第5話 踊らないほうのバレーというと、谷ですね。

 一月十六日、木曜日。朝、俺は台所の流しで食後の皿洗いをしていた。

 リビングでは、仏壇に向かって芽依が手をあわせていた。

 芽衣は、すでにセーラー服に着替え終わっていた。傍らには茶色の鞄が置いてある。


「じゃ、行ってきまーす!」と芽依は仏壇に言って、次に俺のほうを見る。「兄さんも、行ってきまーす」


「お、おう……」


 昨晩の出来事を思い出してしまった。


「あれ? 顔、赤いよ? 風邪?」


「いや、べつに。普通だけど」


 昨晩はテンションが急上昇していた。

 その勢いでおかしなことをしてしまったけれど。

 朝になってみると、罪悪感でいっぱいだった。


「変な兄さん。まあいいや。行ってきまーす」と言って芽依は玄関へと向かった。


「明久さんは学校へ行かなくて良いのですか?」とイプノス。


「芽依は部活の朝練があるんだ。俺は無所属」


「妹さんは何部ですか?」


「バレー部。踊らないほうな」


「踊らないほうのバレーというと、谷ですね。谷部」


「バレーボールだ!」


 思わず大声が出た。


「え? 何?」と玄関から芽依が大きな声で言った。「バレーボールがなんて?」


「なんでもない! 独り言だ!」


「独り言にしては大きい気がするけど。気をつけないと変な人になっちゃうよ」


「明久さんは、すでに変な人だと思いますけど」


 失礼なことを言う天使だった。


 芽依に遅れること一時間、俺も学校へと向かうことにした。

 のんびりとバス停に向かって歩いていく。


「明久さんは、好きな女性とかいらっしゃらないのですか?」


「急な質問だな」


「アモーレを貯めるにあたって、好きな女性にアプローチをかけるのが高効率なのです。一応、きいておこうと思いまして」


「……いない」


「そうなんですか? 明久さんのスマホとかいう機器に保存されている画像を見たんですけど」


「勝手に見てんじゃねえ!」


「写真のなかに天使アルバムがあったので。私の写真でも撮っているのかと思いましたが、人間の女性の写真が入っていましたね」


「いますぐ忘れろ!」


「インターネットで、こっそりクラスメイトの画像を収集していますね?」


「忘れてくれ! というか、どうやってスマホのロックを解除したんだよ!」


「明久さんが寝ているときに、お指を拝借しまして」


 クソ! セキュリティの脆弱性を突かれてしまった!

 イプノスには人間界のルールをしっかりと教えてやらねばならないようだった。


 バス停に到着した。古びたベンチの隣に立つ。


「それで、明久さんの好きな女性の名前はなんというのですか?」


 しばらく無視していたが、顔の周りをハエのように飛び回られるとうっとうしい。


「……香芝さんだ」


「香芝さんですか。明久さんは、その女性のどこを気に入っているのですか?」


「俺みたいなやつにも話しかけてくれるし。あと、美人だしな」


「私の感覚では、香芝さんよりも明久さんのほうが美人だと思いますけど」


「俺のことを美人って言うな!」


 ちょっと女顔なのである。コンプレックスだったりする。


 そのとき、俺の目の前を二人組の女子中学生が通りすぎていった。

 こちらに少し視線を向けたあと、二人でこそこそと話をしている。くすくすと笑っているような気もする。被害妄想ではない。


「お前のせいで、ひとりでしゃべってるやべーやつと思われただろ!」


 イプノスは俺の眼前で浮遊しつつ、軽く頭をかいた。


「すみません。言い忘れていましたが、私は明久さんと念話もできます。わざわざ口に出さずとも、意思を伝えることが可能なのです」


 そういう大事なことは先に言ってくれよ……。


 バスに乗って学校へ。俺は普段通り、ホームルームがはじまる三分前に自分の教室へとたどり着いた。ホームルームのあと、一時間目の授業がはじまった。科目は数学だ。何事もなく一時間目の授業が終わり。休憩時間。


「やっと終わりましたか?」


 イプノスは目をこすりながら起きる。仕草が人間っぽい……。


「さ、休み時間なのですよね。さっさと香芝さんに話しかけてください」


 いやぁ、それはさ、まあ、もうちょっと後っていうか……。


「なに緊張してるんです。アプローチしてください」



 それができれば苦労しねえよ! 話しかけて、気持ち悪いとか言われたら傷つくだろ!


「自意識過剰だと思いますけど……。それに、催眠をかけてしまえば、あとで話しかけたこと自体をなかったことにもできますし。さっさと話しかけてください」


 ……まだ時が来てないぜ。


「来てます来てます。さっさといきましょう」


 いや、一時間目と二時間目の間って、十分しか休憩がないんだよ。

 昼休みっていうまとまった時間があるから、そのときにするわ。


「なるほど……。まあ、わかりました」


 香芝さんに話しかけるという難問をどうやってクリアするか。

 俺は午前の授業中、ずっと悩みつづけていた……。

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