07-4.噂を辿れば君に巡り着く
* * *
セシル・オルコットは窮地に陥っていた。
領外へ視察に向かう予定だった十二歳上の兄、ヨーゼフ・シュトラウス・オルコットと廊下で鉢合わせてしまった。今年、二十六歳となるヨーゼフはセシルのことを嫌っていた。稽古があると知れば練習用の剣に細工をするように使用人に命令を下し、家庭教師を招く予定があると知れば言い掛かりをつけて妨害をする。
セシルと顔を合わせる機会があればここぞとばかりに存在を否定する言葉を投げつけ、暴力を振るう。両親はヨーゼフがセシルに暴力を振るっていても助けることはない。伯爵家に従う忠実な使用人たちは、言い付け通り、誰一人としてセシルのことを庇おうとする者はいない。
それでも、伯爵家を追い出されていないのには理由がある。
その理由すらもヨーゼフは気に入らないのだろう。
「チッ。不快な面を見せるんじゃねえって言っただろうが」
ヨーゼフは露骨なまでに嫌そうな表情で言い放つ。
伯爵家の嫡男とは思えない粗暴な態度が目立つヨーゼフはセシルに向かって右腕を大きく振りかぶる。勢いをつけられた腕がセシルの顔を狙っているということはセシルも理解をしていた。それでも避けることは許されない。
セシルは反射的に眼を瞑る。
目を瞑った直後、セシルの左頬にヨーゼフの拳が当たる。殴られた衝撃によりセシルは右側に数歩よろけてしまった。
「構えもできねえ屑が」
反撃をしようと身構えれば殴られるだけでは済まないことをセシルは知っている。
だからこそ、ヨーゼフの言葉にもなにも言い返さない。
姿勢を直し、ヨーゼフの顔を見上げる。剣術を嗜んでいることもあり、十四歳の貴族子息としては身体の造りは良い方だろう。それでも、まだヨーゼフの体格には追い付いていない。
……兄上に付き合ってる暇はねえ。
十四歳の弟を殴る兄には付き合い切れない。
セシルは隠し損ねた手紙を左手で隠すように握り締める。
それはヨーゼフに奪われても困らない内容の手紙ではあるのだが、恋心を抱いている少女から贈られてきた手紙を誰にも触れてほしくはないと思ってしまうのは仕方がないことだろう。自分自身のことを疎んでいる父親や兄に触れられると手紙が穢れてしまう気がした。
……出迎えくらいはしようと思ってたのに。
セシルがなにを考えているのか、ヨーゼフには伝わっていないだろう。
何度も舌打ちをして不快感を強調しているヨーゼフに伝わらないように気をつけながら、目線を窓の外へと向ける。窓の外には豪華な作りをした門が見える。
来客を乗せた馬車が到着をすれば、この場所からでもその姿を認識できるだろう。窓のある廊下でヨーゼフと遭遇をしたのは不幸中の幸いだった。
「おい、屑。お前、逃げようとしてるんじゃねえだろうな」
ヨーゼフはセシルのことを名前で呼んだことは一度もない。
世間体としてはオルコット伯爵家の次男として扱われているものの、身内だけの空間では彼は邪魔者として扱われていた。
物心ついた頃からセシルはオルコット伯爵家の荷物だった。
その中でもかつて娼婦だった伯爵の愛人、セシルの母親である女性が後妻として伯爵家に迎え入れられたことに対し、不満を抱いているヨーゼフの態度は酷い。
「良いことを教えてやる」
ヨーゼフがセシルの胸倉を掴んだ。
強引に身体を上へと引っ張られ、苦しそうな表情を浮かべるセシルに対し、ヨーゼフは卑しく笑った。
「お前を一生飼い殺しにしてやると父上がおっしゃられていた。公爵家と友好関係を築くためには有効な手段だとおっしゃった。父上に感謝しろ。お前のような屑を飼ってやる偽善者は父上くらいなものだ」
セシルの胸元を掴む力が強くなる。
憎くて仕方がないと言わんばかりにヨーゼフの目付きは悪くなっていく。
……誰がそんなことを喜ぶものか。
伯爵家に閉じ込められることをセシルは望んだ覚えはない。
