第58話



 本日は結婚式の衣装の仮縫いをするためにアルデルデ家へと呼び出されている。馬車に揺られながら前回よりは緊張も少しだけ解れている気はした。

 エクトルの両親がどのような人物か分かったからだろう。この二人も幼い頃から私が想像していた貴族とはまた随分と違う。騎士として爵位を得たブランドンはともかくイリーナは伯爵家出身の生粋の貴族らしいのだが、貴族婦人というよりも悪戯好き少女のようなおちゃめな人で、勢いに押されてしまうものの高圧的でないせいか身が竦むような思いはしていない。



「服を一から作って貰うのは初めてですが……大変なんですね」



 まずは採寸が必要だと薬師塔にやってきた職人によって体の隅々まで測られた。仕事であまり薬師塔を離れられない私のためにイリーナが派遣した人材である。その面子が初老の男性と腰が曲がる程の老女の二人組であったことに彼女の配慮を感じた。この組み合わせなら余計な心配は必要ない。男性がエクトルにつき、老女が私について素早く仕事を済ませて帰っていった。

 その採寸の数字を元に作られた衣装がちゃんと体に合っているか、本縫いをする前に確かめるために仮縫いという作業があるらしい。服は既製品を買うばかりだったので慣れない工程に戸惑うことが多い。



「そうだね。俺も服は既製品でいいからあんまり作ったことないけど……母は楽しいみたいだよ」


「それは、なんとなく分かります。他人の衣装でもあれだけの熱量あるお手紙を書かれる方ですしね」



 私やエクトルの衣装について何度か手紙のやり取りをしていたのだが、その文章に篭る熱は手紙の分厚さや文体によく現れていた。他人の衣装でこれだけ張り切るのだから、よっぽど服が好きなのだろう。

 私には分からない分野だけれど、それほど打ち込めて楽しめる趣味があるのは良い事だ。……それについていけるかどうかは別の話ではあるが。



「母上はシルルさんを気に入ったみたいだし、今日は……勢いがあって大変だと思う。あの勢いを止められるのは父上だけでさ。女性しか入れない場では誰も止められないと思うんだ」


「…………がんばります」



 申し訳なさそうに罪悪感などを示す深緑の線が小さく伸びるエクトルの言葉通り、その日のイリーナの勢いはとてつもなかった。

 まず彼女は玄関の外まで出迎えに来ていたのである。貴族婦人がやることではないのではないかと思ったが、あまりにも楽しそうなイリーナの予想線の並びと傍に控えている侍女の顔に出ない心労の色に察するものがあった。とりあえず笑顔で挨拶を交わし余計なことを言わないように努める。



「さあシルルさん、さっそく衣装を合わせましょうね。……エクトルはあちらの部屋に。気になっても覗いてはだめよ」


「そんなことしないよ。……せっかくなら当日に見たい」



 屋敷に入って早々にそれぞれ別室へと案内された。ここは彼の実家なので離れても特に心配はない。むしろ一人になって少し心細いのは私の方である。別の部屋へと歩いていくエクトルの背中を眺めていると、彼もちらりと振り返ったので目が合った。うさぎが跳ねるようにぴょんと伸びた橙色と、笑顔で軽く手を振る仕草に笑いを堪えつつ見送っているとイリーナが楽しそうに「まあ」と声を上げたのですぐに視線を切る。……イリーナの興味津々で楽しくて仕方ないといった様子を見ているとなんだか恥ずかしい。



「二人が仲睦まじくてとても嬉しいわ」


「ええと……はい」



 その言葉に嘘はない。イリーナは私とエクトルの関係を純粋に喜んでくれている。先日、廊下ですれ違った使用人の女性に否定されたことを思い出し、受け入れてもらえるのはやはり嬉しいものだと感じる。

 なにより彼女はエクトルの家族なのだ。エクトルをずっと大事に思ってきた親である。そんな相手が自分の存在を喜んでくれるというのは特別なことであるように思う。

 私もエクトルの大事な家族とは良い関係を築きたいし、そのための努力はするつもりだ。衣装作りに熱意を燃やすイリーナにしっかり付き合おう――と決意したことを後悔しそうになった。

 通された部屋には針子と思しき女性たちが控えており、その誰もが楽しそうに黄色楽しさの線を伸ばしているのが印象的だった。……イリーナの同類なのだろうか。



「さあ、ではさっそく始めましょう」


「ではこちらへ。お召し変えのお手伝いをさせていただきますわ」


「……よろしくお願いします」



 人に服を脱がされるのも着せられるのも慣れていない。手伝ってもらわなければ着られない服など普段は身に付ける機会がないのだから。その機会があったのは商人に捕らえられていた時で、あれは毎回手伝われていたな、なんて考えながら着替えるだけで精神的にとても疲れた。


