第18話 浅見くんのこと、ちょっと好きかも。
映画を見終わって、俺たちは喫茶店へと移動した。
高層階にある喫茶店で、窓からは駅前にある観覧車が見えている。
「映画、良かったねぇ……」
香芝さんは目元を赤く腫らしていた。なかなか感動的な映画だったのだ。
「実はもともと、星って、あんまり興味なかったんだよね。空にたくさんあるけど、どれもただのぶつぶつだし、どちらかっていうと虫がたくさんいるみたいな感じに思えて」
密集恐怖だっけか。タラコとかを怖く感じる人もいるらしいな。
「でも、この前、浅見くんが星の話をしてくれたから、夜、見てみたんだよね」
そうか。あの流星群を香芝さんも見ていたのか……。
「赤い流れ星が、本当に綺麗でさ。それから、星って良いかもって思えて」
「この人、巨大赤竜に見とれてます! 人類の敵です!」
そう言ってやるなよ。香芝さんは何も事情を知らないんだ。
香芝さんはこちらを見て、にっこりと微笑んだ。
「今日は楽しかった」
「楽しんでもらえたなら、なによりだ」
「なんでわたしを映画に誘ってくれたの?」
「誘いたかったから」
「なんで誘いたかったの?」
「……さあな」
尋問されているように思えた。
「最近、よく話しかけてくれるようになったよね」俺の目をまっすぐに見つつ、香芝さんは言った。
「悪いか?」
「悪くないよ。不思議だなって思っただけ。何を考えてるの?」
「……なんていうか、ただ、話したいと思ったんだ」
「ふーん。それだけ?」
「それだけ」
俺の答えに、香芝さんは苦笑を返した。
「浅見くんって、ど真ん中の直球を見逃し三振するタイプだよね」
「俺、野球は詳しくないんだ」
「サッカーだったら、ゴールキーパーと一対一の場面で、後ろにバックパスするタイプ」
「サッカーも詳しくなくてな……」
「恋愛で言うと、あと少し押せば付き合えるのに、押せないタイプ」
「……そうかもしれないな。俺、自分に自信がないから」
「少しは自信持ったら良いのに。勉強できるんだし。話も面白いし」
会話が面白いというのは、はじめて言われた評価だ。
基本的には誰とも話が合わないタイプの人間である。
「俺、友達いないしさ」
「なんで友達をつくらないの?」
「つくらないっていうか、つくれないっていうか……」
「浅見くんのほうから壁をつくってるよね」
「そうか? そんなつもりはないが……」
「話しかけづらい空気、ばりばり出してるじゃん」
俺は何も答えられなかった。
「だから、わたしもちょっと苦手なイメージあったんだよね。浅見くんって何考えてるかわからないし。でも、ちょっと話してみたら、結構変な人で、面白いなって思ったり」
変な人とか、香芝さんにだけは言われたくないけどな。
「もうちょっと、ぐいっと強引にいかないと、チャンスを逃しちゃうよ」
「強引にって、どうすれば良いんだよ」
「さあ、それは知らないけど」そう言って、香芝さんは微笑んだ。「じゃあ、帰ろっか」
帰りたくない……と思った。まだ時刻は午後四時を過ぎたくらいだ。もう少し、香芝さんと一緒にいたかった。何を言うべきなのかは、わかっていた。もう少し一緒にいないか。そう言えば良いだけのことだ。香芝さんだって、断ったりはしないだろう。たぶん。きっと。
話の雰囲気からも、香芝さんが俺に関心を持ってくれていることはわかる。
嫌われてはいない……と思う。思いたい。
だから、俺が言うべきことはわかっていた。
それでも。俺は、ダメだった。
「……この指輪を見てくれ」
「え?」
香芝さんの驚いた顔を見ながら、俺は眠りの指輪に祈りを捧げた。
紫色の光が、香芝さんを催眠状態へと誘う。
香芝さんの瞳は、とろんと眠たげになっていった。
「……今日は、楽しかったか?」
さっきと同じ質問をした。俺は香芝さんの本音が知りたかったのだ。
「すっごく楽しかった」
「俺と一緒にいて、嫌じゃなかったか?」
「嫌じゃない。一緒にいられて嬉しい」
