第27話 俺は嘘つきなんだ。

 イプノスとともに街をさすらう。知らない女性に催眠をかけ、手をさわらせてもらった。女子大生風の人。見知らぬ女子中学生。主婦。誰でも良かった。大したことはできないけれど。多くの人間と手を繋いだ。皆それぞれ、違った手をしていた。それでも、みんな、ちゃんと温かくて。熱を持っていて。生きているのだということがわかった。

 俺は、この人たち全員を救わなければならない。ほんの少しでも、諦めずにアモーレを貯めなければならないのだ。

 そうしているうちに、時刻は午後十一時をすぎていた。人通りも減ってくる。我が家まで戻るバスの最終便が出る時刻だった。


 疲れ果てた俺は、バスに乗り込んだ。もう客は俺以外に誰もいなかった。


「アモーレは、どうだ? ちゃんと貯まったか?」


「……十分な量です」


 イプノスは苦笑して答えた。


 すぐに嘘だということがわかった。嘘の下手な天使だ。


「何が悪かったんだろうな」


「明久さんは、よく頑張りました」


「もっと、いろいろやれたはずだ」


「大丈夫です。ベストは尽くしていただきました」


 俺は、本当にベストを尽くしたのだろうか?

 もっと最初から、イプノスの話をちゃんときいて、真面目に行動をしていれば……。

 セクハラなんかをせずに、ちゃんと人間関係を進展させていれば……。

 もっと、違う未来をつかみ取ることができたのではないだろうか?

 まあ、いまさら後悔しても仕方がない。

 ふとバスの窓から夜空を見る。夜空の黒が、少しずつ赤に浸食されはじめていた。

 俺とイプノス以外には、この空の禍々しい美しさは見ることもできないのだ。


 俺は深く息を吐いた。


「なあ、イプノス。実際のところ、どうなんだ?」


「非常に厳しい……です」


「そっか。ごめんな」


「謝らないでください。まだ終わったわけではありません。諦めてはいけませんよ」


「そうだな」


 最後の最後まで、なんとかあがいて見せよう。

 自宅に帰り着くと、芽依がリビングのソファで居眠りをしていた。可愛らしい寝顔だ。

 今日は駅前のファミレスで友達と夕食を摂ってきたとか。

 もしかしたら、今日、世界が終わるかもしれない。最後に、もっと美味しいものを食わせてあげれば良かった。こんなに幸せそうな寝顔を、俺は守れないのか? 芽依だけじゃない。月乃も、香芝さんも。今日、手を繋いだ、多くの人たちも。