(……綺麗な衣装。見た時は服に負けそうって思ったけど着てみたらしっくりくる)


 衣装はまだしつけの糸がたくさんついていたけれどデザインはおおよそ出来上がっていた。白の布に金の糸で描かれる花の刺繍の美しさがまず目を引くが、他にも布に重ねられた薄いレースに私好みな植物デザインの刺繍が施されているし、角度や距離によって見え方が変わるようだ。服に詳しくなくてもこだわりと技術と熱意がとてつもなく籠っているということだけは分かる。

 そしてこの衣装が派手過ぎることもない。服が完成した後も私が化粧を施せば馴染みそうだ。本当に私に合わせて作られていると感じた。



「まあ、素敵。完成が楽しみね。でもそうね……この辺りにもう少し飾りが欲しいわ」


「そうですね、このデザインの花はどうでしょう」


「ええ、いいわね。シルルさんはどう思って?」



 実際に身に付けた後は体形に合わせて細かく調整、小物や装飾を加える相談をし、髪型や髪飾りも決めていく。私はイリーナのデザインの改案には全て頷き、好みなどいくつかの質問に答えるだけだった。こういったことは詳しくないのでイリーナのセンスに任せた方がいいだろう。……流れに逆らわぬようにしていたのに、それでも元の服に戻れたのは二時間以上も後のことだった。


(……疲れた……)


 まるで三日三晩不眠のまま薬を作り続けたあとのような疲労感だ。顔は引き締めているつもりだったけれど疲れを隠せていなかったのか、イリーナが鋭いのか。しばらく休むように言われたため、ありがたくその気遣いを受け取った。

 別室に休憩の用意が出来ているとのことで使用人に案内された部屋に入る。軽食やお菓子、お茶が用意されていて、先に衣装の打ち合わせが終わったらしいエクトルが既にそこで休憩を取っていた。



「シルルさんお疲れ様。……ほんとに疲れた顔してるね、お茶淹れるから座ってゆっくりして」


「……ありがとうございます」



 ソファに腰を下ろして背もたれに体重を預けて息を吐いた。自分に合わせて服を作ると言うのはこんなに大変なものなのか、貴族の女性はよくやるものだと感心する。

 エクトルが注いでくれたお茶を一口飲んで喉が渇いていたことに気づく。そのままカップの中身を飲み干した。そろそろ温かいお茶が恋しい時期だが、今は常温に冷ましてあるのがとてもありがたい。



「もう一杯どう?」


「お願いします」



 空になったカップにもう一度ポットからお茶を注いだ後、エクトルは私の隣に腰を下ろした。互いの腕がギリギリ当たらない、しかし温もりを感じられるような位置。これが私達の落ち着く距離である。

 寄り掛かりたい気持ちもあるけれどここは彼の実家だ。さすがに他人の家でそこまで甘える気にはなれない。



「母上の相手は大変だったでしょう?」


「まあ、慣れない事なので疲れはしましたが……嫌ではないですよ」



 あれはどうだろう、これはどうだろう、こんなものも素敵ではないか。そんな話で盛り上がるイリーナと針子の女性たちに私は相槌を打つくらいしかできなかったけれど決して嫌いな空間ではなかった。彼女たちは本気で楽しみながら、本気で私のことを考えてくれていたのだ。嫌であるはずがない。



「きっと、とても素敵な衣装になります。楽しみですね」


「うん。楽しみだ」



 天井の高いこの家でも今にも突き抜けそうなほど伸びた橙色の喜びが見える。そういえばエクトルは「せっかくなら当日に見たい」と言っていた。私の衣装を楽しみにしてくれているらしい。

 その気持ちはよく分かる。私もまだエクトルの衣装はデザイン画すら見ていないので、どのような装いになるか知らない。彼ならどんな服でも着こなすのだろうけれど、きっと特別美しいに違いないし、それを目にする時が楽しみだ。



「エクトルさんの衣装はどうでしたか?」


「……俺、着飾るのって好きじゃなくてさ。実は君の店に通ってた時の恰好が一番落ち着くんだよね」



 じわりと滲むように伸びたのは久々に見る濃紺嫌悪の線。彼が何を考えたかは言われなくても分かる。女性の視線を集めるであろう行為を出来るだけ避けたいのだろう。薄汚れたマントで顔を隠せば不審者には関わりたくないと、人々は意図的に視線を逸らすようになる。エクトルにとってはそれがほっと一息吐けるような心地だったということだ。

 そんな彼の横顔を見つめていたら目が合った。すると途端に嫌悪の色は消えて、代わりに羞恥の色がゆっくり伸びていく。



「でもシルルさんの前では綺麗な恰好でいたくなるし、シルルさんにだけは見て欲しいっていうか……俺のもいい衣装だと思うから楽しみにしててくれると嬉しいなぁ、なんて」



 見られることを嫌う人が、私だけにそれを許してくれる。それはとても特別なことで私とエクトルの見えない心の距離が近いという証に他ならない。彼がそう思ってくれることが嬉しくて、愛おしい。

