第21話 はじめてのずるやすみ

「――、――きて」


 風璃の声が聞こえる。


「――さん、起きて」


 俺を起こしてくれているようだ。


「兄さん、起きて」


 ――……ん?


 いま『兄さん』と聞こえた気がする。


 ということは。


 ――夢か。


 俺は寝直そうと枕に顔を埋めた。


「兄さんっ、もう朝っ」


 少しいら立ったような風璃の声。


「これは夢だ」

「現実だってば」

「って言ってくる夢だ」

「もうっ」


 俺の身体が横回転させられてマットレスから落ちた。


「いってぇ……」


 床に鼻を打ってうめき声をあげる。


 待て。痛い。ちゃんと痛い。


 ――ということは、夢じゃない。


 俺はがばっと身を起こした。かたわらで風璃が仁王立ちしている。


「やっと起きた。じゃあ、わたしは学校行くから」

「ちょちょちょ、ちょっと待て風璃。いま、お前――」

「なに? 急ぐんだけど」

「俺のこと、『兄さん』って言った……?」

「言ったけど」


 こともなげに返事をする風璃。


「じゃあ、行ってきます」

「ままま待て! え、なに、急にどうして」

「嫌なの?」

「嫌なわけあるか! ずっと、それが夢で――この場合の夢は遠い目標って意味で寝てるときの夢ではなくて」


 風璃は小さく吹きだした。


「わかってるって」

「夢じゃないんだよな……?」

「だから、現実だって言ったでしょ」

「も、もう一回! もう一回言ってくれ!」

「べつにこれで打ち止めってわけじゃないんだけど」

「そこをなんとか! な? な?」

「しょうがないな……」


 ん、ん、とせき払いをして、風璃は改めてその甘美な言葉を口にした。


「兄さん」

「う、ぐ……ふぐぅ……!」


 目から涙が溢れた。長年――というほどではない、たった二年間だが、俺はずっと風璃の兄さんになりたくて必死に頑張ってきた。


 それがやっと叶った。風璃が俺を認めてくれた。やっと本当の家族になれた気がした。俺は風璃の帰れる場所になれたのだ。


「ええ……? 号泣?」

「これが泣かずにいられるか……!」


 俺は盛大に鼻をすすった。


「今日は赤飯を炊こう!」

「前から思ってたけど炊き方は知ってるの?」

「知らんっ」

「なんなの……」

「赤飯は気持ちだ!」

「いや、赤飯は赤飯でしょ」

「じゃあケン○ッキーフライドチキンを買ってくる!」

「無難に嬉しくてコメントしづらい」

「しかもおごりだ、兄さんの!」

「はいはい、嬉しい嬉しい。じゃあ、もう本当に遅れるから、行くね」


 玄関に向かう風璃を呼びとめる。


「風璃、熱は大丈夫なのか?」

「ん、もう大丈夫」


 と、身体を玄関のほうに向ける風璃をもう一度呼びとめる。


「風璃!」

「もうっ、なに?」

「ありがとう」

「なにが?」

「いや、わからんけど。なんかありがとう」

「ふわっと感謝しないでよ」

「お前は最高の妹だ」


 すると風璃はちょっと顔をしかめたあと、寂しそうな笑みを浮かべた。


「じゃあね」


 ばたんとドアが閉められた。


「はあ……」


 ――すばらしい日だ。


 六月一日。今日という日を俺は一生忘れることはないだろう。





 二限目の講義が終わり、学食で八紘と昼食をとっていたとき、スマホがブーンと震えた。


 LINEのメッセージだった。風璃からかと思いきや、差出人は美弥緒さん。


「風璃さん?」


 八紘が尋ねた。


「いや、風璃の友だち」


 八紘の顔から表情が消える。


「え、待って。え、友だち? え、なんで奏太郎くんに? え、どういうこと?」

「『え』が多くない?」

「風璃さんの友だちってことはJKだよね」

「まあな」

「かわいい?」

「ああ、風璃とはまたタイプの違う、ゆるふわな感じのかわいさだな」


 八紘は「ちっ」とはっきりめに舌打ちをした。


「妹の友だちとねんごろになるなんて隅に置けませんねえ」

「ひ、人聞きの悪いこというなよ。風璃のことで相談に乗ってもらっただけだって」

「ほう、相談を足がかりに」

「お前、酔ってんのか?」

「大丈夫、素面しらふだよ」

「いや、これが素面なら大丈夫ではないだろ」

「それよりほら、JKが返事を待ってるよ」

「お前がからんできたんだろ……」


 通知欄をタップする。


『風璃ちゃんは家にいますか?』


 ――……?


