第17話 バースデーを抱きしめて ― 奏太郎サイド
「――きて」
声が聞こえる。
「――くん、起き――」
風璃の声だ。
「奏くん、起きて」
もう朝らしい。
「う……、あと五時間だけ……」
「だけって長さじゃない」
「休みだし……」
「バイトがあるでしょ。早く起きないと寝顔を写真に撮っちゃうよ」
と、言ったつぎの瞬間、カシャシャシャシャシャシャシャ! と連写のシャッター音が聞こえた。
俺はかっと目を開いた。
「いや猶予なさすぎだろ!」
「早くって言った」
「早すぎる……!」
俺は渋々、身体を起こした。風璃はスマホの画面を見てうっすら笑っている。
「奏くんっていつも掛け布団を抱いて寝てるよね」
画面をこちらに向ける。抱きしめているどころか、脚まで巻きつけて布団にしがみついている俺の姿が写っていた。柔道の寝技みたいだ。
「この姿勢が一番熟睡できるんだよ。いっそ抱き枕でも買おうかと思ってる」
「そうか、抱き枕って手も――」
風璃はあごに指を当ててつぶやく。
「なんて?」
「ううん、なんでも。ほら、遅刻するよ」
壁のデジタル時計は午前九時七分を示していた。出勤時間は十時だから、だらだらしている余裕はない。
コンビニで買っておいたハンバーガーと牛乳で遅い朝食をとり、身支度を整えた。
「あのさ――」
玄関まで見送りにきてくれた風璃に声をかける。
「なに?」
「いや。起こしてくれてありがとう。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
俺はアパートを出た。
今日、五月十六日が俺の誕生日であることを覚えているか風璃に確認しようとしたが、お祝いやプレゼントを催促するみたいでいやしい感じがして、言うのをやめた。
――まあ、覚えてないかもなあ……。
誕生日を風璃と一緒に過ごしたことは一度もない。十八歳の誕生日はまだ風璃は妹にはなっておらず、十九の誕生日はアパートでひとり寂しく過ごした。お祝いのメッセージは送ってくれたが、そろそろ日付が変わろうかという時刻になってようやく、
『おめでとう』
の一言だけ。風璃らしいと言えば風璃らしいが。
――抱き枕でも買おうかな……。
誕生日だし、それくらいの贅沢は許されるだろう。
◇
休日の今日は八時間勤務プラス休憩一時間、正味九時間の拘束となる。勤務時間が長くても体力はあるほうなので苦にはならないし、いつもは持てあます休憩時間も、通販サイトで抱き枕を吟味しているうちに終わってしまった。
十九時きっかりに退勤し、アパートに帰宅する。
「ただいま」
と、リビングへのドアを開けると、風璃が行く手を阻むように立っていた。
いつにも増して目つきが鋭いし、なぜか呼吸も荒い。
「な、なに……?」
問いには答えず、風璃は右手を後ろに隠したまま一歩、俺に歩み寄る。気迫も仕草も殺し屋のそれである。
「え、ちょ……」
風璃は血走った目で俺をにらみつけ、はあはあと苦しそうに呼吸をしながら、また一歩近づいた。
風璃が俺に危害を加えるわけがない。それはわかっているのに、彼女の尋常でない表情を見ると足がすくんで動けなくなってしまう。
「そ、奏くん……」
「風璃、やめ――」
「奏くん!」
風璃が右手を前に突きだした。
「っ!」
その瞬間、パン! と破裂音が鳴る。
――
「そ、奏くん! 誕生日、おめっ、おめでとう!」
風璃がほとんど叫ぶみたいな声で言った。
「……え?」
俺は東大寺の金剛力士像みたいなポーズのまま間抜けな声をあげた。
風璃の手元を見る。握られていたのは拳銃ではなく、パーティー用のクラッカー。足元には色とりどりの紙吹雪や紙テープが散らばっている。
視線を顔にもどす。
「え、これって……」
風璃の顔面がひくひくと痙攣している。見ようによっては笑顔に見えなくもない。
「もしかして、誕生日を祝ってくれてる……?」
頭がはずれそうなほどの勢いで頷く風璃。
「サプライズパーティー……」
「か、風璃い……!」
覚えていてくれた。それだけじゃない。サプライズパーティーまで用意をしてくれていたのだ。風璃の狙いとはべつのサプライズをしてしまったが。
目が怖かったり息が荒かったのは、風璃はこういうパーティーなどで陽気に騒ぐタイプではなく、勝手がわからなかったからだろう。それでも必死に頑張ってくれた。もうそれだけで俺のなかの幸福度のメーターが振りきれてしまいそうだ。
「入って」
うながされてリビングに足を踏みいれる。ダイニングテーブルを見た俺は思わず声をあげた。
「これは……!」
スモークサーモンやチーズ、クラッカー、磯辺揚げにイカの煮物、冷や奴、豚の角煮などが所せましと並べられている。
そして真ん中には、俺でも知っている有名なウイスキーや日本酒、怖そうな名前の焼酎の瓶が置いてあった。
「お酒、お母さんが送ってきてくれたの」
「でもこれ、すげえ高いやつじゃ?」
「なんか『肝臓は消耗品だ。安酒で浪費するな』って言ってた」
「言いそう……」
「おつまみはわたしが作った」
二十歳になった俺のために、酒のつまみを作ってくれた、だと? なんだこの世界最高の妹は?
