第59話




 その日、私はいつもの通りソフィアの部屋を訪れて、彼女の頭上にある二つの長い色を見つけて歩みを止めた。ソフィアは感情を抑制するのに長けた人であり、その感情の色が伸びることはほとんどない。


(怪我と半透明の橙色喜び……?)


 妙な色の組み合わせで、それが何を示すのか考え込む。部屋に入った途端動かなくなってしまった私をソフィアは不思議そうに見つめており、護衛としてついてきているエクトルも小声で「どうしたの?」と話しかけてくる。

 王太子妃である彼女が大怪我をするならそれは一大事だ。しかし感情を抑制する彼女が長時間喜び続けるような出来事も今日起きる。そして、悲しむような未来の色はない。死の予想線もない。最終的に私が出した答えは――。



「ソフィア妃殿下、本日は一日中安静になさってください。主治医……いえ、助産婦を傍に控えさせておいた方がよいかもしれません」


「まあ」



 時期的にはそろそろであったし、おそらくそれが正解だと思う。ソフィアはおそらく今日産気づき、無事に子供を産むのだ。死の予想線が伸びないということは安産になるのだろう。

 ソフィアの護衛騎士であるグレイが目を見開いて私を見ている。ただ普通に驚いているだけで、不審がったり私の言葉を疑ったりする色はその頭上に見当たらなかった。以前はたいそう警戒されていたものだが最近仲良くしているらしいユナンのおかげだろうか。……ほんのりと淡く伸びる恋の色がもっと長くなればいいな、とは思っている。



「では今日の予定はすべて取りやめるわ。けれど、そうね。せめてシルルさんとお茶がしたいわ」



 断れるはずもない。出産に臨む前で不安な気持ちも――かなり短いが見えるので、私は彼女の気がまぎれるならといつもより長めの雑談に付き合った。

 カイオスからの依頼はソフィアのおなかの子が無事に生まれるまで、彼女が毒を盛られたり危険な目にあったりしないように助言することだった。子供が生まれたらこうして毎朝顔を見に来ることはなくなるだろう。



「毎朝貴女の顔が見られなくなるのは少し寂しいわ。せめて、シルルさんの式にはたくさんお花を贈らせていただくわね」


「え……お、恐れ多いほどありがたき幸せで、す」



 ソフィアも同じことを考えていたようだが唐突な発言に面食らってしまった。無事にカイオスとソフィアの子が生まれたら私たちも式の日取りを決めることになってはいるが、彼女はそれを知っていたのだろうか。

 しかし王太子妃に花を贈られる結婚式なんて、あまりにも身に余る。かといって断るのは失礼だ。ただの宮廷薬師がここまで王族に近くてよいのだろうか。目立ちすぎて知らない所で恨みを買っていないかとちょっと心配になった。


 ソフィアの部屋を後にして薬師塔へと戻る。道中隣に並んだエクトルはとても機嫌がよさそうだった。



「嬉しそうですね」


「うん。カイオスの子がやっと生まれるんだなぁって思ったら嬉しくてね。王都でもお祝いのお祭りが開かれると思うよ」



 カイオスの子供が無事に生まれると王太子であったカイオスは正式な王となり、現在の王は引退することになる。王都では新しい王族の子と新しい王の誕生を祝って一週間にわたる盛大な祭りが催されるらしい。

 そういえば私は国王には会ったことがない。……いや、宮廷薬師であるとはいえそもそも平民である私が王族に直接会う方がおかしいのだが。しかも頻繁に。



「無事に生まれるかな」


「私が見た限りでは危険はなさそうでしたよ」


「そっか。それはよかった」



 そのあとはいつもの通り、注文の薬を作り午後は趣味で新しい薬の研究をして過ごす。そろそろ生まれるだろうかと城の方が気になってあまり自分の趣味の研究には身が入らなかった。

 なので新薬研究は早々に諦め、産後の体にいい栄養剤を調合する。要らないといわれるかもしれないが私がソフィアの役に立てるとしたらこれくらいだろう。


 どことなく落ち着かない気持ちのまま夕食を終えた頃のこと。エクトルが何かを気にするように自室へと向かい、そして笑顔で戻ってきた。



「無事に生まれたってさ。男の子だから、王子様だね」


「よかった。……おめでたいですね。でも、どうやって知らせが?」


「俺の部屋には鳥が来るんだ」



 どうやらエクトルの部屋は伝書鳥が行き来するようになっていて、必要な時はそれで薬師塔を離れることなく連絡を取っているらしい。鳥は城のあちこちに放されており、騎士が持っている笛を吹くと飛んできて、手紙を括ったら城の伝書部署に戻るようにしつけられているのだとか。時々どうやって連絡を取っているのか不思議だったのだけれど謎が解けた。



「私の仕事は一段落です。ようやくまとまった時間が取れそうですね。仕事を前倒しにして結婚薬を作りましょう」



 これがなければ結婚はできない、というか耳に穴が開けられない。この薬を作る時間がなかったから結婚を引き延ばしていたようなものだ。衣装はすでに出来上がっているという連絡を貰っているし、薬を作ったら式場に連絡をして日取りを決めることになるだろう。招待する人間もエクトルの家族くらいのものなので、都合がつけば結構早く式を挙げられるかもしれない。

