第20話 ライオンの家族

 わたしは昔からタイミングが悪い。


 楽しみにしていた社会見学の日にかぎって風邪をひく。カップラーメンにお湯を入れるとお客さんが来る。お風呂に入っているときに電話がかかってくる。食べたかった肉まんは前のお客さんで売りきれる。


 気のせいだと笑われた。悪いことが起きたときのほうが印象に残りやすいからだ、と。


 わたしもそう思った。知らず知らずのうちに不幸ばかりを集めてしまっていただけだと。


 そう思っていた。二年前、『最悪のタイミング』を経験するまでは。





 玄関のほうから音が聞こえた。


 時刻は二十三時。二十二時を過ぎて帰宅するときは事前に連絡をしようと約束をしていたのに、奏くんはLINEのひとつも寄こしていない。


 テーブルに学校の課題を広げてはいたものの、気になって進めることがまったくできていなかった。


 リビングのドアが開く。わたしはむかむかとしてそちらを見ることができない。


 約束を破ったからではない。心配をかけさせたことが許せない。


 いや、許せないとはいっても謝ったら許してしまうのだけど。なにせヘコんだ奏くんはとてもかわいい。


 わたしはデレッとしてしまいそうになった顔を引きしめた。甘い顔を見せては駄目だ。舐められる。夕飯だって冷めてしまったし、少しは反省してもらわないと。


「おう、風璃。元気か」


 いるはずのないひとの声が聞こえて、わたしはぎょっと振りかえった。


「お、お母さん……」


 そこに立っていたのはお母さん――現在の母、亜梨彩――だった。


 にいっと歯を見せて笑うお母さん。


「お母さん、こんな時間に出歩いて補導されなかった?」

「されるわけねーだろ、こんな熟れたマダムが」


 その熟れたマダムとやらの見た目が高校生にしか思えないから心配しているのだ。童顔で背が小さく、シャツとデニムというラフなファッションのせいでさらに幼く見える。


 彼女の足元に奏くんがうつぶせで倒れていた。


「奏くん!?」

「二十歳になったからよー、飲みに行ったんだよ。そしたら即効で酔い潰れやがった。よええなあ、こいつ」


 と言ってお母さんは奏くんの後頭部を踏みつけ、「わーはっはっは!」と高笑いした。


 お母さんは子猫みたいな顔をしているが中身はライオンだ。外は狼、内はチワワの奏くんとは正反対である。


 しかし、こんな豪放磊落なお母さんだからこそ、わたしはすぐに楡野家になじむことができた。わたしは彼女にとても感謝しているし、大好きだ。


「奏くんを連れまわしたの?」

「人聞きが悪いな。拉致ったんだよ」

「あくどさが増してるけど」

「夢だったんだよ。成人になった息子と酒を飲むのがさあ。それがたった三杯でふらふらになりやがって」

「ビール?」

「テキーラ」

「そりゃなるよっ」


 たしかテキーラの度数は焼酎より高かったはずだ。


「まったくもう……」


 わたしは布団を敷き、奏くんの身体を引きずってそこに寝かせた。


「お母さんは大丈夫なの? お水飲む?」

「水はいいや。ビールある?」

「まだ飲む気なの?」

「迎え酒じゃん。固いこと言うなよ」

「ビールはありません」

「ちぇっ」


 わたしは水をグラスにそそいでお母さんに差しだした。


 ダイニングテーブルに向かいあって座る。


「来るなら連絡くれればよかったのに」

「急に思いたったんだよ。今日、夢を叶えようってな」


 グラスの水を一息で飲み干し、手の甲で口を拭う。


「それよっか聞いてくれよ。めちゃめちゃナンパされてさあ。奏太郎は酔い潰れてしゃべんねえし、暇だったからちょっとおしゃべりに付きあってやったよ。おかげでタダ酒だ」


 と、また高笑いする。


「お母さんの年齢を聞いたら引いただろうね、そのひとたち」

「わたしはまだ、自分はアラサーだと思ってるぞ」

「気合でどうにかなるものなの、それ。――お父さんに怒られるよ?」


 すると、上機嫌だったお母さんの態度が急にしおらしくなった。


「お、お前、それを言うか……? チャラいナンパ野郎をちょっとからかっただけじゃん……」

「それでお父さんが許してくれるかな」

「ぜ、絶対言うなよ?」

「……『言うなよ』?」

「……言わないでください」

「わかった」


 しゅんとするお母さんは見た目どおり子猫みたいに身体を縮める。


 お父さんが怖いひと、というわけではない。むしろ寡黙で優しすぎるぐらいのひとだ。そしてそのお父さんにお母さんはベタ惚れなのだ。あまり口には出さないが、お父さんもまちがいなくお母さんを愛している。


