Prologue2「幸セノ国」

 公園というものに、不気味さを感じるのはおかしいことだろうか。学校からの帰宅途中、いつも通りかかる公園のブランコを見つめながら、高校二年生の松田春生は、そんなことを考えていた。

「……。」

 ブランコから延びる影は長く、紅葉と同じ色をした真っ赤な夕日が春生の白いワイシャツを赤く照らしている。春生は幼かった頃と同じようにブランコへ腰かけた。それからキーコ…と音を立てながらブランコを漕ごうとして、今はもうそれができないことに気付く。小さい子向けに作られた低いブランコを漕ぐには、高校生の足は長すぎるのだ。仕方なく春生は一度ブランコを降りて、今度は座るところにコツンと足を置く。立ち漕ぎである。目の前を通りかかった鳩が、ブランコの上に聳え立つ春生を見て首をかしげていた。

 公園は、ある種の閉鎖空間である。小さいころから春生は、公園のことを「閉じられている」と思っていた。というのも、春生が昔お世話になっていたこの公園は、周囲が桜の木や垣根で覆われている。恐らく車が突っ込んできても子どもに害が及びにくいように、という理由からなのだろうが、春生はその木々が何だか不気味に見えた。

 隔絶されている。閉じられている。そう思えてならなかったのだ。外から見た公園は、どこか遠い場所に見えた。中から見た公園は、出られなくなりそうで怖かった。その感覚は今でも健在であり、だからこそ春生は、少しだけ緊張した面持ちでブランコを漕いでいた。視線は、公園の入り口から逸らさない。出られなくなるかもしれない、という恐れが、十七歳になった今でも脳の片隅に棲みついているのだ。

「———、」

 馬鹿馬鹿しい、とは言わない。そう思うことは今まで幾度もあったが、馬鹿馬鹿しい、と口に出した途端に、自分の恐れていることが現実になってしまいそうだったからだ。十七歳にもなれば、さすがに公園への恐怖は払拭されているだろう、と思って気まぐれに公園へ足を運んでみたが、しかし今日も、今日までの十三年間(春生が初めて公園を訪れたのは四歳の時だった)と同じように変わらず公園は怖かった。独特な不気味さがあるのだ。

 突如劈くような大きな音がして、春生はビクッと肩を震わせた。カラスと一緒に帰りましょうだかカラスが泣くから帰りましょうだか正確な歌詞は忘れてしまったが、そんなメロディが公園の中央にあるスピーカーから流れだしたのだ。スピーカーは古く、ひび割れたサイレンのような耳に優しくない音を吐き散らしている。

 ガシャン、という音と共に、春生はジャンプしてブランコを飛び降りた。前後に揺れるブランコの加速を利用したのだ。母親についてきてもらって遊んでいた子どもの頃は、これでどのくらい遠くまで飛べるのか、何度も何度も試して遊んでいた。多分、今のが一番遠くまで飛べたはずだ。久方ぶりの記録更新である。

 しかし春生はそれで懐かしげに微笑むわけでもなく、やはり無表情のまま早足で公園の出口へと向かった。どうしたって公園の中にいるのが落ち着かないのだ。閉所恐怖症ではないけれど、どうにもここにいると背筋がぞわりとする。ひび割れたスピーカーの音が、余計公園を不気味に感じさせるのかもしれない。春生の背後からは沈みかけた夕日がこちらを深紅に照らしていた。まるで真っ赤に燃える巨大な眼球のようだった。

 あと一歩で公園の敷地から出られる。春生がようやく緊張から解放される、と肩の力を抜いた時、背後のスピーカーが突然「ザザッ」とノイズを吐き出した。今まで流れていた夕焼け小焼けのあの曲が、最後まで鳴り終えることなくそこで停止する。

春生のこめかみに、つう、と冷や汗が伝った。落ち着け、ただスピーカーが止まっただけだ。あれは老朽化が進んでいたし、そろそろガタがきていてもおかしくない。そう自分に言い聞かせてはみるものの、心臓はバクバクと体内で震えていて、公園の敷地を跨ごうとしていた左足はぴたっと硬直して動かなかった。

 自然と早まる呼吸を何とか宥める。とにもかくにも早くこの敷地内から出ようと思った瞬間、春生は赤く照らされた道路の先にナニカを見つけた。距離は数百メートル離れている。住宅街の隙間からちらりと見えた程度だったそれは、雪村に激しい違和感を抱かせた。初めは人だと思っていたが、しかしどうにも動きがおかしかったのだ。

 光を吸収しているのかと錯覚するほど真っ黒な影は、地面を滑るように移動していた。…長い、スカートなのだと信じたい。それで足が見えないからだと信じたい。けれどふと横を向いたその影の、腕にあたる部分がおかしな形をしていて、ヒュッと春生は息をのんだ。

 ソレの腕は奇妙に長く、そして関節が二つあるかのように本来曲がるべきところではないところが曲がっている。瞬時にアレは人ではないと理解する。しかしそのことが受け入れられない脳みそは、状況把握を停止させた。

春生はドサッと手に持っていたスクールバッグを落とした。混乱して、どうすべきか分からない。頭の中には疑問符があふれるばかりで、目と口を開けたまま立ち尽くすしかできない。何だ今のは?俺は一体何を見た?

