番外 結婚生活編

第65話




 朝、目を覚ますと差し込む朝日に照らされた輝く金色が目に入る。自分の体に感じる温かな重みはエクトルの腕が私を軽く抱きしめているからだ。動けば彼を起こしてしまうだろうから、暫く傍にある顔を眺めることにする。

 花の騎士と呼ばれる美貌の驚くほど整った顔は完全に気が抜けており、どことなく嬉しそうに口元が緩んでいた。


(……今日も幸せそう。いい夢を見れたのかな)


 人の前では表情を作る癖のある彼も、眠っている時にまでそのようなことはできない。この緩み切った顔を見られるのは妻となった私だけの特権かもしれないな、と思いながら顔にかかる前髪を軽く払った。



「ん……おはよう、シルルさん」



 長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がるとはちみつ色の瞳が現れた。一瞬ぼんやりとしていたその目も私を捉えると柔らかく細められ、寝起きで少し低い声が目覚めの挨拶を口にする。

 このやり取りにも慣れたものだ。夫婦となってからの日常の風景である。結婚してからはどちらかの部屋に泊まって眠るようにしていて、今日は私の部屋にエクトルが来ていた。



「起こしてしまいましたか。おはようございます、エクトルさん」


「今日もシルルさんの方が早かったね。先に起きようと思ってるんだけどなぁ……」


「よく眠れるのはいいことですよ。睡眠は健康の維持に必要不可欠ですから」


「それはそうなんだけどさ。ほら、その……朝一番に奥さんの寝顔を眺めて幸せを嚙みしめてみたいというか?」



 冗談っぽく笑って言われた内容は、まさに先程の私の状況だったので可笑しくなって笑ってしまった。



「……名残惜しいけど起きようか」


「そうですね。今日も一日頑張りましょう」



 エクトルが体を起こすと壁に向かって伸びていた予想線も一緒に起き上がり、天井に向かうようになることでいくつかの感情が分かりやすくなる。今日も怪我や病の色はなく、朝から機嫌がいいようだ。……なお、桃色の線は壁であろうが天井であろうが突き抜けているために変化がよく分からない。


 私も起き上がって寝台から降り、朝の身支度を始めた。顔を洗い、仕事着に着替える。エクトルも一度自分の部屋に戻って着替えを済ませてから、もう一度私の部屋を訪れた。しかし身支度を終えた訳ではなく、髪は降ろされたままでその手には櫛が握られている。



「髪を梳かしますね、座ってください」


「うん、ありがとう」



 鏡台の前の椅子に腰を下ろしたエクトルの後ろに回り、柔らかな金の髪に櫛を通す。予想線越しで見辛いが鏡には堪えきれないように笑うエクトルが映っていて、私もつられて笑った。

 これも夫婦となってからの日課だ。そもそもこの櫛は、私がエクトルの髪を梳かせてもらえないかと願って彼に贈った物である。



「今日の髪型はどうしましょうか」


「んー……じゃあ、高く結んでくれるかい?」


「はい、分かりました」



 エクトルはこれまでずっと、長い髪を片側でゆるく結ぶ髪型だった。それは魔障のせいで上手く右手が動かせないことが原因だったらしいのだが、私が魔法で治したあとも髪型を変えることはなかった。しかし結婚して私が髪を梳くようになってから変わったのである。

 最初は「シルルさんの好きな髪型にしてほしい」だった。私には特に好みというものはなかったし、エクトルなら何でも似合うと思ったのでそう言うと、それから彼は「今日の髪型」をリクエストするようになった、という訳だ。



「できましたよ」


「ありがとう」



 それなりの時間をかけ、後頭部の高い位置で一つに髪をまとめた。こうするとうなじが晒されるのだが、それが妙に色っぽい。

 結婚をしても彼が花の騎士として女性の憧れであることは変わらず、むしろ逆に色気が増したなどと言われていて、“執念の籠った”としか言い表せない贈り物が騎士団に届けられる回数は減るどころか増えたようだった。

 しかし私への嫌がらせのようなものは起きていない。カイオスが私の周囲の人間を徹底的に管理してくれているのだと思う。邪な感情を抱く人間は、宮廷薬師の周囲に近づけないように。


(私がカイオス陛下を主に選んだのは間違いじゃなかった……はず)


 私は臣下としてしっかり守られている。しかしいまだに食事会に呼ばれたりソフィアの個人的なお茶会に呼ばれたりと胃が痛い出来事がない訳でもないため、この選択が正解だったと言い切れないのも事実だった。


(でもまあ……今、私が幸せなのは間違いないか)


