Prologue3「忘却の街」

 薬缶のことを良く知っている人間がこの国にどれだけいるだろうか。他はどうあれ、少なくとも、タイニー・ペスコット・タウンに住む十七歳のダーヴィドには、薬缶のことを詳しくなど知る機会など今まで全くなかったのだった。

 薬缶は湯を沸かすためのもので、火で簡単に燃えてしまわないよう、鉄か何かでできている。取っ手のところは熱伝導が鉄ほど良くない木などを用いて作られており、鍋と違って注ぎ口が合って、それは紅茶を淹れるのにとても便利だ。それ以上でも以下でもない。ダーヴィドは薬缶が生み出された歴史的背景を知らなかったし、どうやって一般に普及していったかもよく知らない。きっと多くの人がそうなのであり、それは世の中を構成する多くの物資に対して言えることであっただろう。

 だから彼は、“その街”についても詳しいことは知らなかった。タイニー・ペスコット・タウンから少し南西に離れた位置にある、一つの小さな街のことだ。レンガ造りの家屋のほとんどが倒壊したその街は、今では「ゴースト・ペスコット」と呼ばれている。

 ゴースト・ペスコットは、百年前にはタイニー・ペスコット・タウンの一部だった。それが戦火に巻き込まれ倒壊し、住む場所を追われた住民が戦争から逃れるように東へ移動した。そんな経緯で、元は一つの街だった「ペスコット・タウン」がゴースト・ペスコットとタイニー・ペスコット・タウンに分かれることとなったのである。

 ダーヴィドはあの街に関して、それ以外の知識を持たない。ゆえにあの街に不信感を抱いたことは一度もなかった。家屋を取り壊して更地にし、再興事業を行わないのは、戦争の悲惨さを忘れないためである。そんなことが書かれている新聞記事のコラム欄、「戦災の欠片」を疑ったこともまるでない。さして興味がなかったからだ。

そんなダーヴィドは、つい最近になって、ゴースト・ペスコットに強い興味を抱き始めた。というのも、ダーヴィドの家は小高い丘の上にあり、極めて遠目からだが、ゴースト・ペスコットへ続く廃道を眺めることができるのだ。学校から出された課題に嫌々取り組んでいたダーヴィドは、ふと自身の部屋の窓から、廃道を歩く不審な人物を見かけた。夜闇に紛れて良くは見えなかったが、背格好から言ってそいつは男のようであった。

 以来ダーヴィドは、熱心に窓の外を眺めた。タイニー・ペスコット・タウンは平和なことだけが取り柄のような地味な街で、名産品も派手な伝統工芸も何一つない。そんな街でダーヴィドは、刺激を求める若者のうちの一人だった。彼はまるで探偵にでもなった気持ちで、学校から帰宅しては自室の窓に張り付いた。自分でも驚くような根気の良さで、彼は新しく長所を発見したような気持ちになって嬉しくなった。


 ゴースト・ペスコットとそこへ続く廃道を観察することがダーヴィドの日課になってから、およそ二週間が経過した。いつか見た不審人物はあれ以来訪れることはなく、面白かったはずの監視作業は、ただ退屈な見張り作業となっていた。ダーヴィドは昔やった初等部の宿題である、ラベンダーの観察日記を思い出した。ここら辺の地域では、ラベンダーは至極ありふれた花で、だから子どもの知的好奇心を育むための授業では、まず初期にラベンダー観察をさせる。あれも毎日大して変わり映えなく、退屈のする作業だった。

「そういえばあんた、最近部屋で何してるの?ここ二週間くらい、何だか嫌にしんとしてるけど」

 夕食である淡水魚のソテーを配膳しながら、ふとダーヴィドの母親は、年を経ても未だみずみずしいハシバミの瞳を彼に向けた。ダーヴィドは瞬きの間に嘘を考え、白木のテーブルに頬杖をつきながら言う。

「学校からの課題だよ。「戦災について考える」みたいな。ちょうど俺の部屋からゴースト・ペスコットが見えるだろ。何か書けるもんねーかなって見てるんだ」

「あらそうなの。まあ学校の課題ならいいけど、あんまり近くに行っちゃダメよ。あんた変なとこコドモなんだから。探検だーとか言って遊びに行ったりしないでね。あそこは瓦礫もすごいし、崩れてきたら大変だもの」

「そんな理由で行かねーよ。もう俺、十七だっつの」

 実はダーヴィドは近々、ゴースト・ペスコットへ行ってみるつもりだった。この平和の代名詞のような街にはめったに出没しない不審人物が、一体なぜ倒壊したゴーストタウンに向かったのか。その不思議を解き明かすために、それこそ“探検”に出るつもりだったのだ。母親としての勘なのか、はたまた虫の知らせか。母親の予想は見事的中していたが、ダーヴィドは表情筋を平時のままに固定して、きっちり「ぎくっ」とした顔を隠した。

 十七歳にもなれば、それなりに嘘も吐けるというもので。思春期など特に、隠し事の多い年頃である。それが母親に見破られていたか否かはさておいて、ダーヴィドは何食わぬ顔で淡水魚のソテーにフォークを刺した。

「こら。食べるのは、家族全員そろってからでしょ。みんなで食べた方がおいしいんだから、ちょっと待ちなさい」

「……。」

 ダーヴィドはやれやれ、という顔でフォークの先端を皿に残したまま、机の上に置いた。母親の「お父さーん! ご飯!」という声が、温かなランプの下で、湯気と混ざり合っていた。


 その夜ダーヴィドは、ゴースト・ペスコット探索の計画を密かに立てながら、ベッドの上で眠った。それから朝が来て、毛布を剥ぎ、ダーヴィドはいつも通りの生活を始めた。花瓶の水を替えて、水を飲み、パンとスープを食べて学校に行った。何ら変わりのない、予定調和な一日が訪れていた。


***

「タイニー・ペスコット・タウンが消えた。まただ、また街ごと一つ消えたんだ!」

 この国の治安を守る中枢である、王都警察本部。およそ三百人は収容できる大きな会議室で、サイレンのような声が響き渡った。その場にいた全員の視線が、声を発した男に向けられる。皆一様にして目を見開き、緊張した面持ちだった。

「たった今、ゴースト・ペスコットの調査に行っていた部下が戻ってきた。報告によれば、二週間前の調査開始時には、特に異常はなかったらしい。それが一週間前、突如としてタイニー・ペスコット・タウン周辺に霧が現れ始め、日ごとに濃くなり、霧が晴れた後、すでに街は跡形もなく消え去っていたらしい。霧が現れてからわずか五日のことだ。建物も住民も何もかも、きれいさっぱり無くなっている!」

 どよめきが蠢く靄のように会議室を埋め尽くした。今年に入って三例目の、人知では及ばぬ不気味な事件であった。



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