全ての不安を取り除き安心に繋げてくれる素晴らしい代物
常世田健人
全ての不安を取り除き安心に繋げてくれる素晴らしい代物
同棲中の彼女が生ハム原木を購入した。
通販で注文をし、今、家に届いたという訳だ。
「え、何でいきなり?」当然のごとく俺は彼女に質問する。
「生ハム原木が家にあればさ、なんか、安心するらしいよ」彼女は笑顔でこう言った。
「どういうこと?」
会話をしながらも生ハム原木にかかっているビニール袋を彼女は外していく。生ハムの固まりと、それを支える台。異様な存在感だった。二人で食事をするには余裕の広さをもつテーブルの八割が占領される。
異質でしかなかった。
「友達が言ってたんだけどね、仕事が辛い時、『家に帰れば生ハム原木がある』って思えば頑張れるらしいのよ」
「いやそうかもしれないけど……これ、いくらだったの」
「二万円くらいかな」
「え、これそんなにするの!」
「でもね、生ハム七キロ分だよ。生ハム食べ放題だよ。ワインとかビールとかに絶対合うよ」
「えぇ……」
正直そんなに生ハムが好きではないし、お酒であればワインよりもビールよりも日本酒の方が好きだった。
それに七キロも要らないだろう。俺と彼女は三十代に差し掛かっていて食欲も低下してきている。加えて俺も彼女も小柄な方だ。食べ放題に行ったら間違いなく元をとれない自信がある。
「何で買う前に相談してくれなかったのさ」
「貴方を驚かせたかったのよ」
「驚かせるって言ったって、二万円の買い物は安くないでしょう……」
「これからのことを考えたら貯金しなきゃいけないのはわかるけれど、今の仕事を頑張るために必要な出費と考えたら仕方ないんじゃないかな」
「君の安心には繋がるかもしれないけど、俺の安心にはつながらないよ、これ」
生ハム原木を何回みても違和感しか浮かばない。
何日経過したとしてもこれが俺の安心につながる未来は見えず、寧ろ安心を阻害するような気がした。
そんな俺を見ながら、彼女は「ごめんね、勝手に買って」と呟いた。「貴方の安心につながるようなもの、いつでも家に置いて良いから」
そんなことを言われてもすぐには思い浮かばない。
俺の不満はなんのその、彼女は生ハム原木の端を楽しげに切り出した。一枚の生ハムを彼女は食べて、「うぅん、美味しい!」と叫んだ。
*
家にあれば安心する物って何だろう。
考えても考えても思いつかない。営業で車の運転中にも考えていたが何も思い浮かばなかった。趣味ならあるが、音楽フェスやサッカー観戦など基本的に外に出て楽しむものが多いため、家に置いて置きたいものがない。強いて言えばライブのDVDやサッカー観戦のためのグッズだろうか。ただそれらはもう既に大体家にある。
もっと買い揃えれば安心につながるのだろうか。
そもそも安心って何だ。
俺は安心を手に入れられていないのか。
仕事もそこそこ順調に成果をあげられるようになっている。仕事に対して壁にぶつかることはあるものの、物凄く不安になって立ち直れなくなるようなことはない。
それでいうと、仕事に対して安心を求める必要はないのだろうか。
であれば俺が求めるべきは、プライベートに対する安心なのだろうか。
「わからないな……」
営業車の中で音楽を響かせながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。
プライベートに関しては、確かに不安だらけかもしれない。
彼女に対してプロポーズはまだしていないし、したところで成功するのかどうかはわからない。例え成功したとしても、その後結婚式を挙げて新婚旅行をして結婚生活を送るとなるとかなりのお金が必要になる。彼女は子どもを何人か欲しいと言っていた。僕も同じ気持ちだ。そうなるとお金がいくらあっても足りない。
ああ、駄目だ。
考えれば考えるほど不安になってきた。なるほど、これは確かに家に何か安心できるものがあった方が良い。衝動的に彼女が生ハム原木を買った気持ちが少しわかった。彼女に生ハム原木を購入させるアドバイスをした友達に感謝しなければならないかもしれない。
ため息を大きくつきながら運転を続けた。
今日はいつもより早めに仕事を切り上げて、彼女に謝るとしよう。
そして、何があればこの不安が安心に切り替わるかどうか、彼女に相談してみることにしよう。
*
家に入れるドアから喘ぎ声が聞こえてきた。
二種類の声だ。
女性のものと、男性のもの。
ドアは防音性能をしっかり発揮していて、ドアに耳を直接あてなければ聞き取れないほどの声量になっていた。
不安になって、一応念のためと思い聞き耳を立てたのが運の尽きだった。
逆に運が良かったのか、わからない。
不安という状態を通り越して絶望感に襲われた。立っているのもおぼつかない。信じたくない。ただ、ドアを開けたらそこには間違いなく浮気現場が待っている。もう抗えない現実だった。
そんな俺の脳裏に急に浮かんだのは――生ハム原木だった。
安心につながるもの。
それが何か、今、わかった。
「ああ、なんだ。簡単なことだった」
ドアを勢いよく開けて、リビングへと入る。
テーブルには生ハム原木が当たり前のように鎮座している。皿が二つ並べられており、食べかけの生ハムが乗っていた。
俺は、生ハム原木を切り取るナイフを手に取り、寝室へと向かった。
*
こうして俺は、公私共に不安ではなくなった。
仕事に関しては前述したとおり何の問題もない。
プライベートに関しては不安ばかりではあったが、その不安の元を全て断ち切る代物が寝室にある。
腐敗臭が気になるが、この匂いによってより安心感に浸れた。
ゆっくり安心して、リビングのテーブルにある生ハム原木を切り出す。
日本酒と合わせて食べてみたがやはり合わなかったので、ゴミ箱に突っ込んだ。
全ての不安を取り除き安心に繋げてくれる素晴らしい代物 常世田健人 @urikado
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