第66話



「エクトルさんに大事な話があるのですが……」



 近衛騎士の訓練から戻ったエクトルは、愛する妻にそう切り出されて笑顔のまま一瞬固まった。休憩時間に小耳に挟んだ、同僚の話を思い出したせいだろう。大事な話があると離婚を切り出され、何とか関係を修復したと疲れた顔で語る同僚。そんな話は自分には関係ないと思ったばかりだった。


(……いや、ないな。それはない。シルルさんは俺を……愛して、くれてるし……)


 彼女の愛情は疑いようがない。結婚して半年、夫婦関係は良好だ。むしろ相変わらずシルルのまっすぐな愛情表現にたじたじになっている自分が嫌われているはずはないと思いなおす。では大事な話とは何か、そういえば訓練に出る前に嬉しいことがあったと言っていた。その関係だろうか?



「うん。どうしたんだい?」


「……いえ。やっぱり今日の仕事が終わってから話します。先に薬草の収穫を手伝ってもらってもいいですか?」


「もちろんだよ」



 シルルが自分の頭の上を見て考えを改めたようだったので、彼女の判断に間違いはないだろうと頷いた。あまり表情は動いていないが、ほんのりと口角の持ち上がった唇を見れば機嫌が良いのだと分かる。彼女の大事な話も悪いものではないのだろう。


(なんだろうなぁ……ジャンさんから連絡がきたからちょっと里帰りがしたい、とか?)


 彼女の育ての親であるジャンとはこまめに連絡を取り合っていて、昨日も彼からの手紙が届いていた。何か良い知らせでもあったのかもしれない。

 シルルが地元に戻るならもちろんエクトルもついていく。護衛であり、何より夫なのだから当然だ。ただ薬師塔を空けるならカイオスに話を通しておく必要があるためエクトルに相談が必要なのだろう。



「では、エクトルさん。あの赤い花の葉を摘んでもらえますか?」


「うん、任せて。……それにしてもシルルさんがそんな恰好してるの、珍しいね」



 シルルが差し出す採集用の籠を受け取りながら珍しい姿を見下ろした。口元を布で覆い、手袋をはめて、まるで毒物でも扱うかのような重装備だ。彼女は毒――というより薬全般に耐性があるせいで、余程の劇物でも扱わない限りこういった対策をしている姿を見ることはない。……むしろ普段から薬を扱う時はこれくらいしてくれる方がエクトルは安心するけれど。



「ちょっと事情がありまして。エクトルさんもあの花の花粉はできるだけ触れないようにして、もし手についたらしっかり洗ってください。家に入る前に服も払いましょうか」


「……あの花の花粉ってそんなに危険だったの?」



 その赤い花の中に分け入って作業をしている姿も何度も見ているのでかなり不安になった。毒耐性が強いとはいえそんな危険なことをしていたのかと。そんなエクトルの感情が見えるのだろう、シルルは安心させるように笑った。



「普段はそうでもないです。ああ、それからエクトルさんには害はありませんから、安心してください」


「……でも今の君にはあまりよくないってことだね。分かった、気を付ける」


「はい、お願いします」



 普段と違うシルルの様子は気になるが、エクトルが気にしていることも感情を見る力を持つ彼女は知っていて、エクトルの視線に気づくと小さく笑みが返ってくる。その表情を見れば何も心配いらないのだと思えてきた。

 そのあともいくつか頼まれた手伝いをこなす。普段ならシルルが自分でやってしまうような、簡単な仕事だ。薬の材料の下処理だとか、少し重たいものの運搬だとかそういうことである。

 こうして二人で薬を作る仕事をしていると、なんだかーー将来、二人で薬屋をする未来を思い描いてしまってどこかふわふわとした気持ちになった。



「今日の仕事は片付きました。エクトルさんも手伝ってくださってありがとうございました、お疲れ様です」


「これくらいどうってことないよ。シルルさんもお疲れ様」



 仕事が終わって一息つく。シルルが茶を淹れてくれたが、普段とは違った香りがした。これは以前、王妃であるソフィアのためにブレンドしていた茶葉の香りに似ている気がする。