俺の心が喜びで満ちていく。香芝さんが楽しんでくれたことが、本当に嬉しい。
「さっき、俺が手を繋ごうとしたとき、逃げたのはなんでだ? 前にきいたときは、さりげなく自然な感じで繋げばいけるって言ってくれたよな」
「思ってたより恥ずかしかった。あと、緊張して手汗がすごいことになってたから」
「いまは?」
「ずっと緊張してるから。手汗で、手がびしょびしょ」
「手を見せてくれ」
俺の指示に従い、香芝さんは両手のひらを机の上に広げた。
うーん。たしかに、若干ウェットである。
「俺は香芝さんの、びしょびしょの手も好きだけどな」
そう言った瞬間、催眠状態の香芝さんが、急に平手を振り上げた。
「来ます! 気をつけて!」
イプノスの声をきいて、俺は身構えた。
強烈な一撃が頬に飛んでくる。めちゃくちゃ痛いけれど、しかし耐えられないほどでもない。
店の奥にある席だから、あんまり人には見られない。そこは助かった。
「何するんだよ……」
「びしょびしょは言い過ぎ。実際にはびしょくらい。気にしてることだからイラっとした」
びしょとびしょびしょの違いは、俺にはわからんが……。
しばらく、俺は催眠状態の香芝さんを観察することにした。普段の状態であれば、じっと顔を見ることなどできない。緊張して、ついつい視線を逸らしてしまうことも多い。なにせ、香芝さんは本当に美人なのだ。驚くほどに。アイドルとかにスカウトされてもおかしくないだろう。それどころか、大半のアイドルよりも綺麗だ、とさえ思ってしまう。
「なかなか良い雰囲気ですね」
さっきから、ずっと黙っていたイプノスが口を開いた。
「なあ、俺、どうしたら良いと思う?」
「いまの関係性であれば、もう一歩、先へ進むこともできそうですけど」
「もう一歩先って、なんだ? キスか?」
「はい。狙ってみても良いかもしれません。しかし、まずは催眠のかかっていない状態で、手を繋ぐことからはじめるのが良いと思いますけど」
たしかに、手を繋ぎたい。それも催眠を使ったずるなんかではなくて、俺自身の力で。
まず、香芝さんにハンカチで手を拭くように指示し、俺は催眠を解除した。
我に返った香芝さんは、きょろきょろと周囲を見回していた。
「あれ? 浅見くん、ほっぺが腫れてるよ」
もちろん香芝さんが原因だったが、まあ良い。
「あのさ」と俺は言った。
「うん」
「……なんでもない」
「何さ~。男らしくない」
そういうのは性差別的な物言いではないかと思った。
「勇気を出しましょうよ……」とイプノスが呆れたように言った。「ほんの少し、勇気を出すだけで、幸福になれるんですよ」
……わかってる。そうだよな。
俺は深く息を吐いて、もう一度口を開いた。
「あのさ!」
「うん!」
「手、繋ぎたいんだけど」
「え? 無理なんですけど。普通に」
「だよな!」
「うん!」
終わり。死のう。
「あ、死んじゃダメです。明久さんに死なれたら世界が滅びます」
いや、さっきいけそうな雰囲気だったじゃん。完全に。手を繋ぐくらいは許してくれそうな感じだったじゃん。なんでだよ……。さすがに落ち込むぜ……。
「あのさ……。そんな辛そうな顔しないでよ」
「さっき言ったことはすべて忘れてくれ。俺の気の迷いだった」
「いや、そんな落ち込むことないって。ナイスファイトだよ!」
「慰められると余計に落ち込むわ……」
「ごめんって」
「謝られるのも落ち込む」
とにかく落ち込んでいる俺だった。
香芝さんは困ったような笑顔になった。
「手……繋ぐ?」
「良いのか?」
「うん。可哀想だし」
お情けか……。
香芝さんは、ゆっくりと右手を出した。
俺は、その手を軽く握る。香芝さんの手は、ふんわりと柔らかい。あまりにも柔らかいので、まったく離したくなかった。そのままの姿勢で十秒、二十秒と過ぎていく。
「……いつまで繋いでるの?」
「ずっとじゃまずいか?」
「それはまずいよね。普通に。家に帰らないとだし」
「もう少しだけ……」