 私とエクトルの間に下ろされていた彼の手に己の手を重ね、指を絡める。ここが薬師塔であればもう少し積極的な愛情表現をしたかったところだ。



「楽しみにしています。私も愛しい人の色々な表情や姿を見られるのは嬉しいので。……これからも色々なエクトルさんを見せてくださいね」



 好きな人ならどんな姿でも見てみたい。そんな惚気話は薬屋で聞かされたことがあったがまさか自分がそのようなことを言う立場になるとは思ってもみなかった。けれどたしかに、私はまだ見たことのないエクトルの顔を見てみたいし、結婚式の衣装もとても楽しみにしている。



「……どうぞ好きなだけ見てください……」



 そう言いながら私が握っていない方の手で顔を押さえている。赤くなった耳は見えてもその表情は殆ど窺い知ることはできない。見てくださいと言いながら隠してしまっているのはどういう訳だろうか。



「それでは見えませんが……」


「んんちょっと待って、今はちょっと……顔引き締めるから」


「……私、こういう時のエクトルさんの表情は愛おしいと思いましたし、無理に引き締めなくても大丈夫ですよ」



 以前、どんな顔をしているか自分でも分からないと言う彼に少しだけ見せてもらったのだが、胸がぎゅっと詰まるような愛おしい表情をしていたと記憶している。顔を隠している時はそういう表情になっているのだなと思っているし、私としては好きな表情なのだけれど。



「顔が引き締まらなくなるからそれ以上は勘弁してシルルさんっ……母上に見られたらどんな反応をされるか……」



 そういえばここはエクトルの実家で、彼の両親や義姉が敷地内にいるのだ。とはいっても義姉の方はまだ出産したばかりで体が回復しておらず、客人を迎えられるほど元気ではないらしく顔を合わせてはいない。ひとまず産後の体に必要な栄養の詰まった薬というか栄養剤をよければどうぞと渡しておいた。

 問題は私達の仲の良さを目の当たりにしたら大喜びしてはしゃぎそうなイリーナの方である。ただ彼女は余計なことは言わないだろう。「まあ」と嬉しそうな声を上げて、微笑まし気な視線を送り、楽しさと喜びの線を長くして、温かく見守ってくるだけではないかとは思うが――――その視線がなんとも耐え難く恥ずかしいのだ。



「…………そうですね」


「……でしょう。だから何も言わないで……俺、君の言葉に弱いから」



 それはよく知っている。私の言葉はエクトルの心にしっかりと届いているのだと自覚しているからこそ、私は言葉を尽くすと決めているのだから。

 けれど今ばかりは、愛情を声で届けるのを自制しよう。その代わりに繋いだ手の爪の先を撫でることで私の感じている愛しさを伝えようとしていたら隣から呻き声が聞こえてきた。



「……言葉だけじゃないみたい、です……それもなんか内臓にぐッとくるから……っ」


「分かりました。では、続きは帰ってからにしますね」


「…………続きがあるの?」



 顔を覆う指の間からはちみつ色が覗いている。熱を帯びてとろけているような、見ているだけで甘みを感じるような。頭上を見れば茜色があるのかもしれないが、彼のその瞳から目を離せなくて確認できない。



「すぐにでも続きがしたいですけど、ここはエクトルさんのご実家ですからいけませんね」


「……そうだった。まずは落ち着こうと……思います」



 手を繋いだままだったせいなのか、彼が己の顔から手を離せるくらい落ち着くまでにはかなりの時間を要した。この状態で置いていけないとエクトルが落ち着くまで待ったがそれまで他の誰かが様子を見に来ることもなく、それを意外に思いつつ長めの休憩を終えて仮縫いをした部屋へ戻るとイリーナが一人でお茶をしていた。

 どうやら針子たちはもう撤収しているようだ。広げられていた道具や衣装は跡形もなくなっている。後片付けまですっかり終わってしまったらしい。遅くなってしまったことを詫びなければと焦っていたらイリーナに優しく微笑まれた。



「あら……早かったのね。もっと二人でゆっくり過ごして構わなかったのに。でもせっかくだから、わたくしのお茶に付き合ってくださるかしら? シルルさんのお話を聞きたいわ」


「……はい」



 彼女の言葉と色で意図的に二人きりの時間を作られていたことに気づき、なんともいえない羞恥心に襲われることになった。婚約者の母親に恋人らしい時間をいくらでも過ごしてよかったのよ、と暗に言われているのだ。このむず痒さは一体どうすればいいのだろうか。顔も熱い気がする。

 その後の菓子の味も会話の内容もよく覚えていない。……将来の義母との関係は悪くはないとは思うが、難しい。


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