異人たちの旅路

レネ

第1話 異人たちの旅路

 私の靴音だけが響く。

 空は曇っているが、空気は澄んでいる。街は雪の日の早朝のように静かだ。

 なだらかに続く下り坂は広く、舗装が行き届いている。が、その坂に沿って並んでいる、IT企業の誘致のために造られたビル群は、その殆どが輪郭がはっきりせず、色もぼやけていて、空中に溶けるように並んでいる。

 遠くに目をやると、道路と歩道の先もぼーっと絵の具が滲んだようにうつろで視界もきかない。

 建物には人っ子ひとり出入りせず、通りはどこを眺めても誰もいない。たぶん、この国に多くあった過剰投資で、ここは生まれた時から死んだ街なのだ。

 私は毎日この街を散歩する。私と妻の住むマンションが、この街のはずれの大通りと市電の線路を越えた向こう側にあり、そのあたりはかなり車と人の往来があるのだが、この無人の街のほうが私は気に入っていた。私は不思議に癒された。ここには、日本の生活から遠く離れた、落ち着きと安堵があった。

 しかし稀に人とすれ違うこともある。きょうは何度か見かけたことのある若い女性がずっと向こうから歩いて来た。どこへ行くのかは分からないが、髪の長い、白っぽいコートを着た清楚な印象の女性だ。私はその女性に、懐かしさのような、親しみみたいな安らぎを覚える。最初はこの感情は何だろうと思い、考えてみたがよく分からなかった。そしてそれは未だに判然としない。女性は段々近づいてきて、すれ違いざまに互いにひと言だけ日本語で「こんにちは」と挨拶を交わし、そして十メートルほど歩いて振り向くと、女性はもういない。どこに消えたのだろうか。                              このことも、初めはしっくりこなかった。どのビルの中に入ったのだろうと捜してみたこともある。

しかしそれは時間とともに私の中で咀嚼された。大したことではない。この街にはそういうこともあるのだ、と、そう思うようになった。そして私はいつもあとになって、その女性の寂しそうな瞳ばかり思い出すのだった。

 私は暫くあたりをのんびり散歩したあと、大通りと市電の線路を渡り、最近できたばかりの薄いグレーのマンションへ戻る。その三階に住んでいるのだ。

 これが私の日課といったところだ。

 私は今のところ毎日のこの繰り返しを楽しんでいる。ほかの街へ行こうという気が起こらないではないが、特に用がない限り、家のすぐ近くを通る市電にも、バスにもめったに乗らない。


 妻はこの町で生まれ、育った。だからこちらへ来て間もなく、友人のつてでアニメの制作会社に仕事を見つけた。今の私たちの収入は妻が毎月もらう給料だけだ。が、子供のいない私たちはとりあえず何とかやっていけている。

 妻は髪を肩まで降ろし、切れ長の目をしていて、鼻筋も通ったなかなかの美人だと思う。頭も良く、てきぱきと家事もこなすし、私にはできすぎたくらいの女性だ。

 朝八時頃、彼女は市電に乗って仕事に出かけて行く。そうすると私はもうひとりぼっちで、職探しの方法もわからないまま時間を持て余し、無人の街へと散歩に向かう。


 ある日、妻が仕事に行ったあと、久しぶりに市電に乗って海辺の公園へ向かった。暖かな日で、ふと気まぐれに海が見たくなったのだ。

カタン、カタンと音を立てながら市電は町中を走る。

右手にファーストフードの店があるかと思えば、左手には古い市場がある。壊れかけた石造りの建物もあれば、大学の立派なキャンパスが見渡せたりもする。そんな眺めを楽しんでいるうち、間もなく向かって右手に海が見えだした。

広く、青い、いい色をした海原が一面に広がっている。

波打ち際には、昔日本の田畑でよく見たかかしが、所々に立っている。なぜ海にかかしなのか分からないが、何か意味があるのだろう。

上空には飛行機が白い線を引きながら飛んでいる。


 海は凪いでいた。冬の風はさすがに冷たかったが、分厚いコートの上から身体を刺すほどの強さはなかった。天気も良く、水平線がくっきりと見渡せる。久しぶりの潮風に、私の気持ちは和らいだ。

