第十話 人には期待をしない方がいい
結局、おっかなびっくりに道路を歩くサエに連れ添いながら、マンションのエントランスまで彼女と一緒に歩くことになった。
そして、そこでサエとは、別れた。
自分の家に帰って来た時は、なんだかんだで、真夜中前だった。
シャワーを浴びて、水を飲み、しばらくぼおっとしながら、そのままベッドに寝転ぶ。
やっていることは、いつもと変わらない。
夜遅くにスーパーに行って、食べ物を買って、あの静かな公園で空腹を満たしただけだ。
だけど、気分は大分違う。
ひとりであの静寂な空間にいるのは、キヨトにとって、心が洗われるような・・ウンザリする日常から解放される至福のときだった。
そんな、自分だけの空間にサエが入ってきた。
本来なら・・・不快な気分になるはずだ。
しかし、今のキヨトの心を満たしているのは・・・満足、幸福、充実、どんな単語にしても良いが、つまり、気分が良かった。
キヨトにとって、この感情は意外だった。
・・いや・・・そう思おうとしているだけだ。
本当のところは、意外でもなんでもない。
ずっと前から薄々気づいていた。
目をつぶっていただけだ。
孤独は辛いものだと。
嫌な学校に行かなくなったのに、何故こんなに不安で辛いのか。
緊張を強いられる外に出かけた時、事務口調の淡々とした女医と話した時、疲れた人々しかいないスーパーに行った時、そのいずれの場合も、キヨトの心はどこか安心していた。
それは、ほんのわずかでも人と触れ合っていたからだ。
たった数ヶ月、社会から隔絶して、人との交流を一切絶っただけで、孤独を求めていたはずのキヨトの心は完全に白旗を上げていた。
人は社会的動物・・という言葉は意味がわからなかったし、納得できなかった。
だが、今は渋々でも認める以外はない。
今までは、そうした人との交流はわずかなものだったから、キヨトはまだ自分の心に嘘をついていられた。
孤独でいい、ずっと引きこもりでもいい、いやそうするべきだ、と自分の心を鼓舞できた。
だけど・・・サエとの・・・あの濃密な交流は・・・自分の仮面を、はじめて外した時のあの感覚は・・・
ベッド越しから、うっすらと映る暗い雲を見上げる。
酷く、不安になる。
食べ物はなるべく安くて、味がそこそこのものの方がいい。
ひとたび、高い食べ物に舌が慣れて、今までの食べ物に不満を感じだしたら、もう元には戻れない。
人はそういう生き物だ。
食べ物なら、まだいいかもしれない。
所詮はモノだし、食べ物の品質は変わらない。
それに、金で買える。だからこそ、安心だ。
でも・・・その対象が人なら?
人の心は不安定だ。
今日のサエがそうだったように、キヨトがいま動揺しているように・・・
ふとしたことで、人の感情は変わってしまう。
そんな得体のしれない不安定なモノに自分の幸福が左右されだしたら・・
失う時の不安でいてもたってもいられなくなる。
キヨトの脳裏にはふと、いつかネットで読んだ記事が浮かぶ。
付き合っていた女に粘着し続けて、逮捕されたストーカーの話しだった。
<性欲くらいコントロールしろよ。ばかなやつ>
キヨトは、そうツイートした。
本当に理解できなかった。
たかが、女のため=性欲のためになぜそこまでハイリスクの選択をするのか。
だけど・・・今、わずかだけれどその男の動機が理解できてしまっている。
この気分に・・このなんともいえぬ幸福感に・・慣れてしまい、突然それが奪われたら・・
食欲なら、性欲なら、手続きで、マニュアルで、物理的な力で、金で、満たすことができる。
だけど、人の心は一度離れたら、それを取り戻す確固たる方法なんてない。
心はとうの自分ですら、わからない曖昧なものなのだから。
例のストーカーは、力でそれを無理やり取り戻そうとして、自分の人生を台無しにした。
俺は・・そんなバカではない。取り戻せないのはわかっている。
だから・・・そもそもそんな不安定なモノには近づかない方がいい。
期待をするから、ショックを受ける。
幸福だから、不幸になる。
ほどほどでいい。
サエは・・・危険だ・・・
この気持ちをずっと味わっていたら、きっと執着するようになる。
だけど・・・サエの気持ちをもしも、こちらに振り向かせられたら・・・そして、
もしも・・その状態を継続できたら・・・
キヨトは、充電しているスマホを手元に寄せる。
ネットの中は、今日もウンザリする人々と現実がよりどりみどりだ。
それでも、ネットの狂騒劇がキヨトの期待を冷まし、睡眠に誘うのには、夜明けまでかかった。
夕方に目覚めてから、今に至るまで、キヨトは、どうにも時計が気になっていた。
・・サエが来た時間はいつだっただろうか・・・
昨日別れる時、「また明日」・・と言っていた・・
なんで、ラインを交換しなかったんだ・・・
いや・・・交換してどうなる・・・
さっきから、そんなことばかりが脳裏の大半を占めている。
今日・・・サエが来なかったら・・・
ある意味、それはいいことなのかもしれない。
この高まる期待が冷めるのだから。
しかし、「ピンポーン」とチャイムが鳴った瞬間、そんな気持ちは吹き飛んでいた。
期待と不安が爆発して、交差する。
駆け足で、玄関に向かい、ドアスコープを除く。
瞬間、多幸感に全身が包まれる。
不味い・・・完全にハマってしまっている・・・
ほんの一瞬だけそう懸念した。
だけど、ドアを開けないなんて選択肢は、キヨトにはなかった。
「こんばんは。キヨトさん。」
澄んだ声が耳にこだまする。
昨日と変わらない綺麗な顔がそこにはあった。
人と会って、緊張以外のモノ・・ワクワクする・・という感情を抱くのは、はじめてだった。
「あの・・キヨトさん・・・ちょっとわたしの家に来てくれませんか?」
サエは、表情を変えずに、ちょっとした頼み事をするようにそういった。
「え・・」
サエは、キヨトの返事を待たずに、そのまま歩き出してしまう。
こないだと同じ展開だ。
サエは、こっちがどういう反応をするかにはあまり興味がないようだ。
後ろを歩きながら、キヨトの脳裏にはサエの考えを探ろうと、必死に頭を働かせていた。
サエは一人暮らしと言っていた。
こんな夜に、男の俺を家に入れるのか。
いくらなんでも、無防備過ぎやしないか。
そもそも最初会った時も・・逆だけど・・そうだった。
信頼されているのか・・・・
いやいや・・・サエと過ごした時間はあまりにも短い。
人を疑わない性格・・なのかもしれない。
金持ちは性格が良い・・・なんて、話しを聞いたことがある。
そういう両親の元で育てられると、こうなるのか・・・
いやそれよりも、サエの服装も気になる。これまでと違って、やけにフェミニンな格好・・ノースリーブの青いワンピース・・・をしている。
・・・何かの意図があるのだろうか・・
サエは、階段を上り、一つの上の階、ちょうどキヨトの家の真上あたりに位置する一室の前で止まる。
そして、そのまますぐに、扉を開けて、中に入る。
キヨトは、はやる心臓を落ち着かせながら、一拍置いて、サエの後に続く。
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