第30話 兄さん、大好きだよ。

 俺たちはエレベーターに乗って七階を目指した。

 担当の看護師には、ちゃんと声をかけておいた。脱走ではない。


「七階に何があるんだ?」


「外に出られる屋上庭園があるの」


 最近の病院には、そんなものまであるのか……。


 エレベーターを降り、廊下を進んでいく。

 ドアを開けると、そこには庭園と呼ぶにはさびしい空間が広がっていた。

 幾つかの植え込みが置かれており、申し訳程度に木が生えていた。

 冬ということもあって、殺風景なものだ。

 あとはベンチが並んでいる。その空間には、俺たち以外に誰もいない。


「ほら、こっち」と芽依に手を引かれ、端のほうへと歩いていく。


 万が一にも転落しないようにだろう、高さのあるフェンスが備えられていた。

 この病院は、小高い丘の上にある。遠くまで見晴らすことができた。


「綺麗だね」


「ああ」


 ただの、よくある風景だ。丘のふもとには街がある。学校がある。駅がある。

 そこには日常しかない。面白いものなど、なにもない。

 しかし、どうしてか、いまの俺には、街が美しいものに思えてならなかった。


「まず、いままで頑張ってくれて、ありがとう」芽依はそう言って微笑んだ。「そして……。あとは、兄さんに任せるよ。もう疲れて、戦えないなら、それで良いと思う。残りの時間を、一緒に、楽しく遊んで暮らそうよ。学校も休んでさ。世界中を旅行したっていいし。ずっと家にいても良い。わたしは最後まで、兄さんと一緒にいる」


 そして、芽依はぎゅっと俺にしがみついてきた。


「でも、本当はね。無理なのはわかってるんだけど。もう少しだけ、頑張ってほしいな」


「芽依……」


「わたし、この世界が好き」そう言って、芽依は俺に抱きついたまま、街のほうを向いた。「兄さんがいて、月乃お姉ちゃんがいて。友達がいて……。もうお母さんはいないけど。でも、この世界が好き。もちろん、楽しいことばっかりじゃないよ。嫌なことだってたくさんある。嫌な人もいるし。それでもさ。わたし、この世界が、大好き」


「兄さん、大好きだよ」芽依は、再び俺に強く抱きついてくる。ぎゅっと。


 その抱擁は長かった。いままでで、一番長かったかもしれない。何分もつづく。

 芽依は顔をあげた。少し目元が赤くなっていた。もしかしたら、芽依も泣いていたのかもしれない。


「辛くなったら、逃げても良いから。諦めて良いから。誰も兄さんを責めたりしないから。あと少しだけ、元気を出して、諦めないで、頑張ってほしいな。すごく残酷なことを言ってるのはわかってる。兄さんに辛いことを全部を押しつけてさ。ずるいよね。わたし、代われるものなら代わってあげたい。でも、世界を救うのは、兄さんにしかできないことなんだよね。わたしには、兄さんを応援することしかできないのが……悔しい」


「ありがとう」


 思わず言葉が漏れた。考えて出た言葉ではない。それは、心の奥底から漏れ出た言葉だった。

 俺は芽依を抱きしめた。さっき抱きしめてもらったよりも、より強く。芽依の体が壊れそうなほどに。長い長い抱擁を終えたあと、芽依は言った。


「ねえ、兄さん。目を閉じて」


「え?」


「良いから」


 言われるがままに目を閉じる。


「ちょっと顔を下げて」


「……おう」


 指示に従うと。そっと。唇に何かが触れた。


「えへへ。これで、ちょっとはアモーレが貯まったかな?」


「ああ。大丈夫だ」


 芽依からもらった勇気が、再び俺を奮い起こしてくれた。

 左手の薬指を見ると、指輪は、ほんの少しだが、色を取り戻していた。

 まだ、諦めるには早すぎる。最後まであがいてみせる。

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