 特殊な健康法か何かなのか、後ろ向きにウォーキングする中年の男女や、寒中水泳で体を鍛える高齢者たち、散歩する学生風の男女や僅かばかりの観光客で、海辺の公園はささやかな賑わいを見せていた。

 飲み物や軽食の露店、あるいは記念写真を撮って売る店などもあった。

 私は、平たい大きな石に腰かけ、そうした光景や、心地良い色の海原を眺めていた。

「何してるの?」

 突然日本語で話しかけられ、我に返った。見ると、いつの間にか六、七歳くらいの女の子が脇に立っている。

「い、いや、海を見てたんだよ。日本語ができるのかい?」

 女の子は綺麗な赤いコートを着て、肩まで髪を垂らし、コートのポケットに手を突っ込んで、穏やかな表情で私をじっと見ながら小さく頷く。

「ひとり? 君こそ、こんな所で何してるの?」

 そう尋ねると、

「おとうさんをまってたの」

 と言う。

「おとうさんはどこ?」

 と言うと、女の子は何も答えずに、親しげなほほ笑みを浮かべながらじっと私を見ている。

 それから毛糸の手袋をした手で私の手を取る。私は立ち上がり、女の子と一緒に歩き始める。女の子は私の手を握ったまま、公園の木立ちの中を横切り、街の方へと向かう。

「おとうさんはどこなんだい?」

 女の子は答えずに、

「わたしね、もう小学校の一年生」

 と言った。

「ああ、日本人学校に通っているんだね」

 しかし女の子はそれにも答えずに、私を見てまたほほ笑み、黙って私の手を引いて行く。

「いつからこの国にいるの?」

 私が尋ねると、今度は女の子は、

「わからない」

 と答えた。たぶん、両親が日本人なのだろう。父親が、こちらの駐在員か何かかもしれない。

 女の子は公園を出て石造りの古い建物が並ぶ街中へ入り、一軒の洒落た喫茶店の前で立ち止まった。

「ここ」

 女の子はそう言って喫茶店を指さす。

「ここにおとうさんがいるのかい?」

 女の子は小さくかぶりを振った。

「何か飲みたいの?」

 女の子は頷く。

 私は木でできた入口の扉を押し、女の子と広々とした店内へ入ると、ひとりがけの真新しいソファがテーブルを挟んで向かい合った、ふたり用の席へ行き、女の子を座らせ、自分も向かい側に座った。

「何飲む?」

 私が尋ねると、女の子は、

「オレンジジュース」

 と言った。

コーヒーとオレンジジュースを注文してから、また女の子に尋ねた。

「おとうさんはどこなんだい?」

 女の子は今度は少ししかめつらをして私を見る。私はもうそれ以上聞かなかった。

「ごめんね、おじさん身体が冷えちゃって、トイレに行きたいんだ。ちょっと待っててね」

 そう言って席を立ち、店の奥の男性用のトイレに入って用を足し、出てきた、その時、昔の恋人である佐々木芳恵が、日本にいると思っていた芳恵が、女子トイレに入るのを見た。いや、人違いかもしれない。

 私はそのまま女子トイレの前に立っていた。人違いでなければなぜ芳恵がここにいるのか分からないが、とにかくトイレから出てくるのを待とう、そう思っていると、女子トイレの前にじっと立っている私を不審に思ったのか、従業員の女性が、

「どうしたのですか?」

 とこの国の言葉で聞いてきた。私は咄嗟に、

「私の恋人が、中にいるのです」

 と答えた。従業員の女性は女子トイレの中に入り、そして出てきて、

「誰もいませんよ」

 と言った。聞き間違えかと思い、

「誰もいない?」

 と聞き返すと、

「ええ、誰もいません」

 と女性は答える。仕方なく、

「そうですか」

 と言ってもとの席に戻った。と、女の子の姿はなく、手をつけていないオレンジジュースと、コーヒーだけがテーブルの上に置いてあった。窓から射し込む暖かな日の光に、グラスが輝いていた。

 私はソファに腰かけ、混乱しかけた思考を整理しながらゆっくり時間をかけてコーヒーを飲んだ。

 