 いまの時間は学校にいるはずで、しかし美弥緒さんがこんなメッセージを送ってくるということは――。


『学校に来てないの?』

『はい』


 血の気が引き、視界がすうっと暗くなったような気がした。


『今日は休むからって電話があって、先生には風邪が長引いてるって言っておきました』


 俺はひとまずほっとした。肉声での連絡があったのなら、なにか事件や事故に巻きこまれたわけではないだろう。


 しかし自分の意志だったとして、なぜ急に。きっかけらしいきっかけは――。


 ――あるといえばある。


 一昨日、いきなり母さんがやってきて、その翌々日――つまり今日、風璃が俺のことを兄さんと呼ぶようになった。


 俺が寝ているあいだに母さんがなにか言ったのだろうか。


 俺は風璃に電話をかけた。


 呼び出し音が妙に長く感じる。


 九回目の呼び出し音で、電話がつながった。


「風璃……?」


 無言。息づかいだけがかすかに聞こえる。


「どうした? なんかあったのか?」

「……」

「言いたくないなら言わなくていい。声だけ聞かせてくれ。大丈夫か?」

「…………大丈夫」


「いまどこにいる?」と尋ねようとした瞬間、ぶつっと通話が切れた。もう一度かけ直してみたが出てくれない。しかしLINEでメッセージを送ると既読はつく。


 やはり風璃は自分の意志で学校をサボったということだろう。


「どうしたの? 死にそうな顔をしてるけど……」


 八紘がいぶかるように聞いてきた。


「風璃が……、学校に来てないって……」

「一回帰ったら? 大丈夫、地学の出席票も入手済みだから」


 と不敵に笑うが、うまく応じる余裕はなく、


「あ、ああ」


 とだけ返す。


「じゃあ、帰る」


 俺は席を立った。


「奏太郎くん、鞄」


 座席に鞄を置きっぱなしだった。


「あ、ああ、悪い。じゃあ」

「できることがあったら言ってね」

「あ、うん。じゃあ」


 脳の処理能力がパンクして、極端に語彙が減っているが自分でもわかる。


 俺は大学をあとにし、アパートに帰宅した。


 玄関に風璃の靴はない。帰っていないようだ。


 まったく頭が回らず、俺はバカみたいに部屋のなかを右往左往することしかできなかった。


 スマホが震動する。慌てて確認すると、八紘からの電話だった。


「風璃さん、家にいた?」

「い、いや」

「落ち着いて、って言っても無理だろうから、落ち着かなくていいよ。奏太郎くんが頭を使えないぶん、僕が補うから」


 落ち着かなくていい。その言葉で、俺はかえって気持ちを落ち着けることができた。


「質問に答えるだけでいいよ。――居場所に心当たりは?」

「ない」

「最近、変わったことは?」

「か、母さんが帰ってきた」

「そのときの様子は?」

「俺のことを急に『兄さん』って呼ぶようになった」

「原因はそこみたいだけど、居場所のヒントにはならなそうだね。いまは考えなくていい部分だ」


 はっとする。原因を深掘りしたところで風璃が見つかるわけではない。


「じゃあ、その前に変わったことはなかった?」

「変わったこと……」

「なんでもいいよ。風璃さんの様子でも、奏太郎くんがなにかしたとかでも」

「……あ。花をプレゼントした」

「花?」

「そう、チューリップ」

「なんで?」

「酔っぱらって迷惑をかけたからお詫びに」

「そうじゃなくて、なんでチューリップ? 微妙に時期じゃないよね?」

「なんか、好きそうだったから……」

「どうしてそう思ったの?」

「写真があった。インスタに、チューリップ畑の……」


 八紘は黙りこんだ。タタタ、とキーボードを打つ音だけが聞こえてくる。


竜野たつのチューリップの丘公園」

「え?」

「写真の場所。画像検索にかけたんだ。遠くに見える塔みたいな建物が特徴的だったから絞りこめたよ」

「も、もう一回言ってくれ。どこだって?」

「竜野チューリップの丘公園。住所はLINEで送った。電車で行けるけど、いまからだと十七時の閉園時間に間にあうかぎりぎりってところだね」

「そこに――」

「いるかどうかはわからないけど」

「いや、いる」


 二年前のあの時期に投稿されたチューリップ畑の写真。そして、チューリップをプレゼントされたときの嬉しそうな顔。チューリップを大事に大事に世話していた風璃。


 だから、きっといる。全然ロジカルでないのはわかっている。でも、いると、俺の本能が訴えている。


「助かった。今度お礼に――」

「いいよ、時間がもったいない。早く行ってあげて」

「すまん」


 通話を終え、財布だけを持ち、部屋を飛びだそうとした。


 しかしそのとき、引き戸を開け放した風璃の部屋がちらりと視界に入り、俺は立ち止まった。


「……ははっ」


 こんなときなのに笑いが漏れる。


 俺はを写真に収め、今度こそ部屋を飛びだした。

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