「ああ、もう……、これが夢なら一生目覚めなくていいわ……」
「いや、周りが困るから。渡したいものもあるし」
と、いったん自分の部屋に引っこんで、パステルカラーの包装紙に包まれた小さな箱を持ってきた。
「はい、プレゼント」
「プレ、ゼント……。え、俺に?」
「うん」
「もらっていいのか?」
「うん」
「開けていいのか?」
「うん」
「え、本当に俺に?」
「疑り深いなっ。早く開けなよ」
包装紙を破かないようにきれいに剥がす。化粧箱の蓋を開けると、紙の緩衝材に埋もれるように陶器とガラスの器がひとつずつ入っていた。
「ぐい呑みとグラス。あまり高価なものじゃないけど……」
「おお……」
両手に持って、神に捧げるように掲げる。
「きらきらしてる……」
「それ蛍光灯の光」
「ちょっと待って。八紘――友だちに自慢するわ」
俺はぐい呑みとグラスをテーブルに置き、スマホで写真を撮った。
LINEで写真とメッセージを送ると、ほどなくして血の涙を流すクマのスタンプとともに、
『明日から一週間、奏太郎くんが犬のうんこを踏みつづけますように』
という絶妙に陰湿な呪いの言葉が返ってきた。
「ははっ、悔しがってる」
「やめてよ……。ほら、もう食べよう?」
風璃がプレゼントしてくれたぐい呑みに、風璃がお酌をしてくれる。俺は空いた左手にスマホを持ち、カメラを起動した。
「なにしてるの?」
「俺を祝ってくれる風璃の動画を撮ってる」
「もう、浮かれすぎ」
「そりゃ浮かれるさ。こんなに幸せなんだから」
「まったく……」
風璃は苦笑いをして、ウーロン茶の入ったグラスを掲げた。
「はい、じゃあ改めて、二十歳の誕生日おめでとうございます」
「ありがとうな」
ぐい呑みとグラスをかちんとぶつける。
日本酒を口に含む。水のようにさらっとしているのに甘く、ほのかにフルーツのような香りがする。
「うま……」
これが酒か。
「冷や奴、食べてみて。合うらしいから」
風璃にうながされるまま、豆腐を口に運ぶ。淡い味の豆腐にネギやミョウガの薬味がきいていてこれだけでも充分においしい。
そこにさきほどの日本酒を流しこむ、薬味の刺激がやわらぎ、同時に豆腐本来の大豆の香りが引きたった。
「はあ……、なんだこれ……、すごい」
「おいしいの?」
「焼肉ぐらいうまい」
「わかるようなわからないような……」
日本酒は豚の角煮にもよく合った。甘辛で脂の旨み角煮の味を、日本酒がさっぱりとリセットしてくれるような感じだ。
「これもすごい……」
「おいしい?」
「焼肉ぐらいうまい」
「奏くんのマックスは焼肉なの?」
料理に舌鼓を打っていると、風璃がプレゼントのグラスを持ってキッチンへ行き、氷を入れてもどってきた。そこにウイスキーをとくとくとそそぐ。氷がちりちりと音をたてた。
「こっちはスモークサーモンと合わせてみて」
言われたとおりスモークサーモンを食べたあと、ウイスキーをちびっと舐める。
燻製の香りが、ウイスキーの香りと合わさってより芳醇になる。
「これもすげえ……!」
「焼肉くらいおいしい?」
「いやもう、ほんと、すごく……焼肉くらいおいしい」
「奏くん、まちがってもグルメ番組には出られないね」
幸福感と空腹感で、食も酒もどんどん進む。
気がつくと視界がふわふわと揺らいでいた。
「あれ? もしかして俺、すごい飲んでない……?」
「そう? ちょっとしか減ってないよ?」
と、瓶を掲げてみせる。
「ほんとだ、減ってない。度数が強いのかな……」
酒初体験の俺にはどれくらいが自分にとって適正な量なのか判然としない。そろそろセーブしたほうがいいのだろうか――などと冷静に考えていられるのだからまだまだ大丈夫なのだろうか。しかし風璃に醜態をさらすわけにもいかないし。
「そろそろセーブしようかな……」
「ええ? まだまだ料理もたくさんあるのに?」
「いや、でも――」
「まあまあまあ」
と、ぐい呑みに焼酎をそそぐ。
「今日は誕生日だよ? しかも二十歳の。少しくらい羽目をはずしてもよくない?」
「ううん……」
「お店ならともかく自宅だし。仮に酔い潰れても問題ないよ」
「まあ……」
「ほらほら。飲もうよ、お酒。はずそうよ、羽目」
「なぜ倒置法」
たしかにまだまだ頭も働いているし、もうちょっとくらいなら飲んでも大丈夫だと思う。
「ね? イカの煮物も食べてよ。けっこうおいしくできたから」
「そうだな、もう少しだけ」
と、俺は焼酎に口をつけた。
「お兄ちゃん、ほらお水」
ソファに座る俺に、風璃がお冷やをもってきた。
「ん……。――え? いま『お兄ちゃん』って言った?」
「だってお兄ちゃんでしょ?」
「……そ、そうだよな」
「変なの」
そうだ、おかしいのは俺のほうだ。お兄ちゃんなんだからお兄ちゃんと呼ばれるのは当たり前じゃないか。
俺は思考を放棄して水を飲んだ。
風璃が隣に座り、肩を寄せてくる。
「甘えん坊だな」
「いいでしょ、妹なんだから」
「今日はありがとうな。料理、すごくうまかった」
「でしょ? 褒めて」
「しょうがないやつだなあ」
俺は風璃の頭を撫でた。彼女はネコのように嬉しそうに目を細める。
「お兄ちゃん、疲れたでしょ? 布団敷いたから寝なよ」
と、手を引く。
俺は布団に倒れこみ、抱き枕を抱いた。
――……ん?