「では改めて、大事な話があります」


「はい」



 思わず背筋が伸びたエクトルにシルルが小さく笑った。彼女はエクトルの頭上を見た後、言葉を迷うように視線をカップの中に落とす。



「実は……私のお腹の中に、命があります」



 エクトルは何を言われたのか理解できずに固まった。お腹の中に命がある、とはつまり、それは――。



「子供です。医者の診断は受けていませんが、予想線が見えたので間違いないかと……エクトルさん?」



 子供。子供である。愛するシルルと、自分の子。シルルは長年作った薬を自分で試してきたため、子供は出来にくいかもしれないと聞いていた。そのせいで彼女が「大事な話」と口にしてもこれは全く想像していなかった。


 産まれてくる子の髪の色は何色だろうか。瞳の色はどうだろうか。男の子なら自分が剣を教えたい。しかし剣よりも薬に興味があるなら、シルルが良い師となってくれるだろう。女の子なら父親になる自分は何をしてあげられるだろうか。いつか嫁に行――――。



「お嫁にはやりたくない」


「……あの、いろいろすっ飛ばしすぎですよ。性別も分かりませんからね?」


「ああ、うん、ごめん。ちょっといろいろ想像しちゃって……そっか、俺たちの子供が……そっかぁ」



 きっと今のエクトルは他人に見せられないようなだらしない顔になっている。だって顔に力が入らないのだ。表情を取り繕うことなどできそうもないくらい、嬉しくてたまらない。シルルはそんなエクトルを優しい目で見つめている。



「そうだ、名前……! 名前を考えなきゃ! それから服と、あとおもちゃと」


「気が早いですよ、落ち着きましょう。それに、まだどうなるか分かりません」



 その言葉でスッと冷静になった。そうだ、子供は必ず生まれると決まっている訳ではない。生まれるまで何があるか分からないものだ。

 急な不安に襲われているエクトルの気持ちが見えているシルルは、その小さな手をそっとエクトルの手に重ねた。



「私の能力とエクトルさんの協力があればきっと大丈夫です。……一緒にこの子を守ってください」


「……当然だよ。君も子供も、必ず守る」



 シルルの手をしっかりと握り彼女の赤い瞳を見つめた。王位継承問題があったカイオスたちような命の狙われ方はしないとしても、日常生活にも危険は潜んでいる。昼間に薬草摘みを頼まれたのも、あの植物が子供に悪影響だからなのだろう。できれば薬師という仕事も休んでほしいくらいだが、宮廷薬師である彼女の代わりを務める者はいないのだ。気を引き締めなければならない。



「まずはそうだね、カイオスには報告したほうがいいかな。両親には……」


「陛下に報告するのは必要かと思います。エクトルさんの実家には……安定期を迎えてからがいいでしょう」


「うん。そうしよう」



 カイオスに伝えればシルルの仕事や食事について配慮はしてくれるはずだ。カイオスの子が生まれるように尽力したシルルへの義理立ては必ずするだろう。彼は配下を思いやれる主君である。

 それ以外の日常生活ではエクトルが気をつけて母子共に守らなければならない。



「……守るものが増えたなぁ」


「そうですね、守るものが増えました。……なんだかそれが、力になる気がします」



 エクトルにとってシルルは守るべき相手、守りたい相手だ。しかしシルルにとってはエクトルがそうなのだと知っている。実際にお互いを救ってきた経験があるため、彼女の言葉には実感が込められていた。


(守りたいと思う相手がいれば、体は自然とそのために動く。……俺もよく知ってる)


 だからこそ今まで以上にエクトルは動けるようになるだろう。守ると決めたものが増えたのだから。

 それからはシルル以上に彼女の体を気遣った。お腹の子に危険があればそれが見えるシルルと違って、エクトルには塔の中のものすべてが危険に見えて仕方がない。

 いざという時に支えられるよう、何なら下敷きになってでも守れるよう心に刻みつつ階段の上り下りも必ず手を引く夫の姿にシルルは仕方がなさそうに笑っていた。


(でも子供か…全然想像出来てなかったな。きっとシルルさんに似て可愛い子が産まれるはず…)