 好きなことを仕事にできて、(振り回されてはいるが)貴族に怯えることもなく、何より愛する家族がいるのだ。これ以上の幸福など望みようがない。

 その幸福を壊さないため、私は自分の力を最大限に利用する。今日もエクトルの頭上には幸せそうな色が並んでいて、悪い出来事はなさそうだ。



「今日も特に、悪い色はないですね。いつもどおりの一日になりそうです」


「じゃあいつもどおり、幸せな一日ってことだね。……なんて」



 鏡の向こうで自分の台詞が少し恥ずかしかったのかはにかんでいるエクトルが見えたので、愛おしくてつい、彼のこめかみに唇を寄せた。こういう二人きりの時間かつ私事の時間だと彼はほとんど表情を取り繕わなくなったので、いろんな顔が見られて私としてはとても嬉しい。



「っ……………やっぱりだめ……っ好き……一生添い遂げたい……」



 じわじわと白い肌を赤く染めながら暫く我慢していたエクトルがそっとその目を片手で覆った。口癖だった「結婚したい」は「添い遂げたい」に変わっているけれどこの反応は相変わらずだ。



「そのつもりなので安心してください。さて、そろそろ朝食にしましょう」


「あと五分待って……顔色を戻すから……」



 そうして五分ほど待って、顔の熱が冷めきらないエクトルと共に階段を降り、いつものとおり食事を摂った。食事と共に届けられた依頼書を確認し、必要な材料や工程を頭の中に思い浮かべる。


(薬草の在庫が……まだ大丈夫だけど、今日は収穫しておこうかな)


 その時だった。突然視界に黒い線が飛び出てきて、驚きで固まる。そんな私の様子に気づいたエクトルが「どうかした?」と少し心配そうに声をかけてきた。

 黒い線――それは死の予想線である。これは通常、人の頭上に見えるものだ。それが私の腹部からひょっこりと覗いたということは……。


(お腹の中に子供が……?)


 私たちが結婚して半年が経つので、おかしなことではない。しかしそれでも驚きが大きかった。私は薬の耐性が出来てしまうくらいには昔からあらゆる薬を自分の体で試していたし、体質的には妊娠しにくくなっていると思っていた。両親を亡くした後、再び家族が出来るなんて思っていなかったから、それで構わなかったのだ。

 エクトルと結婚してからは薬を試飲するのもやめたけれど、まさかこんなに早く子供を授かるとは思ってもみなかった。


(死の色は……あの薬草の花粉は妊婦に良くないから、そのせいかな。エクトルさんに収穫を手伝ってもらった方が良さそう)


 そう考えた途端に短く出ていた黒い線は腹の中へと引っ込む。安定期を迎えていない胎児が流れる可能性は低くない。しかし私の目を最大限に利用し、治癒魔法も組み合わせれば無事に育つ可能性はかなり高くなるはずだ。

 私自身が望んでいたことでもあるし、とても喜ばしいことだ。しかしこれを、いつエクトルに伝えるべきだろうか。



「……今日の訓練は早い時間でしたっけ」


「うん。もうしばらくしたらユナンが来ると思う」



 このあと直ぐに騎士の訓練があるなら間違いなく今告げてはならない。何故なら喜んだ彼が浮かれまくって訓練に集中できない可能性が高い。

 訓練の後に伝えようと考えているけれど、すでに半透明の喜びの橙色が天井を突き抜けてどこまで伸びているか分からない。今伝えたら絶対に訓練が訓練にならないと思う。



「そうですか。午後は少し、薬草の収穫を手伝ってもらいたいのですが……」


「もちろん、構わないよ。……シルルさん、なんか嬉しそうじゃない?」


「ああ……そうですね。とても嬉しいです。エクトルさんが訓練から帰ってきたら何があったか話しますよ」


「……そう?」



 理由を知らないエクトルは不思議そうに小首を傾げていたので、そんな彼に私は微笑みで返した。一緒に喜ぶのはもう少しあとだ。

 私の表情から悪いことではないと思っていてもその理由の想像が出来ないらしいエクトルを訓練に送りだし、代わりにやってきたユナンに護衛を引き継いでもらう。真面目に引き締まった顔のユナンの耳に、片方だけ青い色の石が飾られていた。


(なるほど、上手く行ってるみたい)


 青い瞳の女性騎士を思い出していると、私の視線に気づいたユナンが気恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをしている。短く伸びる薔薇色の線を見なくても分かりやすい反応だ。しかしからかう程意地悪くもないので、微笑ましい視線を送るに留めておいた。

 私たちも、私たちの周囲もゆっくりと変化をしていく。今の私はその中に居て、未来の幸福を疑わずにいられた。


(こんな穏やかで幸せな暮らしができるなんて、思ってなかったな)


 そして戻ってきたエクトルに妊娠を告げると、彼は予想通り大喜びをして、予想以上にその喜びが持続したために翌日の訓練がまともにできなかったようだった。



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