12-1.これは、お前の知らぬ私たちの約束なのだから
* * *
ブラッド第二皇子殿下が皇太子殿下となられて早いもので一週間がたった。
季節は様々な花が咲き誇る五月だ。
執務室から見下ろすことのできる中庭には、アリアに強請られて取り寄せたアマリリスの苗が植えられていた鉢植えが幾つも転がっている。皇国では育つことは不可能だと言われる花は、婚約破棄に関する一件が終わり、私たちが前に進むのを見届けたと言わんばかりに全て枯れてしまった。
数日前まで蕾をつけていた苗が枯れてしまったことが悲しかったのだろう。アリアは枯れた苗の鉢植えを使用人が片付けようとするのを拒み、そのままになっている。
今週中に撤去しなければ、使用人に片付けをさせると言い聞かせてある為、その鉢植えもどこかに片付けられるだろう。
「イザベラ様。如何なさいましたか」
「いや、アリアがあの花を好む理由はなんだったかと思っていただけだ」
「さようでございますか」
息抜きをする為に机から離れて窓の外を見ていた私に対し、僅かに視線を向けたセバスチャンは書類整理をする手を止めずに相槌を打つ。
「それでしたら、私に身に覚えがございます」
「そうか、流石だな。一体、どのような理由だったのだ?」
「はい、アマリリスの花は、アリアお嬢様の九歳の誕生日にイザベラ様が贈った花でございます。それ以来、アリアお嬢様はイザベラ様から贈られたアマリリスの花びらを栞にするように所望され、未だに大事にお使いになっております。恐らくは、お嬢様があの花を好む理由はそのようなものかと思われます」
セバスチャンの言葉に思わず目を見開く。
その言葉が本当だとは信じられず、窓に背を向けてセバスチャンの顔を見る。いつもと変わらない表情だ。嬉しそうに笑みを浮かべている。その顔を見る限りでは噓ではないだろう。わざわざ、噓を吐く必要もないことではあるが。
「……そうだったか」
アリアが義母と共にスプリングフィールド公爵家にやって来たのは、八年前。
病を患っていた母が急死してから三日後、私の十歳の誕生日だった。
当時、未成年だった私では公爵位を継げず、母が遺書に父を公爵代理とすると書き遺していたことも大きな理由だったのだろう。父は祖父母の反対を押し切り、義母とアリアを公爵家の一員として連れて来たのだ。
その日のことは忘れることができない。
母の死を悲しむこともしない父に絶望し、当然のような顔をして公爵夫人を名乗る義母を憎んだことを忘れはしないだろう。
後々、祖父母が強硬手段に出ることができなかったのには理由があったのだと知るまでは、祖父母も母を見捨てたのだと思っていた。義母と異母妹を引き取ることすらも皇帝陛下がスプリングフィールド公爵家の権力を削り、父の野心を意のままに操る為だと知った時は気を失ってしまいたかったものである。
私たちは皇帝陛下に利用をされていたのだ。
そのようなことがありながらも、なぜ、私はアリアに花を贈ったのだったか。
「セバスチャン。お前は記憶力が優れているだろう。なぜ、私がアマリリスの花を贈ったのか覚えていないか?」
「……覚えております。しかし、イザベラ様、貴女様は覚えておられないのですか? 当時のイザベラ様は、アマリリスの花を取り寄せる為に大変な苦労をされていたと記憶しておりますが」
「全く覚えていない」
「さようでございますか。それでしたら、それはアリアお嬢様にはおっしゃらないようにお願いいたします」
「約束しよう。私が覚えてもいないようなことを大切にしていたと知っても、あの子が傷つくだけだからな。お前に言われるまでもないさ」
休憩用にと紅茶を準備していたディアは呆れたような視線を向けていたが、なにも言わずに紅茶と菓子をサイドテーブルに並べる。無言のまま、ソファーの横に立ち、こちらを見てくるのは座れということだろう。私は窓際からソファーのある場所に移動する。セバスチャンも書類から手を離し、従うように付いてくる。
愛用しているソファーに座れば、ディアは満足げに微笑んだ。
使用人というよりは家族のようなものだ。ディアもセバスチャンも母が存命だった頃から変わらずに傍にいてくれる。十歳以上離れた兄姉のようなものである。それを口にすれば恐れ多いと言われてしまう為、滅多なことでは言うこともできないのだが。
「それで、なぜ、私は花を贈ったのだったか」
菓子を摘まみながら問いかける。
なぜ、今になって気になったのか分からない。もしかしたら、未来へと進み始めたからなのかもしれない。以前では気にもしなかったことだ。今、聞いておかなければ聞く機会を失う気がした。
