第16話 伝えたり伝えなかったり
翌朝、富岡と同じ電車に乗り、昨日と同じように斜め後ろに陣取った。
電車が動きだす。彼はスマホでニュースをチェックしはじめた。
俺はスマホから視線を逸らした。昨晩はぎりぎりのところで手を出さずに我慢することができた。しかしいまここで風璃への加害をしようものなら、自分を抑えられるかわからない。
アナウンスがつぎの駅への到着を告げた。
俺は懐に忍ばせておいた封筒をとりだした。ドアのほうへ移動すると同時に、富岡のスーツのポケットに滑りこませる。
ドアが開く寸前にちらりと顧みたが、彼はさきほどとまったくおなじ姿勢でスマホをいじりつづけていた。
ホームに降り立つ。ドアが閉まり、電車が駅を出ていく。俺はそれをにらむように見送った。
あの封筒には、富岡の個人情報と書きこみのスクショを印刷したものが入れてある。
あれを読んであいつはなにを感じるだろう。仕事を失うことへの不安か。あるいは世間から白い目で見られることへ恐れか。
願わくば、家族を悲しませるかもしれなかったことへの反省であってほしい。
――もう二度と、俺たちの前に姿を現すなよ……。
つぎは自制できる自信はない。
俺は向かいの電車に乗り、大学へ向かった。
◇
それから三日ほどたったある日の朝のことだ。
「ネトストのコメント、止まったかも」
風璃がそう報告してきた。
毎日のようにおこなわれていた嫌がらせがぴたりとやんだらしい。それだけでなく、ネトストのアカウントもコメントもきれいさっぱり消えていた。自主的に消したようだった。
「よかった」
俺は二重の意味で安堵した。風璃が安心して生活できるようになったことと、もう名前すら呼びたくないあの野郎の顔を二度と見ないで済みそうなことに。
「ありがとう」
「俺はなにも」
礼を言った風璃に俺は目を向けられず、スマホの画面に目を落とした。
結果的に嫌がらせを止めることができたが、もっと賢いやりようがあったような気もするし、あのとき覚えた暗い感情のことを思うと、兄として決して胸を張れない。
「でも、ありがとう」
「ああ」
風璃は詳しいことを聞いてこない。それがいまの俺にはありがたかった。
「『ネネコズキッチン』に復帰するのか?」
「うん、今日、撮影する予定」
「楽しみにしてる」
などと言ったらまた嫌がられるかと思いきや、風璃は、
「うん……」
と、戸惑うような、恥ずかしがるような表情でつぶやくように返事をしただけだった。
――……?
久々の出演で緊張しているのだろうか。
「大丈夫、いつもどおりやればいいんだよ。しゃべるわけじゃないし」
「……しゃべるかもしれない」
「え!? そんなことしたら美弥緒さんとの友情にひびが入るかもしれないじゃないか!」
「え? な、なんで?」
「風璃がしゃべるだろ。いい声だろ。みんな風璃のことが好きになるだろ。そしたらネネコズキッチンは風璃の人気でもってるって言われはじめるだろ。美弥緒さんがへそを曲げるだろ。――ほら! 友情の危機だ!」
「なにその風が吹けば桶屋が儲かるみたいなの」
風璃は呆れたようにため息をついた。
「第一、まだ迷ってるし」
「だったら言ったほうがいい」
「どっちなの……」
「迷うのはやりたいからだろ。やらない後悔よりやって後悔したほうがいい」
「……」
「大丈夫だよ、友情の危機っていうのは冗談だし」
「奏くんの場合、冗談に聞こえないから怖いの」
「きっとみんな風璃のことをもっと好きになるよ。俺が保障する」
どん、と俺は自分の胸を叩く。
「……好きになってほしいのはみんなじゃないんだけど……」
風璃はぼそっとつぶやくように言った。
「ん? なんて?」
「なんでもない。――学校いってきます」
鞄をつかみ、風璃は玄関を出ていった。
ちょっと前までやめるかやめないかで迷っていたことを考えれば、どんな動画にしようかと迷っている現在のなんと幸福なことだろう。
これからも風璃は様々なものに触れて世界を広げていくことだろう。彼女の歩む道をきれいに舗装することはできないけど、障害物が立ちはだかったとき、まっさきに駆けつけられる存在でありたいと思う。
