第38話 誰か、夢のなかで俺にエッチなことをしてくれたのかもな。

 目を開けると、夜空だった。空いっぱいに、満点の星が輝いている。ここはどこだろう。さっきまで、俺は、どこにいたんだっけ。なにもわからない。なにも思い出せない……。生きているという実感が薄い。もしかしたら俺は、死んでしまったのだろうか?


 そのとき、右手に感触があった。手が繋がれている。見上げると、女性がやさしく微笑んでいた。


「あの星が、乙女座のスピカ。あれがうしかい座のアルクトゥルス。そして、獅子座のデネボラ。その三つを繋いで、春の大三角」


「そうなんだ」俺は、そう答えていた。


 星を指す指は、白い。あまりにも、白い。なんだか、とても懐かしい気がした。


「この空のこと、忘れないで。しっかり覚えてて」


 女性は、俺に向かって微笑みかける。


「うん。わかったけど、どうして? また、見れば良いじゃん」


「空が……星が、いつまでもあるとは限らないから」


「どういうこと? 空は、いつもあるよ」


「わたしの故郷から見えた夜空は、もう、なくなっちゃったからね」


「ふーん?」よくわからない。


「明久に言うかどうか迷ってたんだけど。わたし、実は宇宙人なの」


「え?」


「なんてね」


 そうだ。俺は、少しずつ理解していた。これは……過去の記憶。母親との、記憶だ。


「明久、大きくなったね」当時の小さい俺に、母は言った。


 俺は嬉しくなって、笑顔で応える。


「これから、もっと大きくなるよ」


「そうだね」母は、ぎゅっと、俺の小さい手を握る。「ずっと一緒にいてあげたい」


「うん。ずっと一緒」


「明久は、どんな大人になるのかな。格好良くなるかな」


「なるよ……たぶん」


「お嫁さんをもらったりするのかな」


「するかもね。一応、約束したから」


「そっか。月乃ちゃんと?」


「うん。まあね」


 そういえば、そんなこともあったな。


「さびしい」そう言って、母は俺の小さな体を抱きしめた。


「どうしたの?」


「明久と一緒にいられないのが、さびしい」


「なんで? お母さんと、ずっと一緒だよ」


「わたしは……あなたが大人になるまで、この地球を守らないといけないから」


「どういうこと?」


「もう、随分と力を使っちゃったから、いつまで保つかはわからないけど。それでも、時間稼ぎにはなると思う。わたしにできるのは、妹が来るまでの時間稼ぎ。明久が大人になるまで、保てば良いんだけど」


