第57話【幕間】息子の婚約者



 午後のティータイムをテラスで過ごしながらイリーナは物思いに耽っていた。内容は主に、先日訪れた息子とその婚約者のことである。

 息子エクトルが結婚したいという娘を連れてきた。白い髪に赤い瞳の珍しい色彩を持ったお嬢さん。貴族の令嬢にはない不思議な雰囲気を纏っていて、平民だからと貴族相手に気後れすることなく真っ直ぐに目を見つめてくる。その赤い瞳には不思議な力が籠っているように思えて、まるで心まで見透かされているような気さえした。

 そして何より、エクトルの隣に並ぶととても馴染んでいたのが印象的だった。それはつまり互いに気を許して、共に居ることが心地よいと感じる関係性を築けている証に他ならない。エクトルが女性と並んでそんな空気を醸し出していることに驚き、喜び、安心した。


(わたくしに似て苦労の多い子だもの。……あんなに幸せそうな顔を見たのは初めて)


 頬を赤く染め、堪えきれぬ幸福を吐息として吐き出す姿を見る日が来ようとは想像もできなかった。エクトルの性格を考えればおそらく、その反応はまだ抑えている方だろう。二人きりの時はまた違う顔を見せているに違いないと母親の勘が告げている。……それはとても喜ばしい。

 異性に想われることを、異性を想うことを幸福に感じられる。それが難しくなるような経験をエクトルはしてきたはずだ。家族に心配も迷惑も掛けまいと笑顔で誤魔化して何も言わないけれど、何があったか分からなくても子供が傷ついていることは伝わってくる。


(いつからか……わたくしが触れることにすら怯えを見せていたもの)


 せめて慰められれば、親として安らぎを与えられれば。そう思って伸ばした手にほんの少し揺らいだ瞳を見て、親として撫でてやることさえできなくなった。それほど傷ついているのに頑なに口を閉ざし笑うから、何をしてあげられるのかも分からなくなってしまって。

 けれど、シルルに触れることに怯えはないように見えた。彼女とは平然と――いや、むしろ喜んで腕を組めるようだ。


(エクトルの女性不信が消えた訳ではないと思うけれど……少なくとも、シルルさんのことは本当に信じられるのね。本当にいい縁に恵まれたこと)


 イリーナが年頃の娘であった時はあらゆる貴族に追いかけられていた。睡眠薬を盛られたことも少なくはない。だから決して一人にならないよう常に気を張って生活し、いつも疲れていたし、すべての男性は敵であるかのように感じていた。……ブランドンと出会って安らぎを知るまでは。

 だからエクトルの気持ちはよく理解できると思っている。結婚したい相手がいるのだと彼から手紙が届いた時点でイリーナは全力でこの婚姻を応援すると決めていた。そして実際にシルルと会って、更にその気持ちが強まった。


(とても正直で、誠実な子。安易に未来を語らないところがとても素敵)


 かならず幸せにする。君を幸せにすると約束する。だから結婚しよう。そんな言葉はいくらでも聞いてきた。未来の幸せなんて不確定なものを軽々しく誓われても信じられるはずがない。先に何が起こるのか、人にはそれを知る術がないのだから。どんな不幸な出来事も起こさないなんて、そんな奇跡のような力を人間は持っていないと知っている。

 


『エクトルさんの幸せな未来を確約することはできません。けれど、私がエクトルさんを幸せにするための努力を怠ることはない、というお約束はできます』



 躊躇いのない赤い瞳を向けられて、イリーナはそれを信用に値する言葉だと思った。彼女は本当にエクトルを幸せにしようと努力し続けてくれるだろう。そして、そんな彼女にエクトルは――きっと、一生、その心を温め続けられるのだろう。

 どんな未来が訪れて、それがどのような困難であったとしてもあの二人なら互いの手を離しはしない。そう思えたのだからあとは温かく見守るだけだ。他にはそう、新しい娘に自分ができることをしてあげたいくらいで。


(シルルさんは髪が白いからどんな色でも似合うわ。ドレス……は着ないでしょうから、他のお洋服ならいいかしら。さっそくデザイナーを呼ばなくては!)


