百年の琥珀

NEON🐟

Prologue1「遺跡崩壊」

「アイツの在り方は何ら不思議なもんじゃねえよ、ボウヤ。ニンゲン、皆誰しも誰かを守りたいと、どこか根底でそう思いながら生きている。傷つけることを心の底から喜ぶニンゲンなんかいないんだ。ニンゲンってのは、みんな誰かを守りたくってしかたねえ。他人にしても、自分にしても。何かを守らなきゃ生きてけねえイキモノなんだよ」

 猫は今に崩落しそうな天井の下、舞う土埃に目を細めながら、いつものような淡々とした口調でそう言った。どこから出てるのか分からない、あの低くて重厚な声である。このキジトラ猫の声は、耳を割らんばかりの轟音の中でもよく響いた。

 パラパラ、と落ちてくる小さな瓦礫がまるで時計の秒針のようだった。直に崩れるぞ、今にも崩れるぞ、とソイツらは一匹の猫と少年を脅迫してくる。それでも猫は優雅に長毛のしっぽを振った。少年は、猫から目が離せなかった。

「そら行きな、ボウヤ。こんなとこで死にたかねえだろう」

 ゴゴゴゴ……と古びたエメラルドグリーンの石室が唸っている。ここはこんなことになる前は、それはそれは美しい神殿であった。それが今や、あちこちに入ったヒビの隙間から粉塵が舞い、柱は崩れ、神殿自体が崩壊寸前の惨憺たる有り様だ。

 少年と猫がいるのは、神殿の地下にある大きな扉の前。草木の蔓のような古代の文様が彫られた巨大な扉の先は、地上へと続く階段がある。猫と少年の足元には無数の本が転がっていて、ここは本の墓場なのであった。崩落してくる岩のせいで、本の死体が本の残骸へと変わり果てていく。もうここがダメであることは明白だった。眩暈がしそうであった。少年は見開いた眼を動かすこともできず、ショックに指先を震わせる。

「———ボウヤ!」

 猫が神殿と同じエメラルドグリーンの瞳を鋭く光らせ、吠えた。

「行け!!」

 立ちすくんでいた少年はビクッと肩を揺らして、何かを言おうと口を開いた。瞬間、視界の端から人間の腕が伸びてくる。

「うわあッ」

 傷だらけの腕だった。腹に手を回され、ぐいっと引っ張られた少年はぐらぐら回る視界の中、その腕の主の名を呼ぼうとした。先ほど猫が言った“アイツ”だった。

「———、」

 しかし少年の口から洩れたのは「は、は、」という浅い呼吸だけだった。口を開いた瞬間に、少年の頬に上からボタボタとぬめりのある液体が降ってくる。思わず目で追ったそれが、目が焼けそうなほどの赤を伴っていて、少年の瞳は恐怖に収縮した。血だった。夥しい量の血が、彼の身体から流れ落ちている。動けるのが不思議なくらい酷い怪我だった。

 巨大な石の扉は、重たい音を立てながらゆっくりと自動的に開いた。猫は全身の毛を逆立てて少年たちを見つめていた。早く行け、とその体毛の先端までもが訴えかけてくる。

 少年を抱えた青年は扉へデタラメに走った。この際四肢なんか千切れてもいいと思った。とにかく外へ。安全な場所へ。せめてこの少年さえ外に出せれば。と、それだけ考えていた。

 青年が扉をくぐるのと同時に、いよいよバキン!!と音を立てて天井が割れた。ふわっと一瞬空中で止まったエメラルドのそれが、まるで長い悪夢のようだった。神殿に降り注ぐ岩々の隙間からは、揺れる猫のしっぽが見えた。別れを告げてるみたいだった。

「マル———ッ!!」

 少年の絶叫は、土埃と轟音によってかき消される。神殿に向かって伸ばされた手は空を掻き、そして、次の瞬間には湿った土の地面に落下していた。外へ出たのだ。青年の腕から放り出された身体を咄嗟に起こせば、地上にさえ伝わってくる振動が、地下の様子をまざまざと伝えてくる。バキンガキンゴキンと、耳をふさいでも尚響き渡る絶望の音。薄暗い森の中で少年は、鬱蒼と生える草木の震えに涙を溢れさせた。休息や安穏そのものが壊れてしまったみたいだった。

「……そんな。あ、あ。マルー……」

 呼吸が上手くできなかった。胸に空いた風穴から、空気が抜けていくようだった。喉が上手く震えない。割れたフルートみたいに、スー、だのヒュー、だの呼吸が抜けていった。

 ドサ、という音に少年は反射で振り向いた。血まみれの青年が、糸の切れた人形のようにそこへ横たわっていた。石膏みたいに白い肌が、真っ赤な血との激しいコントラストで吐きそうだった。少年は硬直して動き出さない腕を引き攣らせながら、青年の肩を揺すった。

「レス、ねえレス! おきて! ねえってば、レス! レス……!!」

 揺すれば揺するだけ、彼の身体はその動きの通りに揺れる。少年はふと、屠殺された羊を思い出した。捌かれるために台へ乗せられた、死んだ羊。台からはみ出した細い脚は、酪農家がナイフを翳すたびにその振動でゆさゆさ小刻みに揺れていた。あれの動きと、目の前で力なく揺れる彼の姿が重なる。震え方が似ていた。ただ弾力があるだけの肉の動きだった。

 少年は真っ青になって、倒れそうになるのを何とか堪えた。頭が真っ白で動かない。耳の奥でザーザーと血流だけが暴走している。収縮した血管と冷える指先。足がもう動かない。助けを呼びたいのに、声が少しも出てくれない。

「だれ、か……カヒュ、」

 助けってどうやって呼ぶんだっけ。なんて言えばいいんだっけ。助けてほしいときって、どうすれば……。

 少年は何も分からなくなった。呼吸ができなくなって、自分が今どこにいるのか、立っているのか座っているのか、何をすればいいのか何が起きたのか、混乱してぐちゃぐちゃになって目を回した。目を開けていた気がしたのに視界が黒く染まっていく。小さな手が見えた。自分の手だった。どうして自分の手が見えるんだろう?

 倒れた少年は、自分でも気づかないうちに意識を失った。

だから少年は、近づいてくる小さな足音にも、息をのんだような空気の音も、小さく上がった女性の悲鳴にも気づかなかった。少年は、今ひと時だけ、悲しみから逃れた休息へ沈んだ。



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