第56話



 エクトルは母であるイリーナの手紙と共に届いた資料を前に思い悩んでいた。


(実際にシルルさんに会ったからだね。デザインの方向性ははっきりしてる……けど……悩む……)


 分厚い資料、すなわち結婚衣装のデザイン画集である。スカート部分がふわりと広がる形なのは決まっているようで、問題は上半身のデザインであるらしい。首元の詰まったもの、逆に肩が大きく開いたもの。施される刺繍のデザインなど細部に至るまであらゆる提案がなされている。そのせいで片手で持てるギリギリの分厚さとなっていた。


(むしろ全部着てほしい。……いやでも、他の人間も見るし露出は控えめが……俺も見たことないのに他の奴が見るのはちょっと)


 婚約者となってからも大変清いお付き合いをしているため、エクトルはシルルの首元や手首くらいまでしか露出された部分を見たことがない。彼女に普段より肌を多く見せる服など着られたらどぎまぎして仕方ないというのは想像がつくし、何より他の人間に見せたくないという独占欲が刺激されてしまう。


(……でもこういうのってやっぱり本人の望みが一番だからね。俺の望みを押し付けるんじゃなくて、シルルさんの好みをちゃんと訊こう)


 そういう訳でエクトルはその資料を持ってシルルに尋ねることにした。毎日一日の仕事終わり、夕食後に二人でのんびりと過ごすのでその時間を使う。一日の中でエクトルはこの時間がもっとも好きかもしれなかった。……いや、朝に部屋から出てきたシルルと挨拶を交わす瞬間も捨てがたい。



「結婚式の衣装、ですか?」


「うん。母からデザイン画が大量に送られてきたから相談しようと思って」


「別にこだわりはないのでなんでもいいのですが」



 瞬間、エクトルはほんの少しだけ動揺した。自分だけがはしゃぎ、はりきってしまっているのかとそのような気持ちになってしまったのだ。もちろん表面上は笑顔のままなのだが、それを見逃さないのが人の感情を見ることができるシルルという人である。



「あ……ええと、式や衣装をどうでもいいと思っている訳ではありませんよ」



 普段あまり表情豊かではない彼女がほんの少し慌てたように、ほんの少しだけ早口に否定してくれてほっとした。その感情もまた読み取られているようでシルルも安心したように穏やかな表情になる。

 彼女の小さな表情の変化がよく理解できるようになったのはいつからだろうか。エクトルとは違った意味であまり感情を表に出さないと思われがちな人だが、よくよく見ていればしっかり理解できる。

 エクトルのように別の表情で誤魔化したり嘘と本音を真逆のように口にしたりはせず、真っ直ぐに伝えてくる性格をしているのがシルルなのだ。



「私にとって大事なのは貴方と結婚するという事実なんです。だから、どんな式であっても嬉しいという意味でこだわりがないだけで……式自体はとても、楽しみにしていますよ。エクトルさんと夫婦になれる日が待ち遠しいです」


「……そ、そっか……」



 言葉も表情も天邪鬼となってしまう自分とは違いすぎて、微笑と共に向けられる表裏のない言葉にたじろいでしまう。勿論、悪い意味ではなくとてつもなく嬉しい。すぐに体の中の熱が増していく。



「証人が一人でも、豪華な衣装や飾りがなくても、私はただ貴方の伴侶となれるならそれ以上に望むものがなかっただけで……本当に何でも嬉しい、という意味でなんでもいいと言いました。伝わって……ますね」


「はい充分です……むしろ、俺がごめん……」



 最低でも婚姻の証人となってくれる人間が一人いれば結婚はできなくもない。しかし証人となる人間が多いほど良いとされる風潮がある。少なくとも家族は必ず呼ぶもので、家族すら呼ばない式というのは親族一同から反対され駆け落ちするような夫婦くらいのものだ。

