【第二章 事件と猫】08

「君嶋 尚哉、彼は丁度五年前にうちのタクシー会社に入社してきた。最初の方は頑張り屋でタクシーでの売上目標も優に超えるエリートでこのままいけば昇進できるはずだったんだ」

 飯塚さんの後ろの席で顔は見えないがどこか君嶋という男性に対する哀しみをはらんだ口調で話し始めた。

「できるはずだったって何かあったんですか?」

 相槌を打つ様に神野が聞く。

「何かあったと言えば何かあったと言うのかな、彼が何かをしでかした訳ではないんだ。彼が乗せた人が悪質な客だったんだ」

「悪質な客?クレーマーの類ですかね」

「そうだね。君嶋は出世欲が強くてね、毎日毎日人を選ばずにできるだけ乗せるようにして居たんだ。そうしていた去年の事だった。君嶋はいつも通り一人の女性を乗せてタクシーを走らせていた。そして何事もなく目的地の場所に下ろした。それが彼にとっての最悪の始まりだったんだ」

「え?聞いた限りだとただ普通に乗せて下ろしただけで何も問題ないじゃないですか」

 「そうだね」と薄ら笑いをしながら声音に力がこもりながら飯塚さんは話す。

「その日の夜、さっき言った女性から電話がかかってきたんだ。「タクシーの運転手に強姦を受けた」ってね――もちろん彼はそんな事は一切していないはずだ。驚くほど生真面目で仕事と出世にしか興味は無いし飲み会にも来ない奴だったからね」

「それじゃあそんな言葉意味無いんじゃ――」

「警察はこれを強姦事件として調べ始めたんだ」

 神野の言葉に被せる様にして否定する最悪な言葉を言った。

「その女性、電話してからすぐさま警察に出向いて同じ様に言ったんだ。身体には青あざだらけで見るからにボロボロの女性の姿を見て警察は君嶋を逮捕する事にした」

「ボロボロって――君嶋さんは気が付かなかったんですか?」

「彼奴は人間関係が苦手で会計以外は後部座席を見ないで会話も何となくで過ごす様な奴だから気が付かなくても無理ないと思うよ。それにその女性が最後の客だったから早く帰宅する事で精一杯だったんじゃないかな」

「けどドライブレコーダーとかでその女性の様子が記録されているとか――」

「うちの会社はケチでね――その事件が起こるまではドライブレコーダーは付けていなかったんだ。そして君嶋は冤罪にもかかわらず事件は起訴された」

 最悪が重なった上で出来上がった圧倒的無罪にする為の証拠不十分な状況――だが、

「だけど君嶋が冤罪であるとどうして飯塚さんは言い切れるんですか?」

 僕は率直に尋ねた。当事者でないのにはっきりと言い切った飯塚さんに疑問を抱き。

「彼の事情聴取を聞いた帰りだった。警察署の喫煙所で被害者の女性が微かに笑いながら電話で言ってるのを偶々耳にしたんだよ「これでお金が入るから心配しないで」って言っているところを、丁度喫煙室には俺とその女性の二人で気が抜けてたんだろうね――それで俺は彼を信じることにした。これは冤罪だってね」

 それでも冤罪である可能性は低いかも知れない――

「それで、ここ二日の絞殺事件に関してはどういった関係が」

 神野はある程度君嶋の事が聞けて本題に移ろうと話題を変えると息を詰まらせながらも飯塚さんは言った。

「現在裁判中で一時的に君嶋は釈放状態だったんだ。それで三日前、白野君をはじめて乗せた日。仕事の途中だったけど心配で彼の家に尋ねに行ったんだが何かおかしい事に気が付いたんだ」