「公爵家に迎え入れられたお嬢様は、環境に慣れることができずにおりました。当時のお嬢様からすれば、市民階級の子どもとして過ごされていた日々が楽しかったのでしょう。お嬢様が屋敷から何度も脱走しようとしていたのは覚えておりますか?」
「それは覚えている。脱走をしないように様々な罠を仕掛けたからな」
「はい、その通りです。イザベラ様の罠を抜けることができず、脱走をすることもできなくなったお嬢様は中庭にいることが多くなりました。庭師の後をついて真似をしていたのは覚えておりますか?」
「……そうだったな。そのような時期もあった」
セバスチャンの話を聞いていると、幼い日々を思い出してきた。
昔から土を弄っていることが多かった。貧民街で暮らしていた頃、土を弄ることしかなかったのだと笑っていた。その名残なのか、庭にいる時は生き生きとしていたのだ。それは婚約破棄をされ、再び、見ることができるようになったアリアらしい顔だった。
私は土で汚れながらも楽しそう笑うアリアが好きだった。
母から父を奪った義母の連れ子だと分かっていても、父が母を裏切った証拠だと分かっていても、アリアが好きだった。可愛い異母妹だった。
「ふふ、なぜ、忘れていたのだろうな」
当時、公爵家に迎え入れられたばかりだったアリアの好きなものが分からなかった。だから、私はアリアの誕生日には、私が大好きだったアリアの笑顔に相応しい花を探したのだ。
「誇り、内気、おしゃべり、強い虚栄心、素晴らしく美しい。どれもアリアに相応しい花言葉だった。大輪の花の美しさもアリアに似合うと思ったのだ。だから、私はあの子の誕生日にアマリリスの花を贈ったのだった」
あの頃の私では、皇国では自生しないアマリリスの花を取り寄せることができたのは一輪だけだった。スプリングフィールド公爵家の一員となったアリアが誇り高く生きていけるように。私が見惚れてしまうくらいに美しい彼女のままで生き続けられるようにと願いを込めて贈ったのだ。
それなのに八年の年月が流れていく間に忘れてしまっていた。
話を聞くまでなにも思い出せずにいたのだから不思議なものである。
「ディア。溢れんばかりのアマリリスの花を取り寄せてくれ」
「お言葉ですが、屋敷から溢れる量のアマリリスの花を取り寄せるのは不可能かと思います。そのようなことをすれば世界中から集めても足りないかと思われますよ、イザベラ様」
「ん? あぁ、そうだな。……では、三日後に行う食事会の飾りつけに必要な本数とあの子に渡す花束に必要な本数を取り寄せてくれ」
「畏まりました。手配いたします」
***
あれから三日がたった。
強制的に公爵代理人の座を返上させた挙げ句に屋敷から追い出された父と義母を再び屋敷に呼ぶことになるとは思ってもいなかった。屋敷から追い出した直後、父から義母との婚姻関係を解消しない代わりに、受け取る金銭の半分を公爵家に寄付すると血判付きの手紙が送られた時は驚いたものである。
父にそこまでの決断力と覚悟があったのだとは思ってもいなかった。
そこまでして義母と一緒にいたい気持ちは理解することができなかったものの、金銭の半分を返上する約束を守り続ける限りは容認すると返事した。勿論、公爵家の評判を落とすような真似をすれば、父も公爵家を名乗ることは許さないと忠告もしている。
それでも構わないというのだから、父は変わり者だ。
そこまでしてでも手放したくないのだろうか。理解ができない。
そのようなことがあったのにもかかわらず、今宵の食事会に限り、二人を呼び戻したのはアリアを喜ばせる為である。アリアを祝う場にはあの二人もいるべきだろう。
「お父様! お母様!」
大広間に通された父と義母の姿を見たアリアは、素早く立ち上がった。それから私を見ることもなく、二人の元へと駆けていった。
食事会が開かれる大広間で駆けて来たアリアを咎めることもなく、義母はアリアを抱き締めた。父もアリアを見る眼が優しい。どこから見ても仲の良い家族の姿がそこにある。それを席に座りながら眺めている私を気に掛けているのか、セバスチャンは落ち着かなさそうな表情を向けて来るが、それに対して眼を逸らして構うなと伝える。
貴族としての冷え切った両親の関係しか知らない。
皇国に全てを捧げる為に生きることこそが公爵家に生まれた者の義務だと信じて疑わなかった母から愛された覚えはない。父から愛された覚えはない。貴族として生まれた者にとっての親というのはそういうものだ。
少なくともアリアが公爵家の一員となるまでの我が家はそうであった。
……これでいいのだ。そうだろう、アリア。
前世とは違う道を歩み始めている。
それならば、あの時のようにアリアが父と義母に見捨てられた等と思うことはないだろう。
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