第67話
エクトルが妊娠のことをカイオスに伝えたおかげで、早々に医者が派遣された。宮廷医は貴族専用の医者のため、呼ばれたのは王都で名の知れた医者である。
その医者の診断でも妊娠の診断がされて、私の生活にも少し変化があった。まずカイオスの呼び出しがなくなったこと。そして食事が妊婦に配慮されたメニューになったことだ。
宮廷薬師の仕事は私自身が気を付けつつ続けている。私がこの役職に就いてから薬の品質が高いと評判で、代わりが利かないらしい。一応危険性の高い薬物の調合は減らされているものの、王族の薬と常備薬の類は私が作らねばならない。
つわりも多少眠気が強くなったくらいでほかの症状はほとんどなく、なんだかんだと気が付けば五か月を過ぎた。医者も定期的に診てくれるし問題なく安定期に入り、腹から黒い線が飛び出てくることもほとんどなくなっている。ただその代わりのように時折感情の線が見えるようになった。
「ただいま! シルルさん、体調はどう? 赤ちゃんは元気?」
「おかえりなさい。元気ですよ」
訓練から急いで帰ってきたらしいエクトルは、薬師塔の扉をあけるなり体調を尋ねてくる。これはいつものことなので私は笑いながら迎えたが、ユナンは少しばかり呆れた顔をしていた。
「……嫁バカだけでなく親バカにもなりそうだな」
ユナンから聞いたのだけれど最近のエクトルは同僚から「嫁バカ」という二つ名をつけられているらしい。「花の騎士」という名も相変わらず聞くけれど、近衛騎士団の中では「嫁バカ」の方が強いようだ。
エクトルは相変わらず他人の前では表情の仮面をかぶり、言動も内心を隠すようなもののままなのだが、それでも隠し切れない私への愛情があふれ出ているので騎士たちの認識が変わってきている、という話である。
交代のユナンが去っていくと、エクトルはさっそく私の傍にきて少し膨らみ始めたお腹に手を当て、嬉しそうな線を伸ばしていた。
「少し大きくなったかな。どれくらい成長してるんだろうね」
「音に反応しているような気がしますから、もう耳が聞こえているのかもしれませんね」
「え、ほんと? じゃあたくさん話しかけて覚えてもらわなきゃ。お父さんだよー」
笑顔の仮面ではない、笑み崩れると言わんばかりの顔をしたエクトルが私のお腹に向かって話しかける。そうするとほんの一瞬、
「うん、楽しそうですね。やっぱり聞こえているんじゃないでしょうか」
「そっかぁ……あと五か月くらいだよね。会えるのが楽しみだなぁ。両親もすごく喜んでて、特に母は服を任せてほしいって」
「……生まれるまでは性別も分かりませんけどね」
「大丈夫、赤ちゃんのうちはどっちでも似合うようにできるってさ」
張り切る義母イリーナの姿を思い浮かべて苦笑した。ドルトンの息子が生まれたときもはしゃいで大量の服を作っていたようなので、同じことが我が家にも起きるのだろう。
「それからジャンさんからの手紙も届いてたよ。ついでに受け取ってきた」
「ありがとうございます」
エクトルが懐から取り出した一通の封書を受け取り、見慣れた住所と名前が書かれた表書きにどこか嬉しくなりながら早速開封した。
安定期を迎えたので関係者には妊娠の報告をしたのだ。ジャンからもその返事が来たようだった。
『おめでとう。生まれたら祝いの品を贈る』
一枚の紙に書くにはとても短い返事だった。しかしその便せんのところどころに歪な円形の染みが出きているので、長い文章が書けなかったのだとすぐに察する。
顔を合わせて頭の上の予想線を見なくても、こんなに短い文章からでも、相手の感情が伝わってくることはあるのだと、心の内が温かくなった。
「ジャンさん、何か言ってた?」
「お祝いを一言。とても喜んでくれていると思います」
「そっか。里帰りはしなくていいのかい?」
「はい。安定期とはいえ、長時間の移動が負担なのは事実ですからね」
次に里帰りするのは子供が生まれてからになるだろう。最近はなんとなくお腹の中に存在感があるような気がするし、あと五か月だ。親になるという実感が湧いてきてもいて、楽しみであり、不安でもある。
「そういえば、名前は決まりましたか?」
「……うん、決めた」
「私も決めましたよ」
子供は生まれてくるまで性別が分からない。男の子ならば私が名前を決めて、女の子ならエクトルが決めると約束した。考えがまとまったらお互いに教えると話し合っていたので、目を合わせて互いに頷く。
「男の子なら“ライル”です」
「女の子なら“リリィ”だ」
どちらも良い名前だと思う。生まれてくる子がどちらにせよ、名前は決まった。会える日がまた、一段と楽しみになった気がする。
「早く会いたいなぁ……」
「早くは無理ですよ。あと五か月待ってくださいね」
お腹の中の子が成長するには時間がかかるのだ。早く生まれてしまっては、成長が足りなくなってしまう。たっぷり十か月はお腹の中にいてもらわなければならない。
今のところ順調に育っているらしい、というのは私も体感で分かる。そして時折出てくる感情の色が何よりの証拠だ。
「うん。……しっかり大きくなるんだよ。お父さんもお母さんも待ってるからね。というわけでシルルさん、そろそろ昼食の時間だからゆっくりしててね。俺が準備するから」
「いつも思いますけど、過保護ですよ」
「君と子供に何かあったらいけないからね。さあ座って」
妊婦もそれなりに動いた方がいいのだが、物を運んでいると転びやすいと言って食事の支度などはエクトルがすべてやってしまうようになった。
薬草畑を見て回ったり王城までの長い道のりを散歩してみたりと運動をするようにしてはいるけれど、エクトルはその間も転ばないかと気が気ではないらしく絶対に私の手を離さない。そんな彼を見ていると私は逆に気が抜けて、笑ってしまう。
(……お父さんとお母さんも、こんな感じだったのかな)
私が生まれる前の両親も、このような気持ちだったのだろうか。毎日が満ち足りていて、一日一日が早いようで遅くて、待ち遠しいと我が子に会える日を願いながら、子供に必要なものを考えて、揃えて。
部屋の隅に用意された、まだ使う者のいないゆりかごに目を向ける。薬師塔の中には少しずつ、生まれてくる子を迎える準備が整えられているのだ。
(……この子は……魔法を、受け継ぐかな)
私は自分以外の魔法使いに会ったことがない。一目見てそれと分かるだろうか。もし子供に魔法が受け継がれていたら、どうやって教えてあげればいいだろう。両親は私に、どうやって教えてくれただろうか。
魔法を受け継がなかったとしても、魔法使いの血筋であることは教えなければならない。もし子供が受け継がなくても、その子孫が魔法の力を使う可能性はあるのだから。
考えることはまだまだたくさんある。エクトルと一緒に悩まなければいけないことだ。五か月は長いようで、短い気がする。
「お昼を食べたら育児書を読まなきゃ……」
「……エクトルさんはいいお父さんになりそうですね」
「そうかな。……そうなれたらいいな」
生まれる前からこれだけ愛情を傾けてくれるのだ。子供を深く愛する良き父になってくれるだろう。
そうして穏やかに、けれど忙しなく日々が過ぎて。五か月などあっという間にやってきたのである。
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