翌日、また気の向くまま無人の街へ向かった。

先日とは別の通りを、今度は先日とは逆にゆっくりと登って行った。

その通りも人っ子ひとりいなかった。街は静寂に包まれて佇み、霧は出ていないのに、ビル群の輪郭は相変わらずはっきりせず、ぼんやりと曇り空に溶けていた。

 そんな光景を楽しみながら暫く歩いていると、雪が降り出した。さわさわと、大粒の雪が暗い空から無数に落ちてきて、あたりは少しずつ白く染まっていき、そしてあっという間に私の足跡がはっきりつくほどに積もった。

 降りしきる雪の中を歩いていると、突然、二十二年前の、大雪の正月の記憶が蘇ってきた。

     

 その、前年の秋、高校の校風がどうしても身にそぐわなかった私は三年で中途退学した。

 ところが父親は私の退学を許さず、私を無一文で家から追い出した。私は、生きていくためには新聞配達の寮に入るしかなかった。都内にあったその寮は古く、二食付きで月給は六万円。ほかに方法がなかったから新聞配達を続け、続けるうちに年が明けた。ところがその年は、東京でも膝まで積もる、大雪の正月になった。

 私は原付免許を持っていなかったから、自転車で配達していた。積もった雪の中で自転車は思うように進まず、坂道にさしかかると転倒した。荷台に配達順に積んでいた新聞が、ざーっと雪の上を滑り、下り坂を落ちて行った。それを、泣きながら拾って歩いた。

 その時の記憶が急に蘇ってきたのだ。

 あの頃から、私は壊れ始めていた。数か月後には貯めた金で四畳半のアパートを借り、アルバイト生活を始めたが、その頃偶然再会したのが幼馴染みの芳恵である。

 すぐに芳恵は私の唯一の支えになった。芳恵だけが、私という分裂しかけた精神を、人間の世界に繋ぎとめてくれていた。

 しかし芳恵との関係は、私が一年半後、大学病院の精神神経科に入院して終わってしまう。

 病院に閉じ込められるまで、芳恵だけは私に優しくしてくれた。私より二つ年上で、私は芳恵を姉のように慕い、頼っていた。

 しかし一カ月以上の入院生活ののち、医師が私に下した診断はいわゆる神経衰弱で、休養すれば完治するというものだった。私はそれから一年間、田舎の祖母の家で静養した。

 私は入院して以降、芳恵に自分の居所を知らせなかった。

 それきり、私は芳恵と会っていなかった。


 無人の街の雪は、さらに降り積もり、歩く私のくるぶしまで濡らしていた。街は雪の中に埋もれ始め、視界もきかなくなった。

 若い女性が立っている。歩道の上で、誰を待っているのか、真っ白になって立っている。見ると、時々すれ違う、あの女性だ。その時初めて思い当たった。芳恵に似ている。そうだ、二重の優しそうな目といい、ふっくらとした口元といい、確かに芳恵に似ている。どうして今まで気づかなかったのだろう。が、別人なのは間違いない。

 すれ違う時、私と女性は「こんにちは」と言った。そのまま私は通り過ぎた。どこか寂しそうな瞳だけが、雪景色の中をたゆたった。十メートル程過ぎて、振り返ってみると、やはり彼女はいなかった。

 なぜ何か話しかけなかったのだろう。その時、ひどく後悔した。そして私は、その時初めて思ったのだ。芳恵に似ているあの娘は、もしかしたら・・・と。そうだ、今度会った時は、ちょっと話をしてみよう。

 そう心に決めた。

    

 翌日、長靴を履いて散歩に出た。

 心のどこかで、芳恵に似た女性に会うのを楽しみにしている。

 白く染まった雪の街を、滑らないように気をつけながら歩いた。ところがひどく空気が冷えていて、寒くてたまらない。これでは散歩にならないと思い、そろそろ戻ろうと思いながら歩いていると、遠くに赤いコートを着た女の子が立っている。近づいて行くと、先日海辺で会った女の子だった。