 そうとなればさっそくデザイナーを呼び出す手紙を書こう。貴婦人としては侍女に手紙を出せるよう用意させるのが正しいとは分かっていても、このテラスで優雅にお茶を飲みながら侍女が手紙のセットを持ってくるのを待つ――なんて気分ではなかった。早く行動に移したい。

 何の前触れもなく立ち上がったイリーナに、傍で控えていた侍女が戸惑っているのが見えた。



「奥様、いかがなさいましたか?」


「デザイナーに招待のお手紙を書きたいわ」


「……御自室ですぐに手紙を書けるようご用意致します」



 初めのうちは「そのような雑事は私どもにお任せください。奥様はこちらでごゆるりとお待ちください」と言っていた侍女たちも今ではイリーナの性格を深く理解している。すぐに駆けだしていったので、自室に戻る頃には椅子に座るだけで手紙が書ける用意がされているだろう。

 走り出したい気持ちを抑え、貴婦人らしくしかし素早く廊下を歩くイリーナを呼び止めたのは夫であるブランドンであった。



「イリーナ、急いでどこに行くのかな。シルル殿への贈り物関連なら少し待ってくれ」


「まあ、貴方。……何故分かったのかしら」


「君がはしゃいでいるからね。分かるよ」



 穏やかに微笑むブランドンはイリーナにとって最大の理解者であり、最愛の夫である。そんな夫に待つように言われたなら足を止めるしかない。



「シルルさんが可愛らしいお嬢さんだったから、お洋服を贈りたくなってしまって……」


「うん。君の気持ちは分かるよ。でもあの子は服よりも薬になるような物の方が喜ぶだろう?」



 それはイリーナもよく分かっている。というより、シルルがとても分かりやすかった。ブランドン以外に通じなかったことがない泣き落としで「おかあさまと呼んで」と頼んでみても困ったような顔をしていたのに、珍しい薬の材料になるというものを渡したら赤い目を輝かせて「おかあさま」と素直に呼んでくれるのだ。

 珍しい薬の材料がどれほどの価値があるのか、イリーナには判断が出来ずに本当に喜ぶのかと心配していたくらいだったのに。しかしそう何度も上手く喜んでもらえる物を手に入れられるとは限らない。ならば自分の得意な分野で喜ばせてあげたかったのだが相手の好みに合わないならばそれも難しい。ほんの少し肩を落としたイリーナに、ブランドンが見慣れた便せんを差し出した。



「エクトルからシルル殿の結婚衣装についての相談だよ。これなら君が力になってあげられるんじゃないかな」


「まあ、ブランドン……!」



 さすがこの人は自分のことをよく分かっている。相手に望まれない物を贈っても自己満足でしかない。それを勢いのままやってしまいそうなイリーナを諫めた上で、このような話を持ってくるのだから喜ばないはずがないのである。



「式が楽しみだね。……しかし、結婚してもシルル殿はあまり遊びに来てはくれないかな」



 ほんのりと眉尻を下げた顔をして残念そうなブランドンの様子に小さく笑う。イリーナは勿論、彼だって息子が連れてきた婚約者を気に入っているのだ。

 挨拶に来た二人が帰ったその夜、鼻歌交じりにワインを傾けていた姿を思い出す。普段から酒を嗜むタイプではないのに珍しい。そう思って声を掛ければ、嬉しそうに「エクトルがあんな顔を出来るようになっていてよかった。シルル殿のおかげだね」と笑って言った。


(深くは語らなかったけれど……ブランドンもきっと、わたくしと同じ気持ちだわ)

 