 不意にソイツと目が合った気がした。目なんてものがソレについていたのか分からないが、気配が、意識が、確実に今春生の方へと向いていた。冷や汗が雪村の顎を伝って乾いた地面に落ちる。血のように鮮やかな太陽が、後ろから春生をジッと見つめていた。

「……ッ!?」

 突如ガッと足首から腰にかけて衝撃がはしる。驚いて下に目を向ければ、何だかよく分からない真っ黒なものが自身の足に絡みついていた。春生を拘束するように巻き付いたソレは、軟体動物のように冷たくヌメヌメとしていて、背中に巨大なムカデが這ったようなおぞましい寒気が全身に走る。

「は、っな、何だこれ、一体———」

 およそ現実のものとは思えない光景に、春生は夕焼けに沈む真っ赤な公園で必死に藻掻いた。クラーケンの足のようなソレは藻掻けば藻掻くほど足を締め上げ、ついには骨がギシリと悲鳴を上げる。その時頭上からヌッとナニカの影が現れ、ハッとして春生は視線を上げた。

「……ひ、」

 目の前には女のようなナニカが立っていた。全身真っ黒いソイツは正に影そのもので、光の反射を全くしていなかった。女は汚れて破れてボロボロになった深緑のドレスを着ていて、それと同じ色の花が頭部にいくつも飾られている。そのせいで表情は良く見えないが、ソレは春生を見てニタニタ笑っていた。口元がおぞましい三日月形を描いている。腕は骨のように細く、そしてやはり関節が2つあった。間違いない。先ほど春生が住宅街の隙間に見たあの「ナニカ」である。それが突然、どういうわけか一瞬で目の前に来ていた。

 春生は目を見開いたまま動けない。物理的にも動けなかったが、目の前に全長3メートルはあろうかという女のバケモノが迫っているのだ。心臓はパニックを起こしたように血液循環を早める。過剰に脳へ送られる酸素が思考回路を真っ白に染め上げた。女は鋭く伸びた爪に覆われた指を、春生の頬へと伸ばす。ざらっと肌に触れたその手は冷たく湿っていて、ゾッとして身体が震えた。

 ここで死ぬんだ、とすら思えなかった。春生は馬鹿みたいにただ目の前の真っ黒な女を見つめていた。女は愉しそうに口を歪めて笑っている。

「ねえお兄ちゃん———」

 いっそ場違いとも思える、鈴を転がしたような可愛らしい声がした。初め春生はこの女の声なのかと思ったが、目の前のバケモノがバッと背後を振り返ったことで、そうではないことを知る。女はおよそ人間のものとは思えない、獣じみた咆哮を自身の背後へ浴びせた。威嚇のようなその行動に、春生はパニックになりながらもそちらへ視線を向ける。

 そこにいたのは、まだ幼い1人の少女だった。裾に純白のレースをあしらった漆黒のワンピースを纏った少女は、真ん丸の瞳を細めて笑っている。異様だったのはその瞳の色で、少女の目は色相環をそのまま埋め込んだような虹色をしていた。

 ———こいつも、バケモノの仲間か?春生は思わず後ずさりしようとして、ぐっと黒い触手に阻まれる。

「逃げないの?」

 小鳥のように小首をかしげながら、少女は春生に問いを投げる。

「……ぃ、にげ、れるように、見えるのか」

 恐怖に錆びついた喉はぎこちない声を発し、もちろん震えた。少女は春生の足に巻き付いたものを見て、「ああ」と乾いた声をあげる。何かを残念がっているような様子に、春生はぐっと歯を食いしばる。そうだ、ここから逃げなきゃ。ようやくそのことに思い至った春生は、何とか彼らの隙を見つけようと観察を始める。ちらりと見えた少女の右手と左足は、女のバケモノのように真っ黒に染まっていた。

 少女はハア、とため息を吐いて、スッと笑みを消した。どこか物憂げでつまらなそうな表情である。

「しょうがないから助けてあげる」



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