「やあ、この前、急にいなくなったね」

 女の子は黙っている。

「何をしてるんだい?」

「おとうさんをまってたの」

「おとうさんはどこ?」

 女の子は眉をしかめ、私をじっと見る。

「こんなところに立ってたら寒いだろう。それにここで待っていても、おとうさんは来ないと思うよ。風邪をひくだけだ。おじさんの家へ来るかい?」

 女の子は急ににっこりとし、はっきりと頷いた。今度は私が、

「じゃあ、ついておいで」

 そう言って、先にたって歩いた。ほんの何歩か歩いて振り返ると、女の子はもういなかった。

 底冷えがするというのは、こういうことを言うのだろう。そのまま足元に気をつけながら、自宅のマンションへ向かった。

 三階に上がり、家の中に入ると、妻がテーブルに着いてコーヒーを飲んでいた。

「どうしたんだい、こんな早く」

「雪で市電が途中までしか動かないし、バスもだめだし、帰って来たのよ。風香も学校休みだっていうし」

 家の中はヒーターが効いて、よく温まっている。風香がソファに座ってマンガを読んでいる。赤いコートを掛けたハンガーが、壁に下がっている。

「ただいま」

 私は風香に言った。

「おかえり」

 そう言って風香がほほ笑んで私を見た。私もほほ笑んだ。風香はごく自然な様子でまたマンガを読み始める。足をぶらぶらさせながら。

「お昼、三人だし、何かちゃんとしたものを作るわ」

 と妻が言う。

「うん」

 私はコートを脱いでハンガーに掛けると、自分もコーヒーを作り、テーブルに座って飲んだ。飲みながら、つくづくと風香を眺めた。

 大きくなったものだ。七年くらい前だろうか。妻が流産したのは。

 妻が妊娠した時、もし女の子だったら名前は風香がいいな、などと話し合ったものだった。

 妻はいつにも増して生き生きしていた。玉ねぎを炒め、ひき肉を丸め、楽しそうにハンバーグを作っている。私も少し嬉しくなった。

 風香は妻が作ったハンバーグと白米をおいしそうによく食べた。眉と目もとは妻に似ている。よく見ると、鼻も口も含めて、全体的に妻に似ている気がした。黙々と食べながら、時々楽しそうに一緒にテーブルに着いている私と妻を見る。

「風香、野菜も食べなきゃだめよ」

 妻がほほ笑みながら言うと、風香は気が付いたようにサラダに箸を延ばす。

「おいしい?」

 妻が聞くと、

「うん、おいしい」

 と嬉しそうに風香が答える。

考えてみると、妻には色々苦労をかけ、悲しい思いもさせた。自分もそろそろ何とか仕事を見つけ、妻に楽をさせてやろう――そう思った。

 夜、風香をダブルベッドの真ん中に、川の字になって眠った。妻と風香の寝息が聞こえていた。

 私はいつまでも眠りにつけず、ひとり起き出して奥の部屋の窓から外のネオンを眺めた。寝室に目を戻すと、ふたりが並んで眠っている。外のネオンはこんなに明るかったかと思うほど、街を照らしている。

 暫くしてまた風香の横に戻り、つくづくとその寝顔を眺めた。一時間も、二時間も眺めていた。

 

翌日、妻と風香が家を出たあと、市電に乗り、海辺の公園の駅まで行って降りた。先日の喫茶店に行けばまた芳恵に会えそうな気がしたのだ。

 街中へ入り、少し歩いて、喫茶店を見つけると、ゆっくりと近づく。

店に入ると、ソファに腰かけてコーヒーを飲んだ。

 そして、飲みながら想像の中で芳恵に語りかけた。

 店内に立ちこめるコーヒーや紅茶の香りの中で、いつしか芳恵が私の隣に座っている。

(僕が入院してからよっちゃんに連絡しなくなって本当にごめん……それからよっちゃんを心身共に傷つけてしまって本当にごめん……それから……)

(もう、いいのよ)

 芳恵が遮った。

 私はひと呼吸おいてから、コーヒーをひと口飲み、そして続けずにはいられなかった。

(あれから五年くらい経ってからかな。昔の友達から、よっちゃんが結婚して子供もいるって聞いて、本当に嬉しかった。ほっとした。でも心の痛みは全然消えなかった……)

 芳恵は黙って聞いている。私は続けた。

(二十歳になるかならないかの、壊れた、神経衰弱の男に子供を育てられるはずはなかったから……)