 思わず、目頭が熱くなった。涙を流さないように、必死にこらえる。


「泣かないでください。まだ、泣くには早すぎますよ」


「……だよな」


 そう答えた俺の声は震えていた。感情を制御できない。すべてを投げ出して、逃げてしまいたくなった。地球の命運なんて、すべてを忘れて……。

 俺は近くのオットマンに腰を下ろし、芽依の寝顔をずっと見ていた。


「うーん」芽依は寝返りを打ち、ゆっくりと瞼を開けた。「あれ? 兄さん? 帰ってたの?」


「さっきな」


 芽依は俺の顔をじっと見た。


「どうしたの? 何か、辛いことでもあった?」


「ないよ。ばっちり。問題ない」


 まだ、なにも辛いことは起きていなかった。


「泣きそうな顔してるよ」


「気のせいだろ」


「ううん。辛いときは、ちゃんと泣いたほうが良いと思う」


「辛くないから泣かないんだ」


「本当?」


「本当だ」


 芽依は体を起こして、ソファに座りなおした。


 そして、リビングに置かれた仏壇をじっと見る。


「お母さんのお葬式でも、兄さん、泣かなかったよね」


「……ああ、そうだった」


「わたし、わんわん泣いちゃってさ。ずっと抱きしめててくれたよね」


 あのときの温もりは、忘れられない。もう二度と、母には会えないのだという悲しさ。

 そして、この温もりを一生守っていこうという決意。

 俺は芽依の前では、泣かないようにしていた。


「ねえ、兄さん、何かわたしに隠し事してない?」


「なにもしてない」


「嘘ばっかり」


「俺は嘘つきなんだ」


「パラドックス起きてるし」そう言って、芽依は微笑んだ。


「なあ」


「何?」


「抱きしめても、良いか?」


「もちろん」


 芽依は笑顔で両手を広げた。

 俺は芽依の小さな体を抱きしめる。温かい。お互いの鼓動が伝わっているのがわかった。

 芽依が生きているという当たり前のことが、とても愛おしく思えて仕方がなかった。


「元気、出た?」


「出た」


「それなら良かった」


 芽依は微笑み、俺の背中をぽんぽんと軽く叩いた。


「わたしにできるのは、これくらいだけど。兄さんが、何に悩んでるのかはわからないけど。頑張ってね」


「……ああ。頑張る」


 死ぬ気で頑張る。いや、生きる気で頑張る……か。俺が死んでしまっては意味がない。


 それから俺は自室でのんびりと時間を過ごした。いまさら、何をしても仕方がない。ベッドに寝転んで、時が来るのを待った。そうしていると、窓外から赤い光が差し込んできた。


「来ましたね……」


 イプノスが忌々しそうにつぶやく。


 俺はベッドから起き上がり、窓際へと立った。


 赤い光が、割れた天から差し込んでいた。神々しい赤色の光。空に、は虫類のような、ぎょろりとした目。その巨大さに、圧倒される。人知を超えた生物。圧倒的な種族の差。体が震えて、止まらなかった。


 しかし、諦めてはいけない。俺は皆を救わなければならないのだ。


 深く息を吐く。ゆっくり吸う。精神を整えると、震えは止まった。


「……行こうぜ」


「はい」イプノスが目を閉じて、両手を組む。「眠りの神よ。我らに、かの災厄を退ける力を授けたまえ……」


 イプノスの体が紫色の光を帯びた。刹那の発光。そして、光が収まったとき。イプノスは、すっかり成長していた。中学生くらいのサイズだ。いままでは可愛いと言えたけれど。もうそろそろ、美しいのほうが相応しい容貌になっていた。


「どうです? 私の美貌に驚いてますね?」


「……ちょっとな」


「ちょっとですか。つれないですね」


 そう言って、イプノスは微笑んだ。この世のものとは思えないほど、美しい笑みだった。


 つづいて、俺も指輪に祈りを捧げる。


 眠りの神よ。力を貸してくれ。この世界を救えますように。この世界に住む、皆を救えますように。大切なものを守れますように……。


 やさしい紫色の光。それに包まれながら、俺は覚悟を決めた。

 たとえ差し違えてでも、巨大赤竜を倒してやる……と。

 俺の背中から羽が生える。力がみなぎっている。大丈夫だ。いける。


 イプノスが隣に立ち、俺の手をつかむ。

 柔らかい手。それが、ぎゅっと俺の手を握っている。

 勇気が出た。


「それでは行きましょう!」


「おう!」


 俺はそう叫んだ。


 俺とイプノスから紫色の光が発され、室内に満ちていく。視界が紫色に埋め尽くされていった。


 そして、次の瞬間、俺とイプノスは宇宙空間にいた。音もなく、気温もなく……。俺が感じられるのは、イプノスの手の温もりだけだった。

 前方に、超巨大な赤い肉の塊。鱗の生えているそれが、ゆっくりと移動をしている。大きな瞳が、ぎょろりとこちらを向いた。

 俺たちの姿を視認したらしい。


「来ます!」とイプノスのかけ声がきこえた、次の瞬間。


 赤い巨大な火球が飛来した。

 俺は必死に宙を舞って回避する。


「まずは回避に専念してください! 攻撃は私が!」


 次々と飛んでくる赤い球を、ひたすら躱す。

 絶え間なく打たれる攻撃だが、しっかりと見て避けていれば問題ない。

 俺と手を繋いでいるイプノスは、目を閉じて集中しているようだ。


「もう少しだけ、時間を稼いでください!」


 イプノスの指示に従い、俺は攻撃を避けつづけた。何度も何度も。しかし、攻撃の手が休むことはない。巨大赤竜の持つエネルギーは無尽蔵なのだろうか。そう思えるほどに、火球が幾度も飛来する。