隣に領地を与えられているバックス公爵家を含むいくつかの家と交流を持つことは許されているものの、本音を語り合うことができるのも、心の底から笑い合うことができるのも限られている。
父親に与えられた友人に対しては人の良さそうな外面を張り合わせたようなもので対応をしている。息苦しい思いをしていることにも気付かず、セシルのことを友人と認識している人々のことは好きになれなかった。
それはセシルが望んだものではない。
しかし、父親はそうではないのだろう。
微力な魔力すらも持ち合わせていないセシルにはそれ以外のことを期待していないと言わんばかりに様々な家の子どもたちと顔合わせをしていく。
その中でもセシルが唯一心を開けたのはメイヴィスだけだった。
メイヴィスだけがセシルが安心して息を吐くことができる相手だった。
……いつか、メイヴィスを連れて逃げてやる。
頬が緩みそうになるのを堪え、バックス公爵家の令嬢であるメイヴィスのことを思い浮かべる。愛おしい少女のことを考える時だけがセシルの幸せだった。
全てを捨ててでも共に生きる道を彼女は望まないかもしれない。しかし、セシルとは対照的に魔力が多すぎる彼女もまた生き辛さを抱いているのも事実だった。
そのことに気付いてしまった時からセシルには夢ができた。
いつの日か、二人だけで生きるのだ。
貴族社会の窮屈さの感じない自由な日々に憧れを抱く。そこには想像絶する苦労や苦痛も待ち構えていることだろう。しかし、メイヴィスと一緒ならばどのような日々も幸福へと転じることだろう。
それはセシルが心の奥底に隠している将来の夢だった。
「父上が隠居された時がお前の最期だ、屑野郎」
悪態を吐きながらもセシルを伯爵家に縛りつける父親が引退をすれば、ヨーゼフは待っていたと言わんばかりにセシルと伯爵の後妻である母親を追い出すことだろう。
ヨーゼフの手が放された。
息が出来なくなるほどには締め付けられなかったのはヨーゼフの機嫌がいい証拠だろう。悪態は吐きつつも必要以上に甚振らないのは珍しいことだった。
「はぁ、あの化け物が来なきゃ遊んでやれたのになぁ。せっかく上機嫌だってのに最悪だ。化け物の出迎えをしろって父上から言い渡されなきゃ最高の一日だったのに。俺は屑と違って暇じゃねえってのに」
ヨーゼフの言葉に耳を疑った。
本日の来客は一人だけである。
当然のことながら来客に付き添う使用人を含めれば数人から数十人の規模にはなるだろうが、用件があるのは一人だけだ。その用件も想いが通じ合ったばかりの恋人に会いたいという可愛らしいものだ。
セシルはそのことを知っている。
ヨーゼフも来客が誰であるのかを知っている。知っているからこそ、“化け物”と表現をしたのだろう。
「お前も悪運がついてるよなぁ? 屑には屑がお似合いってか。化け物を味方につけるなんて父上も思ってはいらっしゃらなかっただろうよ。そうじゃなきゃ妾と一緒にあの世に旅立ってただろうってのに」
腕時計を確認したヨーゼフは大きなため息を零した。
悪態を吐くヨーゼフの姿は見慣れたものだった。セシルに対する心のない言葉の数々は慣れたものだった。しかし、メイヴィスに向けられた悪意は許容できるものではなかった。
「……ふざけるんじゃねえよ」
初めてだった。
暴力を振るわれても、心のない言葉を投げかけられてもヨーゼフに言い返したことなど一度もなかった。それは諦めからくるものなのか、生き残る為にはそうするしかなかったのか、今になってはわからない。
逆らおうとも思わなかった。
反撃をすれば痛い目に遭うのはセシルだと知っていた。伯爵家では誰も庇ってはくれないことも知っていた。言い返してはいけないとわかっていた。
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