なぜ抱き枕があるのだろう。まだ買ってなかったはずなのに。
――まあ、いいか。
そんな細かいことなどどうでもよくなるくらい抱き心地がいい。温かいし、柔らかいし、いい匂いもする。ぐっすり眠れそうだ。
――今日は、最高だったな……。
「風璃」
「なに?」
「一生守ってやるからな、お兄ちゃんが」
「うん」
「どこにも行かないでくれよ」
「行かないよ」
そう、ずっと一緒だ。俺たちは『家族』なのだから。
「――きて」
声が聞こえる。
「――くん、起き――」
風璃の声だ。
「奏くん、起きて」
もう朝らしい。
俺はまぶたを開いた。風璃が俺の顔を覗きこんでいる。
「もうお昼だよ」
「う……」
のそりと身体を起こす。
「ん……。――あれ? いまなんて?」
「もうお昼だよ」
「いやその前」
「奏くん、起きて」
「なんでもどってるんだ?」
風璃は眉根を寄せた。
「は? どこからどこへ?」
「だって昨日は――」
――『お兄ちゃん』って。
しばらくぼうっとしていたが、徐々に頭が冴えてくる。
――あ、夢、か……?
「え、どこからが夢?」
「なに言ってるの?」
「風璃からプレゼントはもらったよな?」
「うん」
「パーティーはやったよな?」
「うん」
「俺はお兄ちゃんだよな?」
「……奏くんは奏くんだけど」
やはり、風璃が俺のことをお兄ちゃんと呼んだあたりから夢だったらしい。
「そっかあ……」
と、ぼやくような声を出してはみたものの、俺はそれほど残念ではなかった。むしろ、夢のなかとはいえお兄ちゃんと呼んでもらえて満足すらしている。
――いい誕生日だった……。
一生忘れないし、死ぬ間際に見る走馬灯でもきっと思い出すことだろう。
「はあ……」
と、ため息をついたのは風璃。よく見ると、髪はぼさぼさだし、目の下にクマができている。
「どうした、疲れた顔して」
「眠れなかったの」
ちらっと俺を見て、恥ずかしそうに視線をそらす。
「奏くんのせいで」
「…………ん?」
――俺のせいで?
赤らめた頬、泳ぐ視線、気だるげな表情。それらから導きだされるのは――。
――え、いや、まさか、そんな……!
「ち、ちちち違うよな? そそそそそそそそういうのではないよな? な!」
風璃は口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そういうのって?」
「いや、だからその、眠れなかったって……」
「奏くんが寝かせてくれなかったんだよ?」
「っ!!」
頭が真っ白になってなにも言えなくなる。
風璃がつけ加えた。
「いびきがうるさくて」
「…………い、びき……?」
「そう。いびき。ぐあああ、って。熊みたいだった」
と、おかしくもなさそうに笑う風璃。
「いびき……。いびきな! はいはい! よかった!」
「こっちは全然よくないんだけど」
「ははは! すいません!」
「笑いながら謝らないでよ」
風璃はぶすっとしているが、俺は安堵していた。
そうだよ、いくら前後不覚になったって、俺が風璃に手を出すことなんてあり得ない。風璃は妹だ。大事な家族なんだ。
腹がぐうと鳴る。昨晩あれほど食べて飲んでも、さすがに昼間で眠りこけると腹は減るらしい。
残り物の磯辺揚げやイカの煮物を温めなおして朝食兼昼食にする。
「時間がたってもうまいなあ。まだたくさんあるし、夜もこれで飲もうかな」
「奏くんはお酒を飲まないほうがいい」
「え、昨日はあんなに羽目をはずせって……」
「それは誕生日の話」
「でも」
「ちゃんとして。大人でしょ」
風璃は真顔でぴしゃりと言った。
――ええ……?
けじめが極端すぎる。
「奏くんはお酒を飲むと本性が出るから」
「……え? 本性って、どんな?」
「もう、ほんとひどい、最悪の本性。わたしにとってはね」
「風璃にとっては、って……?」
「言わない」
風璃はぷいっと顔をそむける。
俺は一日のうちに乱高下した彼女の機嫌に戸惑いながら磯辺揚げをかじった。
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