二限目を終えて、俺は八紘にことのあらましを報告した。
八紘はげっそりした顔をかすかに歪めて笑った。
「よかったね……」
「お前は具合悪そうだな……」
「とてもつらい」
虚ろな目を教室の窓に向ける。
「あの
――怖い怖い怖い……。
よくわからないが
「なにかあったのか? 俺でよければ力になるぞ」
八紘は風璃のために尽力してくれた。ぜひ恩返しをしたい。
彼は遠い目をしたまま言った。
「僕の好きだった子が結婚した……」
「おおっと……」
八紘の口から恋愛の悩みが飛びだしてくるとは予想だにしなかった。
恋愛素人の俺が失恋の相談に乗れるとは思えないが、力になると言った手前、いまさら引けない。
「よかったら話してみろ」
「その子は僕の青春そのものだった」
なんだかこそばゆくなるセリフだが、茶化すべきではないだろう。八紘は落ちこんでいるのだ。
「中学生のころかな、初めて出会ったのは。知らぬ間にクラスの最下層になっていた僕は、路傍の石みたいな存在だった。そんな僕に、その子は笑いかけて言ってくれたんだ。『ひとりじゃないよ』って」
ぐっ、とのどを鳴らして言葉につまる八紘。
「その子にとって僕は大勢のなかのひとりだったかもしれないけど、僕にとって彼女は唯一の存在だったんだ。特別な関係になりたかったわけじゃない。ただ、楽しそうに笑う彼女を見ていたかっただけ。――なのに……」
八紘は手で目を覆った。
「八紘……」
かける言葉もない。俺は黙って彼の肩に手を置いた。
「まさか野球選手と結婚しちゃうなんてなあ……」
「や、野球選手? 草野球か?」
「プロだよ。大和ハムブレイブスのピッチャー」
「まじかよ!? すごくない?」
「すごくないよ。なるシャンなら当たり前」
「あ、当たり前!? というかなるシャンってなに!?」
「なるシャンはなるシャンだよ。長瀬なるの愛称」
「シャンはどっから来たんだよ……」
すると八紘はふふと笑った。
「朝シャンをしすぎて頭皮が脂漏性皮膚炎になったんだ。だからだからみんなに『なるシャン』って呼ばれるようになったの。面白いでしょ?」
「俺には壮絶ないじめにしか聞こえん……」
「でも、活動はつづけていくって言ってるし、かえって純粋な気持ちで応援できるかもって思ってる。まだちょっと引きずりそうだけどね」
「活動って?」
「声優活動」
「声優!? え、お前、声優と知りあいなのか?」
八紘は大笑いした。
「知りあいではないよ。大ファンだけど」
俺はぽかんと口を開けた。
いままでの会話を頭のなかで整理する。
『その子は笑いかけて言ってくれたんだ』=アニメの話。
『その子にとって僕は大勢のなかのひとりだった』=芸能人と一般人の関係。
「ただのファンじゃねえか!」
「ただの、ではないよ。大ファン。足かけ八年近く、僕はその子しか推してこなかった」
「八年って、え? お前が中学のときにはもうデビューしてたんだろ? いま何歳なんだ?」
「三十四歳」
「子ですらねえ!」
「声優は歳をとらないんだよ」
「声優界はネバーランドかなにかか?」
「三十回近く十七歳の誕生日を迎えたひともいるし」
「もう意味わかんねえよ……」
世間にはまだまだ俺の知らないことがたくさんある。ある意味、俺も世界を広げられたのかもしれない。
八紘の表情は明るくなっていた。ひとに話すことで気が晴れたのだろう。
すべての講義を受けたあと、俺はバイトに行った。
今日はミスひとつなく、社員からも仕事が早いと褒められた。
休憩時間になり、俺は足早に休憩室に向かった。自販機でヨーグルト飲料を買い、パイプイスに腰かけると、スマホをとりだしYouTubeのアプリを起動する。
再生するのはもちろん『ネネコズキッチン』の最新動画だ。
はきはきとしゃべりながら、きびきびと料理するネネコこと美弥緒さん。いつものことながら、その変貌ぶりに感心する。
そしてときおりちらちらと見切れるベネチアンマスクのアシスタント――風璃。
「ふふっ」
嬉しくて、思わず声をあげて笑ってしまった。
出来上がった豆腐ステーキを試食し終わり、美弥緒さんがカメラに向かって言う。
「皆さんもぜひ作ってみてくださいね」
――ん? 終わり……?