(どうしようもないじゃない。仕方なかったのよ)

 芳恵は私の話を遮って、そう言ってくれた。

(だけど、それが、よっちゃんと僕を苦しめないはずがなかった。よっちゃんが子供をおろしたと知った時、精神神経科の病棟で心底号泣したよ。そして病院を退院したあと、ずっと祖母の家に世話になっていたんだけど、心を病んだ状態からいつまで経っても抜け出すことはできなかった……)

 芳恵はひと呼吸おいてから、

(そう……かっくんも大変だったのね)

 と、ため息をつくように言った。

(いや、よっちゃんに比べれば……でも、僕はお寺さんに供養に行ったり、心の中で拝んだりしたけど、心の痛みを消すことはできなかった……僕が、僕が犯した罪は永遠に許されることはないんだ)

(かっくん、そんなことはないよ、私はもう許してるよ)

 芳恵は目に涙をいっぱい溜めながら、そう言った。

 しかし、要するに私は馬鹿者だったのだ。

どうしようもない男だったのだ。

私は一生苦しむだろう。

 何かの折に、思い出すだろう。

 仕方のないことだ。

そう思った。

 芳恵は泣いている。

(そんなに自分を責めなくていいよ)

 芳恵はそう言って、涙を拭いながら慰めてくれた。

(ありがとう。今は、よっちゃんが幸せになっていること――それだけを祈っている……)

 そこまで言って、ゆっくりと顔を上げた。

 気がつくと、私は喫茶店でひとりでコーヒーを飲んでいる。店内には何事もなかったようにコクのある香りが立ちこめている。

 私はコーヒーを時間をかけて飲み干し、ゆっくりと立ち上がって金を払うと、喫茶店を出た。そこにはもとの街がもとのまま広がっている。私は市電の駅に向かった。


 家へ戻り、もう一杯コーヒーを飲みながらテーブルの上に置いてあったタウン情報誌を見ていると、日本語の求人が載っていた。

仕事の内容は経理で、なるべく日本人か、日本語の堪能な者という募集内容だった。

少し迷ったが、そこへ電話をし、日本語で自分が日本人であること、日商簿記検定の二級を持っていることなどを告げると、明日面接に来てほしいと言われた。私は了解した。

言葉のできないこの国で仕事をする不安がないわけではなかった。しかしいつまでも妻に頼ってばかりいるわけにもいかない。

私は身の引き締まる思いがした。

間もなく風香が帰ってくると、風香に買っておいたポテトチップスを与え、ジュースを注いでやった。ふたりでテーブルを挟んで向かい合って座り、風香はチップスを頬張る。と、風香が、

「おとうさん」

 と私を呼んだ。

「うん」

「おとうさん」

「うん」

 風香は笑った。私は胸に熱いものがこみ上げた。

「風香、何がしたい」

「風香はねえ、おとうさんとおかあさんがいればそれでいい」

 私は何度も風香の頭を撫で、頬ずりし、それから日本昔話の本を出してきて、ソファに座って風香と一緒に開き、読んだ。風香は私にぴったり身を寄せていた。時々、風香がポテトチップを私の口へ押し込んだ。私はそれを噛みしめ、風香と一緒に本を見たり、テレビを見たりして過ごした。

 やがて妻が帰って来た。

「おかえりなさーい!」

 と、風香は妻のもとへ駆け寄る。

 妻は風香を嬉しそうに抱きしめた。

 その夜も三人でテーブルを囲み、妻が作った焼き茄子や鶏肉の照り焼きといった料理に揃って舌つづみを打った。

妻が風香に、

「きょうは何を勉強したの?」

と聞くと、風香は、

「んとね、こくごとね、んーとそれからたいいくもやった」

と答える。

「お友達と遊んだの?」

「うん」

「何したかな?」

「んとね、てつぼうとかね、それとね、おにごっこ」

「へーっ、楽しかったでしょう」

「うん」

 そして風香は料理を口に運ぶ。

 温かい部屋で、子供の顔を見ながら食べる食事はおいしいものだ。今は妻も幸せだろう。子供に恵まれ、自分が生まれ育った国にいられて、帰ろうと思えばいつでも実家に帰れる。しかも風香を連れて。