「おかしい?」

「どこか上の空で――だけど心の芯はちゃんとしてる、言うなれば誰かにのっとられているようなそんな感じだったんだ」

「目の焦点があっていなかったりしませんでしたか」

 神野の問いに

「確かそうだったな、さっき会った時もどこかもぬけの殻の様な感じだったし」

「チッ、大城、ビンゴだ。君嶋は欲望さんの被害者だ。」

 小さく神野が呟く。

 君嶋が欲望さんの被害者。

「先程、釈放状態って言ってたようですが警察はついていなかったんですか?」

「いつもはついている筈なんだけどその日は何故か警察はついていなかったんだよな、俺もおかしいと思ったんだけどそれで隙をついて君嶋は自宅から逃げ出したみたいなんだ」

 はじめて飯塚さんと会った日――まさか――

「なあ霧縫、お前その日公園に居たよな――」

 この言葉で理解したのか霧縫さんの顔がサーと変化し青ざめていく。

「そう言えば大城君の通報で近くにいた警官も集めちゃって――」

「マジか――」

「何やってんだこの馬鹿夜靄!勉強しかできないの忘れたんか、リスクリターンの計算しとけって言ったよな!」

「ごめんなさい!目の前ので夢中で!」

 後部座席でガサガサと三人で前に聞こえない様に話し合う。

 最悪だ。今回の事件が発生した根本的な理由が霧縫さんの僕へのドッキリが欲望さんに隙を作ってしまう事になってたなんて――

「そういえば警察は君嶋を確保するために捜査しているんでしょ?もう三日だ。何で捕まらないんだ?」

「今起きてる不可解な事件に人員を割いていて数日は君嶋の捜索ができないんだ」

 最悪どうしが列をなしてどんどん繋がっていく、幸運と言える程の不運の玉突き事故。

「そしてその不可解な事件の犯人が君嶋だと――」

「第一事件の少し前、いつも通り彼と他愛のない話をして帰ろうとした時だ。忘れものに気がついて君嶋の住むマンションに再度戻ったんだけど住戸のドアが開いていてね、不思議と思って中を覗いたんだけど誰もいなかったんだ。辺りを見回して君嶋がいないか探した時だった。女性を抱えて自分の住戸とは違う住戸に入っていくのが見えたんだ」

「え、君嶋さんて僕の住むマンションの一階上なんですか?」

「白野君の住戸は知らないけど事件現場である階に住戸があるってんならそうだろうね」

「そうですか――」

 こんなに近くに犯人が居たなんて――

「それで女性を抱えた君嶋を見てすぐさまその階に降りて彼の入って行った住戸をこっそり覗いたら女性が首を吊っていたんだ」

 そして事件が起きた。

「止めなかったんですか――」

 霧縫さんの指摘に飯塚は

「心では止めようとしたさ――けど足が言う事を聞いてくれなかった。いままでずっと仲良くしていたやつが人を殺すなんてって思うばかりで俺は逃げ出してしまったんだ。警察には君嶋の名前は出さずに通報した。それで許されるわけ無いのだけどそれしか俺にはできなかったから――」

 暗くずしりと枷をはめている様に飯塚さんはハンドルを力強く握って己の無力さを痛感していた。

「辛いところありがとうございます。第二の事件についても貴方は彼を同じ様に止めたかったんでしょう、聞きたい事はほぼ全て聞かせてもらいました。後は君嶋さんの隠れ家を教えて下さればそれで良いのですが」

 神野は無機質の声で飯塚に同情とは別の上辺だけの言葉を連ねて尋ねる。

「隠れ家―君たちはいったい何をするつもりだい」

「警察に通報するんです」

 あぁ、そうかと言った声で

「君嶋は今、タクシーに寝泊まりをしているんだ。ナンバーはこれ、俺では彼を通報する事ができないからお願いだ。――彼を助けてやってくれ――」

 紙にタクシーのナンバーを書いて神野に渡し、飯塚さんは震えた声で言った。

 大切にしてきた。兄弟の様に日々を過ごしてきたんだろう、その言葉はどこまでも悲しく辛いものの様に感じた。

「それじゃあ僕らはこれで――なんだ?」

 ホワイトボードの事やマスクの事についての言及を神野はせずドアのロックを外して霧縫さんにタクシーを降りるよう促した時だった。

 後ろに一台のタクシーがライトでこちらを照らしている事に気が付き、僕らは後ろに視線をやる。

「何でしょうか?」

 一定の距離で停車していて動かずただそこにいるだけの様な――

「ナンバー――飯塚さん車を動かして!!」

 怒鳴るような声にびくりとしてから飯塚さんは言われるように車にエンジンを駆けて発進させようとした時だった。

 先程までの停車していた後ろのタクシーが勢いよく僕らの乗るタクシーに向かって走らせ、追突してきた。

 何で――こんな――

 意識が朦朧として身体が動かない、追突の際に僕はシートベルトを着用していなかったせいで前の椅子に顔面から当たってしまった。

「霧縫――神野――」

 それでもどうにか顔だけは動かして二人が無事か確認する。

「よおクソガキ共、こいつは貰って行くぜ」

 猫のマスクを被った男性が一言そう言うと霧縫さんを抱えてどこかへ行ってしまった。

「霧縫――――」

 ただ混濁した意識の中で必死に口にするだけで猫マスク相手に何もできずに意識を失ってしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る