今日は風璃がなにかしゃべると聞いていたが、やっぱり恥ずかしくてやめたんだろうか。
などと考えていたところ、美弥緒さんが決まり文句とは違うセリフを口にした。
「――それでは、今日はKちゃんから言いたいことがあるんだよね?」
と、声をかけると、風璃が画面に入ってきた。
いよいよしゃべる――と思いきや、風璃はスケッチブックを画面に向けて、まるでピン芸人のネタみたいに紙をめくった。
『ご心配おかけしました』
めくる。
『これからもよろしくお願いします』
そして美弥緒さんに向かって頷く。
「ではまた次回。バイバイ!」
ふたりで手を振り、動画は終わった。結局しゃべらずじまいだった。
――やっぱり緊張しちゃったか。
コメント欄を見ると、
『おかえり!』『よかったです』『待ってました』
などなど、好意的な言葉が並んでいる。
ちょっとほろっとしてしまう。
――よかったなあ……。
俺はポケットティッシュで鼻をかんでから売り場へともどった。
◇
「動画、よかったぞ」
帰宅後、部屋着姿でくつろいでいた風璃に声をかけた。
「ん」
彼女はぶっきらぼうに返事をした。照れくさいのだろう。
「豆腐ハンバーグ作った」
キッチンにはラップのかかった豆腐ハンバーグがあった。
「おお! これ食いたいと思ってたんだよ! ――こっちの鍋は?」
「豆腐のお味噌汁」
「おお。……いや、うん、豆腐好きだし、全然いいよ。ヘルシーだし」
「付けあわせは
――植物性タンパク質が攻めてくる……!
大豆の夢を見そうだ。
豆腐ハンバーグは甘辛のたれでしっかり味付けがされており、意外と食べごたえがあった。あっさりめのおからとの食べあわせもよい。
「そういえばさ、なるシャンって知ってる?」
八紘から聞いた話を風璃にしてみようと思った。知らないうちに世界を広げていた風璃に対し、俺は置いていかれるような寂しさを感じていた。だから最新のトピックを持ちだして『俺だって流行ぐらい追えるんだ』と見栄を張りたい気持ちがあった。
「なるシャン?」
「ええと、本名はなんていったかな……。まあとにかく、声優さんだよ」
「ああ、野球選手と結婚したひと」
「そうそのひと。下の名前が『なる』っていうんだけどさ、なんで『なるシャン』って呼ばれてるか知ってる?」
「知らない」
「朝シャンをしすぎて頭皮を傷めて皮膚炎になったんだって。だからみんなから『なるシャン』って呼ばれてる。面白いだろ?」
正直、俺は面白いとは感じなかったが、最近は声優さんがテレビに出たりアイドル的な人気があったりするし、世間的には面白い話なのだろう。
「え……?」
風璃は眉をひそめた。
「面白くはないけど……。そのひと、いじめられてるの?」
「い、いや、いじめられてはいないらしいけど……」
「奏くんは面白いと思ったの?」
「いや、あの……」
風璃は
俺は視線の圧力に負け、身体を縮こまらせた。
「――とくに面白いとは思ってないです……」
「じゃあなんで話したの?」
「面白いのかなって……」
「……大丈夫?」
侮蔑から怪訝の顔つきになる風璃。慣れない見栄など張るものではない。
――八紘の野郎……、やっぱりつまんねえじゃねえか……!
これからは自分の感覚を信じようと心に誓った。
「そ、それにしても大変だな有名人って。結婚したとか付きあってるとか、いちいち公表しなくちゃならなくて」
一刻も早く『シャンの由来』から遠ざかりたい一心で俺は話題を転換した。
「ほんとにね」
話に乗ってくれて安堵した――と、思いきや。
「わたしも公表しようかなって思ってた」
風璃はとんでもない爆弾を投下してきた。
「は……、はああああああああああ!?」
「声おっきい」
「公表って、おま――はああああああ!?」
「うるさいなあ……」
と、迷惑そうな顔で耳を塞ぐ。
「た、たとえばの話、だよな?」
俺はほとんど懇願のように尋ねる。
「べつにたとえてないけど」
「き、聞いてないぞ……!」
「当たり前でしょ。言ってない――ううん、言わなかったんだから」
「どうして言わなかったんだ……」
風璃は立ちあがり、自分の部屋のほうへ歩いていく。引き戸を開き、俺のほうに振り向いた。
「思ったの。わたしの気持ちは一番大事なひとにだけ伝えたいって。一番最初はそのひとじゃなきゃ嫌だって。だから言わなかった」
「でも、俺はお前の家族だぞ? 隠し事なんて――」
「……だから言えないんだよ」
引き戸を閉めようとする風璃に、俺は慌てて声をかけた。
「ま、待て。いつから付きあってるんだ?」
「付きあってなんかない」
「え、待って、付きあってるのを公表するって話じゃないのか?」
「全然違うけど」
――???
頭のなかでハテナマークが踊る。
俺がよほど間抜けな顔をしていたのか、風璃はくつくつと肩を揺らした。
「安心して、奏くんが思ってるようなことはまだまだ起こりそうもないから」
風璃は小さく手を振って引き戸を閉めた。
――つまり……、どういうことだ?
俺は閉まった引き戸をじっと見たまま、しばらく突っ立っていた。
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