「もう少しね。それなら良いけど」
手を繋いだまま、俺たちはずっと見つめあっていた。次第に、手に若干の湿り気が現れる。
うーむ。言わなくて良いことを言いたくなる。俺の悪い癖だ。
「香芝さん、汗かいてるね」
そう言った瞬間、香芝さんはにっこりと微笑んだ。
そして自由な左手で、俺の右手をぎゅっとつねった。
「痛い!」と思わず手を離してしまう。
「自業自得」
「悪かった」
「最低」
「本当にごめん。あと、ありがとう」
「何が?」
「手を握らせてもらって」
「まあ、それは、なんというか、お互い様だから」香芝さんは微かに微笑んだ。「なんていうかさ、ドキドキしちゃった」
「え?」
「わたし、浅見くんのことさ。ほんの少しだけ、好きかもしれない」
「ええ?」
「それだけ。じゃあ帰るね」そう言って、香芝さんは伝票を手にして立ち上がった。
「ちょっと待って」
俺の制止を無視し、彼女はさっさと店の入り口へと向かっていく。
俺は慌てて後を追いかけた。
香芝さんは俺を無視して、さっさと支払いを済ませてしまう。
さらに俺を無視しつづけ、店から出てエスカレーターに向かい歩いていった。
早足で彼女のあとを歩く。なかなか追いついて隣を歩けない。
「いや、さっきのお金、払うよ」
「良いの。映画のチケットおごってもらったんだし」
それはそうだけど。そんなことを言っている場合ではなくて。
「あの……さっきのあれなんだけど」
「あれって?」と香芝さんはこちらを見ずに言った。
「俺のことが好きとかどうとか」
「そんなこと言ったっけ?」
香芝さんは、ちっとも俺のほうを見ようとしてくれなかった。
「俺の妄想でなければ、言ってたと思うけど」
「じゃあ、浅見くんの妄想なんじゃない?」
俺の妄想だったら怖いな。
香芝さんは立ち止まって、俺のほうをじっと見た。
「浅見くんはどうなの?」
「どうって?」
「わたしのこと、どう思ってる?」
「うーん。なんというか……。その……」
「なんとも思ってないんだ」
「香芝さんのことは……変な人だなって思ってる」
「それだけ?」
「可愛いって、思ったりするかもしれない」
「かもしれないんだ」
「美人だし、可愛いし、なんというか……ちょっと好きかもしれない」
「そっか。わたしと同じだね」
「同じって?」
「わたしも、浅見くんのこと、ちょっと好きかも」
そう言って微笑んだ香芝さんが、あまりにも可愛くて。
俺は一瞬、息をするのを忘れてしまうほどだった。
「じゃあ、そういうことで、今日は解散にしよっか」
「え?」
「はい。これ以上は照れるから解散。またね」
そう言って、香芝さんは足早に立ち去った。
ひとり残された俺は、ぼんやりと立ち止まってしまう。ビルを出て、ぼんやりと街を歩いていく。大量の人間とすれ違った。なんだか、現実感がない。映画のなかの風景のようだ。
なあ、イプノス。さっきのは夢じゃないよな。
「にわかには信じられません。明久さんのような変態を好きになる人がいるなんて……」
だよなぁ。それに、俺、香芝さんに好かれるようなこと、なにもしてないし。
「どこを好きになるか、なんて人それぞれですからね。蓼食う虫も好き好きと言いますし」
たぶん、喜んだほうが良い場面なのだろう。好きだった子から、ちょっと好きかも、と言ってもらえた。楽しいデートをできた。客観的に考えれば、俺は心の底から喜ぶべきなのだ。
しかし、なんというか複雑な気持ちだった。
手放しで喜んでも良いのだろうか? このまま、香芝さんとの関係を進展させてしまっても良いのだろうか? そんなことを悩みつつ、俺は帰路についた。
帰りのバスで、香芝さんからメッセージが届いていた。
『今日は、どうもありがとう。また明日から、よろしくね』
なんと返事するか迷い、俺は『こちらこそよろしく』とだけ返した……。
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