私は幸せとはこういうことか、と実感として思った。

その夜も川の字になって寝た。夜遅くまで、三人で他愛のない話をし、布団の中で笑った。内容は、主に風香の友達の話や、妻の会社の面白い人物などの話だったが、風香が笑うと、私は心から嬉しかった。妻も嬉しそうに大きな声で笑っている。

 夜はゆっくりと更けていく。


 翌日、市電の線路と広い道路を渡り、銀行の近くの停留所からバスに乗って、二十分程行った所で降り、面接に臨んだ。

 その会社は立派なビルを構え、日本の企業の経理の下請けをしている、従業員二百人程の会社で、面接をした人事の男性は日本人だった。

 話を聞くと、私は経理そのものをやるのでなく、少し大袈裟に言えば、経理の下請けをしているこの国の人々の監督をするということであった。

「どうです、やっていただけますか?」

 私の採用はもう決まっているかのようだった。学歴もなく、風貌も冴えない私が、こんなに簡単に採用されるとは思っていなかったから、

「やらせてください」

 と答え、その男と握手を交わした。

「じゃあ、さっそく明日からでも」

 と握手をしながら男は言った。

「分かりました」

 と私は言い、翌朝九時に出社することになった。


 カタン、カタンと音をたてて市電が走る。そこを通り過ぎ、私はまたあの街へ行く。

 明日からは私もこの国の民間企業のサラリーマンだ。そうそう散歩もできなくなるだろう。

 そこにはあの女性が待っていた。広々とした道の遠くに、ずっと登って行ったところに、あの若い女性が待っている。

 私と女性との距離は少しずつ縮まり、やがて私たちは、お互いすぐ目の前まで来て立ち止まる。

 女性は言う。

「おとうさん、私、二十歳になったよ」

「そうか……おめでとう。本当に、まったく何もしてやれなくて申し訳なかった。ごめんね。本当に……」

私は女性の手を取り、ゆっくりと引き寄せ、そして彼女の華奢な身体を強く抱きしめた。

「おとうさん」

「うん」

「おとうさん……」

 私と女性は、さめざめと泣いた。

「うちへ来るか?」

「ううん、いいんだよ、おとうさん」

「いや、うちへおいで。君のことはもう随分前に妻に話して彼女も知っている。彼女も分かってくれると思う」

 心から、そう言った。

「いいよ、おとうさん、私、今さら、おとうさんの世話になろうなんて考えてない。ただ、おとうさんに会いたかっただけ。自分を認めてほしかっただけ。それだけでいいんだ」

「じゃあ、せめて皆で一緒に食事しよう。せめて、そうしよう。そして、君に色んなものをあげたい。してあげたいこともいっぱいある。おとうさんの気持ち、申し訳ないという気持ちを、君に伝えたいんだ」

「いいんだよ、おとうさん。私、おとうさんが苦しんで、いつも私のことを忘れないでいてくれたの、知ってる。こうして会えて、それで充分だよ」

 私は何と言ってやれば良いか分からなかった。彼女は私を見ながらぽろぽろと涙をこぼしている。

「本当にありがとうな。こんなおとうさんのことを考えてくれて。どれだけ恨まれたって仕方がないとおとうさんは思っているんだ」

「もういいよ、おとうさん。私のこといつも思い出してくれてて、ありがとう」

「ごめんな、本当に……」

「おとうさん……さようなら、おとうさん……」

 彼女は、霧が晴れるようにすっと消えて見えなくなった。

私は暫く、そこに立ちつくしていた。

この町に来て、本当に良かったと思った。

 と、舗装された広い道路が、遠くの方から徐々に消えていく。歩道も消えていく。立ち並ぶビルもいつの間にか透き通って、やがて見えなくなった。

 青い空が広がっている。空気も澄んでいる。

 私は思った。さて、家に戻ったら、風香はちゃんといるのだろうか。

 いや、きっといてくれる。芳恵との子の分まで、私たちは風香をかわいがって、つつましい幸せを大切にこの国で暮らしていこう。

 明日から始まる新しい生活に、不安と希望の混ざった思いを抱きながら、私はマンションへ向かって歩き出す。       〈了〉


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異人たちの旅路 レネ @asamurakamei

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