 笑顔で感情を隠す癖のある息子。家族にすら見せなくなっていたものを、見せられる――もしくは、隠せないような相手が出来た。

 感情は溜め込めば心の中でどろりと濁り淀んでいく。けれどエクトルの内側にこもるそれを吐き出させることはイリーナにも、ブランドンにも、ドルトンにも出来なかった。知っていても何もできないというのは歯がゆく、己の力の至らぬことを悔しく思うしかない。

 しかしシルルはエクトルの心を掻き乱し、淀まないよう新鮮な感情を与えることができるのだろう。そんな相手を親である二人が歓迎しないはずがない。喜びと、感謝。それは言葉では伝えきれないからこそ、彼女にできることをしてあげたい。イリーナだけでなくブランドンもそうなのだろう。



「あら……シルルさんならお誘いすれば来てくださるのではなくて?」


「断れないからだろう? 無理強いはしたくない。……気軽に遊びに来たくなるような家はどうやって作ったらいいんだろうね」



 現在は宮廷薬師として城勤めであるものの元々は街の薬屋であったというシルル。彼女にとって貴族は縁遠いものだったろう。出世欲がないことは貴族を前にした時の態度で分かる。彼女は積極的に貴族と関わるつもりがない。

 だからこそ、シルルが望んでこの家を訪れる理由がない。彼女にとって魅力的な、何度でも足を運びたくなるような場所とはどのようなものかを考える。



「……我が家でも薬草の研究をしてみるのはいかが? この国にはない薬草の研究だったら喜んで協力してくれるのではないかしら」



 気軽に遊びに来る場所ではないなら彼女の趣味に沿った仕事の依頼にすればいい。趣味と実益を兼ねた提案であれば喜んでくれる可能性も高い。貴族の伝手と資金力でしかできないような研究であれば彼女個人で手を出せないものも扱えるだろう。良い薬が出来ればそれは国益にも繋がる。



「それはいい考えだね。新しい事業にもなりそうだ。ひとまず……結婚式が終わって落ち着いたら打診してみようか。今は忙しいだろうから」


「ええ、そうね。さっそくデザイナーを呼ばなくては!」


「……程々にね」



 普段使いの服ではなく、豪華なドレスのデザインを得意とするデザイナーを脳内に数人思い浮かべた。その全員に声をかけてデザイン案を出してもらうことにしよう。シルルの好みをイリーナはまだ知らない。しかしどんなものが似合うかは直接会ったのだから分かる。いくつも案を見せて好きなものを選んでもらえばいい。

 ブランドンは微笑みながらイリーナを見送った。もう誰にも止められない情熱を抱いていることを理解してくれているのである。


(腕のいいお針子も必要ね。とても楽しくなってきたわ)


 ドルトンの結婚が決まった時も花嫁であるミルリアの衣装について張り切ってあれこれと準備をした。ミルリアはすらりと背が高かったので、小柄なシルルとは正反対だ。つまり全く違うデザインの衣装を楽しむ、いや考えることができる。


 その熱量のままデザイナーたちを巻き込んだ結果、大量のデザイン画を描き起こしかなり厚みある手紙をエクトルへ送ってしまった。さすがにやりすぎてしまったかもしれない、と落ち着いて少し反省していた頃にエクトルから返信が来た。

 ドレスのデザイン決定と、それから。互いの衣装に互いの色のあしらいを入れたい、という内容で。



「まあ!」



 白を基調とした衣装に、それぞれの色――エクトルはシルルの瞳である赤色を、シルルはエクトルの色である金や濃い黄色で何かしらの装飾をしたいという。仲睦まじさがそれだけで伝わる。これはまた、デザイナーを呼んで色々と相談するべきではないだろうか。



「イリーナ、少し落ち着こう。ほら息を吸って、吐いて。私の目を見て」



 先に手紙を読んで内容を知っていたらしいブランドンはイリーナの興奮を予想していたのだろう。そう言いながらそっと手を取られた。しかし息子夫婦の可愛らしいお願いに昂った気持ちは中々収まらず、困ったように、しかしどこか幸せそうに微笑むブランドンと長時間見つめ合うことになった。


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