 資金があれば式場を花や宝石などで満たし、衣装にもふんだんに金をかけ、広い式場に大勢の人を呼んでこれまた高級な食事を振舞いもする。見栄を張る高位貴族はどれ程豪華な式ができるかと競い合うように派手な式を挙げるもの。

 シルルにはそんな風潮も、豪華さも関係ない。ただエクトルと夫婦になりたい、それ以外に望むものなどないと言いたいのだ。


(ほんと、俺は余裕がなくて格好悪いな……こんなに想われてるのにね)


 自分の好意が大きく重いことはよく知っているつもりなのに、それがいまだに大きくなるから困る。そんな自分の愛情が彼女を押しつぶしてしまわないかと心配になることも多々ある。その度に「私はしっかり貴方を愛しています」と伝えられて安心させられてしまうから情けない。



「その、でもまあ……母も張り切ってるし、好きなのを選んでくれると嬉しいかな」


「はい。……しかしこんなにたくさんあると分からなくなりますね。どれも素敵だとは思いますが……あまり服にこだわったことがなかったので、難しいです」



 たしかに、シルルが服や装飾品を欲しがる姿は見たことがなかった。婚約の証である耳飾りを欲しがるのは着飾るものを求めるのとはまた違う。可愛い小物などは好んでいるけれど、服は支給されるもので充分といった様子で頓着していない。城からの支給品なので品質は勿論良いものだがそのデザインについて何かしら思っている様子が全くないのだ。

 


「俺、女の人はこういうのこだわるんだと思ってたよ。母もドレスを選ぶ時は真剣だったから」


「お洒落は嫌いではないのですけど他に強く興味を持つものがあるのでそこまで……衣装は貸出されているものを借りようかと思っていたくらいですし」



 婚礼の衣装を着るのは一生に一度。特別な一日のためだけの服。そこにお金をかけられない、そんな服を買う必要はないという人間のために式場では衣装の貸し出しも行われている。サイズは選べるがデザインは一種類、割合質素なデザインのものだ。



「それはいやだなー……なんて」



 シルルがその衣装を着れば、それでもエクトルは美しいと思うだろう。ただ、彼女が着たその服はやがて誰か別の人間が着ることになり、そしてそれは他の男に嫁ぐのである。何故かそれを想像すると嫌だった。……これはきっと独占欲なのだと思う。

 むしろその日の装束は記念として一生大事に持っておきたい。イリーナも張り切って最高のデザイナーと針子を用意したので任せるようにと言ってくれているし、貸しも売りもすることなく手元に残しておきたい、なんて考えるのはおかしいのだろうか。

 そんなエクトルをシルルは不思議そうに見ていた。嫌がるのが不思議なのではなく、エクトルの持つ感情の色全てを見通しているからこそ、何故そこに独占欲が湧いたのかが分からないのだろう。



「エクトルさんが私に着てほしいデザインはどれですか?」


「俺が着てほしいものでいいの?」


「はい。エクトルさんが喜んでくれる衣装が着たいです。……貴方の喜ぶ顔を見られるならそれが一番、私の望むことですから」



 こんなことをさらりと言えてしまう婚約者を持ってしまい「ほんと好き」という感情が思わず声に出てくるのは仕方のないことだと思う。激しく揺さぶられる好意に熱のこもったため息が漏れた。これほど好きになった相手と結婚できるというのはなんて幸福なことだろうか。



「えっと……それなら、この辺りかな。この中ならシルルさんも選べるかい?」



 やはりあまり露出の多くないデザインばかりを選んでしまった。今もこの小さな独占欲の色は見えてしまうのだろうか。

 エクトルが選んだ三つのデザインをシルルは真剣な表情で見比べ、やがてその中の一つを指さした。



「花のレースのデザインが可愛いので、これがいいです」


「うん。じゃあ母にこのデザインで返事を出すよ。……色はどうしようか」


「……ああ、私は白髪ですからね」



 花嫁、花婿の結婚衣装は白か黒が多い。理由は多種多様な髪色にあるだろう。どんな髪色であっても似合う色となれば白、もしくは黒だ。しかしシルルは珍しい白髪だ。白色の衣装も勿論似合うだろうが、他のどんな色を着たって浮かないはずだ。


