年の周期で訪れるとされる景気の波……
「コンドラチェフの波」
****
「ということで、勝者は遠西くんでしたー! おめでとう!」
気持ち程度の花吹雪が舞い落ちてくる。
誰も拍手はしなかった。
「それでは生き残ったみんなを解放するよ! えい!」
声に合わせて、カチャという音とともにベルトが外れる。
張り詰めていた空気が、そこでふっと緩んだような気がした。
「遠西くんは1億円! 鹿屋さんと魚乃木くんはそれぞれ1000万円ずつだね! 遠西くんはそこにあるトランクケースをプレゼントするから、ぜひ使ってね!」
遠西は無言で金をケースに詰め込み始めた。
俺の正解の後は、何事も無かったように冷静な押しを見せた遠西が10○目を取り、見事なゴールを決めたのだった。
威勢のいいことを言っておいて何だが、これにはむしろほっとした。もう俺には戦う気力も意地も残っていなかったから。
さあ。とりあえずは帰ろう。
「あ。ちょいまち〜」
立ち上がった俺を、ミーミルが制した。
「二回戦に進む意思のある人は、この場で表明してね!」
「は?」
予想外の話に、素っ頓狂な声が出た。
二回戦だと?
「普通なら勝った遠西くんにだけ進出の権利があるところだけど、この一回戦だけは生き残ってさえいれば次に進めるよ! ただ、今回は無料だったけど、二回戦は参加費1000万円を徴収させてもらうね! その代わり賞金はググッと上がって、なんと5億円! ルールについてはまあ、詳細はお楽しみということにしておくけど、基本的なところは今回と同じだね! どうだい? みんな参加する?」
間髪置かず、
「出ます」
鹿屋という女は、テーブルに積んだままの1000万円にスッと手を向けて、指でピンとそれを弾き崩した。そのときチラと見えた彼女の表情が、微かに楽しげに見えた気がした。
「僕も出るよ。1億円は重すぎる」
遠西は、こちらもぽんと捨てるように札束をテーブルに投げた。
「お、おい。正気かお前ら」
自分の声がひどく嗄れて聞こえる。
基本ルールが同じってことは、恐らく1×で殺されるってことだ。そんなものに1000万円の大金を払ってまで足を踏み入れる理由がどこにある? ありえない。
なのに。
まるで、自分の感覚がおかしいのかと錯覚するほど、二人の表情は冷静だった。
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