 ドバック一家も呼びたいところだが――貴族と一緒になるので彼らの心の負担を考えてやめた。私はこれでも随分慣れた方だが、ジャン達はそうもいかないだろう。あとで絵葉書を送ろうと思う。



「どうしよう……今から期待で心臓がうるさいや」


「まだ早いですよ、エクトルさん。落ち着いてください」



 正確な予定も立っていないというのに今から心臓を酷使していては体に負担である。彼の心拍数が大変なことになりやすいというのは私も知っているので、それをなだめるべく落ち着く効果のあるお茶を淹れた。エクトルをテーブルにつかせ、彼にお茶を差し出して私も向かい側に腰を下ろす。

 ゆっくりと温かいお茶を飲んだエクトルは小さく息を吐くと何かを考え出したようで、無言でカップの淵を撫でていた。



「ねぇシルルさん。……お祭り、一緒に行かない?」



 唐突なお誘いに少し驚いた。王都ではこれから連日お祝いの祭りが催されると言っていたのでそれのことだろう。エクトルが人で賑わう場所に行きたがるのはかなり珍しい。



逢引デートのお誘いですか?」


「うん。……恋人として出かけるのは最後になるだろうから」


「そうですね。……二人で行きましょう」



 恥じらいの色を見せながらそのようなことを言われて断れるはずもない。笑って了承するとパッと明るい顔をされた。橙色の伸びは出産の知らせ以降天井を突き抜けていて分からないが喜んでいるのは明らかだ。



「……俺、幸せだなぁ」



 ぽつりと零れた言葉は、本当に柔らかい声で響く。すっかり力の抜けた顔で笑っているエクトルを見ていると愛しさが込み上げてきた。これは私にしか見せない表情だ。心の底から信頼されているし、気を許されているのだろう。

 私への愛情に振り回されて緊張というか落ち着かない様子でいることも多いけれど、こうして安心しきった顔を見せてくれることもある。心の傷を多く抱えたエクトルの薬になりたいと思った私の願いが叶えられている証だ。



「それは、良かったです」


「うん。シルルさんを好きになってから先のことが毎日楽しみなんだ。君に会う前はそんなことなかったからさ」



 嬉しそうに笑う彼の頭上に悪感情の色はない。過去のことを話すと苦痛や嫌悪の感情がほんのりと顔を覗かせることが多いエクトルだが、今はそんな感情を抱くことなく思い出せるようだ。少しでも心の傷を癒すことは出来たのだろうか。……そうだとすれば嬉しい。



「だから幸せだなって最近よく思う。……シルルさんもそうだといいな、なんて思ったり」



 ちらりと窺うように見てくるはちみつ色に笑顔を返して立ち上がった。私の行動が予想外だったのか少し驚いている様子だが構わない。そのままエクトルの背後に回って思いっきり抱きしめた。

 本当は隣に座ろうかと思ったのだけれど、座っているエクトルが抱きしめるのにちょうどいい高さだったのである。驚かせたようで薄黄色の線が飛び出していったが嫌がられている訳ではないので問題ないだろう。



「し……シルルさん……?」


「私は幸せですよ。貴方に会えてよかったと思わない日はありません。だからこそ、私が貴方を幸せにしたいと願うんです。……エクトルさんが幸せだと思っていてくれてよかった」



 エクトルに出会わなければ私はきっと、誰も信じる愛することはなかった。私に人を愛する喜びを教えてくれたのは彼で、私はこの出会いに感謝している。これから先もこの出会いを後悔することはないだろう。

 だからこそ、彼にも後悔などさせない。私は最大限、彼を幸福に導く努力をする。



「み、耳元でささやかれるのは、ちょっと……っ」



 後ろから抱きしめて肩の上に頭を乗せる恰好になっているので丁度ささやくような状態になっていたのだが、どうやらエクトルの弱点であったらしい。この格好なら両手で顔を覆う邪魔にはならないと考えたし、実際今も邪魔にはなっていない様だが繊細なエクトルの耳は真っ赤に染まってしまっている。



「喋らない方がいいですか?」


「んんん……君の声が近いのは、嬉しいから……でも色々くるっていうか、その……っ」



 なるほど、エクトルはどうやら耳が弱いらしい。普段は彼に囁けるような身長差ではないので知らなかった。

 私は誰よりもエクトルの傍に居て彼を見ているつもりだけれどそれでもまだ知らないことはたくさんあるのだろう。そしてそれはエクトルも同じだ。もうすぐ夫婦になる。しかしそれはまた一つの始まりであって、これから先も私たちは互いを知って、もっと互いを好きになれるはずだ。


(この先の日々を楽しみだと思えるのは幸せなこと、か)


 私も二人で生きる未来に期待している。それはたしかに、幸福なことだろう。



「幸せですね、エクトルさん」


「そう、ですね゛……ッ」



 わざと耳元に唇を寄せて囁いてみたのだが、両手で顔を覆っているせいだけではなく声がくぐもって裏返りそうになっていたので、しばらくは黙って彼が落ち着くのを待つことにした。


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