(シルルさんの瞳に合わせて赤でもいいよね。ああでも、黒もよく似合うだろうし……黄色っぽいの、とか……でも純白も捨てがたい。やっぱり全部着てほしい)


 エクトルが一人であらゆる花嫁姿のシルルを想像している間に彼女も何かしら考えていたのだろう。顎に手を添えていたシルルがふと思い出したように「そういえば」と口にした。



「薬屋をやっていた時、衣装の色について相談を受けたことがあるんです。白か黒で迷っていて、その二色にはそれぞれ意味があるからどちらがいいかと」


「色の意味?」


「ええ。“私を貴方の色に染めてください”というのが白。“私はすっかり貴方の色に染まってしまいました”というのが黒です。……私はどちらだと思いますか?」


「どっ……」


 愛しすぎる婚約者に微笑まれながらそんなことを尋ねられ、平静でいられる人間がいるのだろうか。いるはずがない。エクトルもたまらず両手で顔を覆った。……どちらでも心臓が痛いほど嬉しい。

 シルルが自分の色に染まっている、とは思わない。ただ、自分は完全に彼女に染められているとは思う。


(俺の好きなものってシルルさんに関連するものが多いんだよね。……影響、受けすぎてるから)


 元々エクトルには好きなものというのはあまりなく、逆に嫌いなものならたくさんあって、それは大体女性の記憶に紐づけられたものであった。

 その記憶を塗り替えていったのがシルルだ。甘い物は嫌いだったのに、シルルの作ってくれるはちみつ水が好きになった。花も嫌いだったのに、シルルが楽しそうに植物の面倒を見ているから興味を持つようになった。白と赤の色が好ましく思うのはどう考えても彼女の色だからだ。さすがに重すぎると引かれそうなので言えないけれど、エクトルの好きなもの――好きになったものにはシルルが関連している。これが染められていると言わずして何だというのか。



「シルルさんはともかく……俺は間違いなく黒だと思う。……衣装は白の予定だけどね」



 エクトルが白の衣装を選んだのは一般的な色だからではなく、シルルの色だからだ。その上飾りの色に赤を入れてもらう予定である。衣装を見れば一目でエクトルの思考がばれるに違いない。



「では、私も白の衣装にしましょう。……私も貴方の色のあしらいを入れてもらえると嬉しいですね」



 もしかして既にばれている。外しかけていた両手で再びそっと顔を覆い隠したエクトルは、震える声で「そう返事しておくね」と答えた。イリーナが上手くデザイナーに頼んでくれるだろう。……その手紙を書くのは少し恥ずかしい気もするけれど、シルルの望みなのだから叶えたい。



「ところでこの衣装、予算はどのくらいなのでしょうか。イリ……おかあさまが張り切ってらっしゃるということは、かなりのお値段になるのでは……お給金はたくさんいただいていますけど、払いきれますかね」



 指の間からちらりと見たシルルは少し不安そうに眉尻を下げていた。その表情を見て感情の高ぶりが収まってきたエクトルもようやく手を降ろす。

 たしかにイリーナは、それはもうはしゃぎにはしゃいで張り切っているがシルルはその資金の心配などしなくていい。あの人は、自分のやりたいことのために他人の資金を必要としない。つまり。



「全部母が出すつもりだから心配しなくていいと思う」


「…………そちらの方が胃が痛いのですが」



 そっと胃の辺りに手を当てる彼女に「母がやらなくても俺がいままでの貯金全部つぎ込んででもやっただろうから気にしなくていいよ」と言うべきかどうか悩んでいるうちに、お礼の品についての相談を受けたので機会を逃してしまった。

 しかしこうしていると本当に、その日が近づいて来ているのだと実感する。……楽しみで、幸福で、たまらない。



「ああ……早く結婚したい」


「だから今その話し合いをしているんですよ」


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