 ちょっと――いや、だいぶん、うらやましい。


「ところで――なんかいい感じの生活してんな」


 お母さんはテーブルに飾られたマーガレットの花をちらっと見た。


「お前が飾ったのか?」

「奏くんだよ」

「はあ? マジか。あいつが……?」


 はん、と鼻で笑う。


「必死だな」

「必死って?」

「酔い潰れる前に言ってたんだよ。お前に『兄さん』って呼んでもらうって」

「……」

「花を飾ってお前に喜んでもらおうと思ったのかね。かわいい奴だ」


 それには同意する。


「わたしらのことはすぐに父さん母さんと呼んでくれたよな。なんで『兄さん』は無理なんだ?」

「それは……」


 ――奏くんが好きだから。


 言ったらどうなるだろう? 怒るだろうか。呆れるだろうか。案外、笑って許してくれるだろうか。


 全部あり得るような気がする。


「べつに言いたくないなら言わなくていい。だからそんな申し訳なさそうな顔をするな」

「ごめん……」


 二年前のあの日から、わたしはずっとそんな気持ちを抱えている。


 最初の母を病気で失い天涯孤独になったわたしを、遠い親戚たちは持て余していた。


 親戚たちが集まって、わたしを押しつけるための話しあいをする。


 そこで初めて奏くんと出会った。


 ああでもないこうでもないと、わたしを引きとれない理由ばかりを並べたてる親戚たち。そんな彼らに囲まれて、わたしはぽつんと座っていた。


 なんだかすべてが絵空事のような感じがして、わたしは『今日の晩ご飯ってどうすればいいのかな』なんてことをのんきに考えていた。


 そのとき、視線を感じた。離れたところに座った、怖い顔の男の子。その子がわたしのことをじっと見ていたのだ。


 知らない子だった。多分、ものすごく遠い親戚だ。でも、なんでにらまれてるんだろう。


 そう思った矢先、彼が急にぼろぼろと涙をこぼしはじめた。


 そして隣に座る女性に言った。


「妹が欲しい」


 と。


 女性――亜梨彩さん――は「わーはっはっは!」と高笑いして奏くんの頭を撫でた。


「よく言った! さすがわたしの息子だ!」


 それが楡野家との出会いであり、奏くんとの出会い。


 そしてわたしが奏くんに恋をした瞬間。


 初恋をした日、彼はわたしの兄になった。


 わたしは最高にタイミングが悪い。





「学校、いってくるからね」


 声をかけても奏くんとお母さんはいっこうに目を覚まさない。奏くんの布団にお母さんは大の字になり、奏くんは蹴り出されて床で丸まっている。


 その幸福な光景をスマホで撮影し、抜き足差し足で玄関に向かう。


 ――あ、忘れるところだった。


 わたしはキッチンでコップに水を汲み、自分の部屋に引きかえす。そしてチューリップの鉢植えに水をやった。


 チューリップ。わたしが一番好きな花だ。


 子供のころ、仕事で忙しい両親の休みと学校の休みが偶然に重なり、チューリップ畑で有名な公園へ出かけた。まだ三月中旬で、多分咲いてはいないだろうという話だったが、その年は気候がよく、早咲きのチューリップがすでに満開になっていた。


 わたしの人生のなかでもっともタイミングのよい出来事。だからわたしはチューリップが好きだ。


 そんなチューリップを奏くんがどういうわけかプレゼントしてくれた。なにかよい暗示じゃないかと、わたしは嬉しくなった。


 ――頑張って。


 閉じたつぼみに心のなかで声をかけ、わたしは学校へ向かった。





 学校に到着して間もなく、身体がだるくなり、保健室で熱を測ってみると三十七度七分あった。平熱が低めのわたしにとってはけっこうな高熱だ。


 解熱剤とマスクをもらい、早退した。


 途中、自販機で買ったスポーツドリンクで水分補給をし、帰宅する。


 この角を曲がればアパートはすぐそこ、というところで、話し声が聞こえて立ち止まった。


 奏くんとお母さんの声だ。アパート前で立ち話をしているらしい。早退してしまったことへの罪悪感があり、なんとなく出ることができない。


「じゃ、帰るわ。風璃によろしくな」

「ああ。つぎ来るときは連絡しろよ」


 もう帰ってしまうらしい。本当にお酒を飲みに来ただけだったようだ。実にお母さんらしい。


「奏太郎、お前、は風璃に言ったのか?」


 ――あのこと?


 わたしは耳をそばだてる。


「……言ってないけど。べつに言う必要ないだろ」

「『兄さん』って呼んでほしいんだろ? なのに秘密にしておくって、そりゃ風璃にだけいろいろと求めすぎってもんじゃないか?」

「……なんか、ずるい気がするんだよ。同情を買うみたいで」

「勇気が出ない、のまちがいじゃないか?」

「……」

「なんならわたしから伝えてやろうか」


 お母さんは言った。


「お前も養子だって」


 ――…………え?


「言うときは自分で言う。余計なことするなよ?」

「わかったから怖い顔するな。全然怖くないぞ。――じゃ、また飲もうな」

「気が向いたらな」


 話が途切れた。お母さんは去り、奏くんは部屋にもどったようだ。


 しかしわたしはその場を動けずにいた。


 ――奏くんも、養子?


 視界がぐらぐらして、わたしは塀に手をついた。


 熱でぼうっとしているのに、わたしの頭は理解してしまった。


 なぜ奏くんが『家族』にこだわるのか。


 奏くんも家族と離ればなれになる経験をしていたから。


 だから、家族をなにより大切にし、同じような境遇のわたしを見て涙し、そして――わたしが寂しい思いをしないよう『兄になろう』と懸命に努力していた。


 すべて理解してしまった。


 ――言えない……。


 そんな奏くんに『兄ではなく恋人になって』なんて言えるわけがない。


 ――言えないよ……!


 涙がこみあげてくる。わたしをしゃがみこみ、嗚咽が漏れないよう口に拳を押し当てた。

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