 当時の俺には、母が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。


「芽依のこと、よろしくね」


「うん!」


「立派な人間に育ってね」


「頑張る!」


「良い子。本当に、良い子……」


 母は泣きながら、俺の頭を撫でていた。


「お母さん。泣かないで」


「うん。ごめんね。でも、ちょっとだけ、泣かせてね」


 いま見ている光景が、俺にとってどのような意味があるのか、よくわからない。


 ただ、ひたすらに懐かしかった。


 ゆっくりと、視界が薄れていく。世界が暗闇に包まれていく。


 ただ、体には、母に抱きしめられている感触だけがあった。


「明久」母の、美しい声。「諦めないで。勇気を出して。頑張って。明久なら、きっと大丈夫だから」


 ぎゅっと。さらに強く抱きしめられていることがわかった。少しずつ、体に力が戻っていく。


「大丈夫。いまのあなたは、みんなに愛されているのだから」


 そのとき、遠くから声がきこえてきた。俺の名前を呼ぶ声。きき覚えのある声。

 俺の意識は、その声に引かれるようにして浮上していった。

 さきほどまで感じていた温もりは、すべて、しっかりと俺のなかにある。

 全身に力がみなぎっている。どんどん声が近づいている。

 俺は、ゆっくりと目を開けた。


「明久さん!」


 目の前で、美しい女性が涙を流していた。どこか、母の面影のある女性だ。


「どうした? 泣いてるのか?」と俺は言った。


「泣いてません!」イプノスは目元を拭うが雫がこぼれて止まらない。「生きていたんですね」


「なんとかな」


 なんだか、長い夢を見ていたような気がする。しかし、夢の内容を思い出すことはできなかった。ただ、幸せな夢だったことだけは覚えていた。


 俺とイプノスは、紫色の防護壁のなかにいた。

 巨大赤竜が全身で体当たりをしかけているのがわかった。

 紫色の防護壁は、ぎしぎしと軋んでいる。


「生き返ったところで申しわけないのですが、私の張った防護壁も、じきに破られてしまうでしょう。万事休すです」


「大丈夫だ。俺に任せろ」


「……明久さん、アモーレが回復してます」


「なんでだろうな。誰か、夢のなかで俺にエッチなことをしてくれたのかもな」


「その人物に感謝をしないといけませんね」


「まったくだ」


 誰だかわからないけど。それでも、ありがとう。


「さて。やっちまうか」


「そうですね。泣いても笑っても、これで最後です。全力でいきましょう!」


 俺とイプノスは両手を繋いだ。


 全身に力を込める。視界に映るもの、すべてが紫色に変わっていく。


 巨大赤竜は、こちらを睨んでいた。爪が赤く光る。

 その瞬間を狙い、俺とイプノスは巨大赤竜の目をめがけて特攻した。


 持てる力、すべてを込めた、渾身の一撃。

 巨大赤竜の目を貫き、脳天をも突き破る。


 これが、俺の集めてきた力だ。人間にある、尊い感情。 愛。

 それにより、苦しむ人もいるけれど。多くの人間が幸せになれる。それが、愛の力だ。


 紫色の光となった俺たちは、巨大赤竜の頭部を突き破った。

 背後を振りかえると、巨大赤竜の頭部が消し飛んでいた。

 ゆっくりと、巨大赤竜の肉体は粒子へと変換され、宇宙へ溶けていく。


「……本当に、倒したんだな」


「そうですね。胸を張りましょう」


「って、お前、小さくなってるじゃん」


 いつの間にか、あの手のひらサイズのイプノスに戻っていた。


「すべての力を使い果たしたので」


「なんだよ。あの美人な状態のお前に、キスしてもらおうと思ってたのに」


「いまの私で我慢してください」


 ふわりと俺の口元へ近づいてきて。ちゅっと、小さな小さなキスをしてくれた。


「私のファーストキスです」


「……ありがとう」


「私も感謝しています。姉の敵を討てたわけですし」


 俺は、イプノスを抱きしめてやりたかった。

 しかし、あまりにも小さい姿なので、抱きしめることができない。潰れてしまうだろう。

 人差し指を出して、そっとイプノスの頭を撫でた。


 そして、俺たちはゆっくりと宇宙空間を進んでいった。

 青くて美しい星。俺の故郷、地球まで戻ってくる。

 その存在を確認し、俺は、ほっと一息ついた。


「さて。そろそろ、お別れの時間ですね」


「……帰るのか?」


「そうですね。私は、またべつの惑星へ行かないといけないのです」


「さびしくなるな」


「いまの明久さんは、しっかりと自分の足で歩いていけるはずですよ」


「……おう」


「泣かないでください」


「泣いてねえよ」


「この雫はなんです?」そう言って、イプノスが俺の目元にふれた。


「泣いてるけど……。悲しいわけじゃない。この地球の美しさに、感動してるだけだ」


「そうですね。この美しい星は、明久さんが救ったのです。誇りに思ってください」


「俺じゃない。俺と、お前で守ったんだ」


「そうですね」


「また、会えるかな」


「強く願っていれば、いつかは」


「じゃあ……またな」


 さよならは言いたくなかった。


「また、いつか、どこかで会いましょう」


 そう言って、イプノスの体が紫色に光りはじめた。


 少し遅れて、俺の体も紫色に光る。もう、イプノスの声はきこえない。少しずつ、視界は紫色に染まっていく。


 俺は最後まで、意識が途絶えるまで、ずっとイプノスの顔を見ていた。

 絶対に忘れないように。死ぬまで覚えていられるように。

 俺だけは、ずっとイプノスのことを覚えている。そう、強く願った。

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