 そして。

 巨大赤竜が、体を動かした。大きな瞳が、こちらを、じっくりと見ていた。観察しているように。ようやく、俺を敵と認識したのかもしれない。

 一瞬、巨大赤竜の爪が赤く光った。

 直後。

 赤い光が、俺の翼を撃ち抜いていた。

 何が起きたのか、さっぱりわけがわからない。力が抜けていく。

 ふらふらと宙を漂うことしかできない。

 遅れて現状を認識する。何か、レーザーのようなものに射貫かれたらしい。


「あともう少しだけ耐えてください!」


 イプノスの悲痛な叫び。


 彼女の両手には、紫色の光が集まってきていた。

 俺の体から、力が、どんどん抜けていく。

 巨大赤竜が、ゆっくりと動きはじめる。口を開いた。巨大な赤い火球が発せられる。

 俺は残りの力を振り絞って、その一撃を躱す。

 そこで力尽きた。もう動けない。飛ぶこともできない。


「よく頑張りました」イプノスが、そうつぶやいた。「あとは私に任せてください」


 紫色の光を掌中に収めたイプノスが、巨大赤竜に向かって突っ込んでいく。

 体重を乗せた、強烈な一撃。巨大赤竜の腕を貫く。

 激しい咆哮が、宇宙を揺らす。強烈な衝撃波が周囲に拡散される。

 イプノスはさらに、もう一度、巨大赤竜へ向かって特攻をする。

 だが、巨大赤竜は、イプノスのほうを見てはいなかった。

 あいつが狙っていたのは、俺だ。

 赤い爪が光る。あの光速の、赤い一撃が来る。不可避の一撃が……。

 いまの俺には、避ける術がない。

 ああ、死ぬんだな、と思った。でも、それで良い。俺が死んだとしても、イプノスが世界を救ってくれるなら……。俺一人の犠牲で、皆が救われるのであれば……。


「明久さん!」


 イプノスが急激に角度を変え、俺のほうへと突っ込んでくる。

 そして、イプノスは俺の体を抱きしめた。


「どうして……」


「すみません」


 赤い光が、俺たちを貫こうとする。

 イプノスが、彼女のつけていた指輪を外した。それを宙に放り投げると、指輪から紫色の光が発された。その光が、盾となって攻撃を防いでくれる。そのまま、紫色の光が俺たちを守る防護壁となってくれた。

 巨大赤竜が、次々と口から火球を吐く。

 それらも、すべて紫色の光が防いでくれる。


「……一度、地球に戻ります」


「なんでだ。なんで、あいつを攻撃しなかった!」


「すみません……」


「俺なんかを助けようとしたのか!? 俺たちの目標は地球を救うことじゃなかったのかよ!」


「明久さんを助けたかった。それは事実です。でも、私は、世界を救うために最善の選択をしたと思ってます」


「どういうことだ?」


「一度目の攻撃で、私はあいつの魂核を狙ってました。しかし、躱され、腕を一本奪うに止まってしまったのです。今回、あいつを倒すにはアモーレが不足していました。だから、明久さんを失うわけにはいかなかったのです」


 話をしている間にも、巨大赤竜の攻撃はつづいている。

 それらをすべて、指輪の発する光が防いでくれていた。


「長くは保ちません。一旦引きます」


「ああ……」


 イプノスが目をつむり、念じはじめる。


 そうしている間にも、巨大赤竜からの攻撃が熾烈なものになっていった。

 次々と飛来する火球を、すべてシールドが受け止めてくれている。いつまで保ってくれるのか。俺の体はボロボロで、もう動くことさえできない。俺にできるのは、ただ、待つことだけだった。

 巨大赤竜の爪が、赤く光った。例の攻撃だ。超強烈な赤い閃光が、眠りの指輪を砕く。

 シールドがはじけ、俺たちの体が攻撃にさらされる。

 巨大赤竜の発した赤い火球が、俺たちのほうへと飛んでくる……。


 そのとき、イプノスが俺の手をつかんだ。

 いつもよりも弱い、紫色の光が俺たちを包んでいく。

 ゆっくりと視界が紫色に染まっていき。

 次に目を開けたとき、俺は自分の部屋にいた。真っ暗な部屋だ。

 俺は全身に激しい痛みを覚えた。すでに天使の形態を保てていない。生身の人間の姿だった。

どうやら先ほどの戦闘で深い傷を負ってしまったらしい。立っていられない。床に倒れ込んだ。


「明久さん……」


 イプノスは、いつもの小さな天使の姿に戻っていた。力なくふらふらと宙を舞い、俺のほうへと近づいてきた。


「よくぞ、生き残ってくださいました」


 俺は何も答えられなかった。とにかく苦しい。全身が熱を持っているようだった。熱い。体が燃えているようだ。


「ゆっくり休んでください……」


 イプノスは力なくそう言って、地面に横たわった。


 俺の意識は、いつの間にか途絶えてしまっていた。

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