 心配もあるけれど、やはり喜びも大きい。感情は「心配」と「喜び」の間を行ったり来たりしている。体を動かしていないのに心が激しく上下するため、息切れしそうだ。そんなエクトルの感情を見ているシルルはエクトルが不安になった時は安心させるような言葉をかけ、喜んでいる時は笑いかけてくれる。


(だめだな、俺がしっかりしないと。シルルさんだって不安はあるはずだ。……大丈夫、二人でなら絶対に守れる)


 あまり眠れない夜を過ごしてようやく意識が切り替えられた、そんなエクトルに試練の時が訪れる。……騎士としての訓練時間だ。この時ばかりは薬師塔で仕事をするシルルから離れなければならない。また不安に逆戻りしそうだった。



「訓練に行きたくない。一秒たりともシルルさんの傍を離れたくない。ユナンが俺の代わりに訓練に行ってくれない?」


「……前にも似たようなことを言っていたな。愛妻家なのは結構だが、訓練は騎士の義務だ。早くいけ」


「大丈夫ですから行ってきてください」



 事情を知らないユナンは完全に呆れたようにため息をついている。安定期を迎えるまでは周囲に話さないと二人で決めたものの、代替騎士のユナンには理由を伝えてこれまで以上に注意してくれと言ってもいいんじゃないかと思う。



「いいか、ユナン。シルルさんを頼むけど、本当に細心の注意を払って。怪我一つ負わせないようによろしく」


「……いつも以上に気迫が怖いぞ、エクトル。分かったから早く行け」



 エクトルは後ろ髪を引かれる思いで何度も薬師塔を振り返りながら訓練場に向かった。

 勿論、この状態で訓練に身が入るはずもない。手合わせの時間となれば普段は相手に合わせて加減をするため指南役として優秀だとペアに望まれるのだが、今日ばかりはそれも上手くできずに新米を強めに転倒させてしまった。

 エクトルの様子がおかしいのは同僚も気づいたようで、休憩時間になると「どうした? 何かあったのか?」と声を掛けてくる。



「早く家に帰りたい。奥さんから離れたくなくて仕方ない……なんて思っちゃってさぁ」



 心配そうにしていた同僚はその表情を一気に呆れへと変化させた。そして盛大にため息をつき、こちらの様子を窺っていた騎士たちに振り返る。



「いつものやつだ。エクトルの嫁バカが始まった」


「ほんとに嫁さん好きだな。女遊びはすっかり忘れたらしい」



 以前はそこまで関わりが深くなかった同僚たちだが、エクトルが結婚してからは何故か距離が縮まっているように感じる。エクトル自身は以前と態度を変えていないはずで(まあ多少はシルルに対する愛情が漏れやすくなったとは思うが)、向けられる視線は「花の騎士」に対するものよりも「嫁バカの同僚」に向けられるものが多くなっていた。

 本音を冗談のように誤魔化してしまう癖は相変わらずなのだが、それでもシルルに対する愛情は本物なのだと伝わっているらしく、茶化してもそれを真に受ける人間が減ったように思う。



「エクトルがこんなに面白いやつになるなんて、こいつの嫁さんは一体何者だ?」



 この世でおそらく、ただ一人。最後の魔法使い。命の恩人で、誰よりも愛する人。そんな彼女と自分の間に、子供ができた。生まれる前から愛おしくて仕方がない。そんな二人がいる薬師塔に――。



「帰りたいなぁ……」


「……なんか嫁さん関連でいいことあったんだろうな。今日のエクトルは加減できそうにないから、自信ないやつは手合わせ組まない方がいいぞ」



 その日エクトルはあまりにも浮かれていた、などと言う噂が流れることになった。そしてシルルには「仕方のない人ですね」と苦笑された。……そんな表情も堪らないほど愛おしいのだから、本当に仕方がない。

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