第55話



 お互いの家族への挨拶も済ませて休暇を終えた私達は、また王城の日常に戻ってきた。一応、この休暇中に結婚薬も作れたのであとは証人となる人間を決め、結婚式を執り行えばいいので気が楽だ。

 ソフィアのお腹の子が無事に生まれ、カイオスの王位継承が確実になったら私達も日取りを決めよう、という話になっている。……ちなみにその話し合い以降エクトルの橙色の線は天辺が見えなくなり、その状態が数日続いている。これが有頂天というやつだろうか。



「早く結婚したいなぁ」


「ソフィア妃殿下の出産予定はもうすぐなんですから、そう遠くありませんよ」


「うん。……うん」



 まるで事実を噛みしめるような二度目の肯定に呆れ半分、愛しさ半分の笑いが零れた。何度も「結婚したい」と言葉を漏らしていたエクトルにとってはそれが現実味を帯びてきたことが嬉しくて仕方ないのだろう。

 

(でもなんで、今朝になって急に半透明の濃紺嫌悪深緑罪悪感が?)


 それは昨夜まではなかった色だ。今朝、急に現れた。これは明日の出来事を示しているのか、それとも今日のことだろうか。

 人の未来は簡単に変わる。誰かの予定が一つ変わるだけでも、他人を巻き込んで未来が変化するものだ。私たちはいつも通りソフィアの元に赴いてその相談を受け、帰ったら溜まっている薬作りの依頼を消化する予定のまま昨日から何も変わっていない。この予想線が今日の出来事であれば誰かの予定が急に変わり、それが私たちにも影響を及ぼすということである。

 昨日の夜別れる時にはなかった。就寝時間以降にそんな気分になる出来事があるとは考えにくいため、やはりこれは今日の出来事か、もしくは明日の朝に何かがあることを示しているのだろう。



「エクトルさん、今日、もしくは明日の朝に嫌なことがあるかもしれません」


「危険なことではなくて、嫌なことかい?」


「ええ。怪我の色は見えないので」



 怪我や死、半透明の怒りの色があればそれは何か危険が迫っている、と判断できる。私が危ない目にあえばエクトルは怒るからだ。しかしそういった色がなく、嫌悪と罪悪感に染まる未来だけがある。それも、半透明で見えるくらいに強い感情で。


(女性関連、とか……?)


 そんな予測が出来たため、朝食はいつも以上に慎重に毒見をしたがフェフェリが混入しているということもなかった。

 一応今日一日は気を付けておこう。そう思いながらソフィアの元へ向かっていた、途中のことだった。私たちの使う王城内の通路で誰かに出くわしたことは今までない。どの使用人が使う道とも違うルートをカイオスが示していてくれたから。

 けれど、今日は違った。道中で見知らぬ使用人の女性が脇道から飛び出してきたのだ。驚いて固まったところでぶつかりそうになった私をエクトルが軽く引き寄せてくれたため、勢いのある彼女と衝突することはなかった。



「ごめんなさい! 急いでて……っ!? 花の騎士、エクトルさま!」



 女性の上に喜びと好意の色が見えた。城にくる以前にはよく見かけた、街中でエクトルを囲っていた女性に多く見られた反応だ。

 エクトルはといえば笑顔を張り付けて嫌悪と苦痛の色を伸ばしている。こちらも前までよく見た反応だった。そういえば、一緒にいる時にこういう女性に出会ったのは初めてかもしれない。



「あの、エクトルさま。私………………その、耳飾り」



 私とエクトルは互いの色の耳飾りをつけている。並んでいればその関係は一目瞭然。女性の頭上に嫉妬の浅葱色と深紅の怒りが勢いよく伸びる。カッと赤くなる、とはまさにこのことか。



「なんであんたみたいなのがエクトルさまと……!」


「なんでと言われましても……互いに愛し合っているから、としか」



 それ以外に婚約する理由があるのだろうか。貴族ならば政略結婚もあるだろうが、エクトルは騎士の家の出とはいえ爵位を授かっていないし、その予定もないのでただの平民である。そして貴族は平民と結婚などしない。つまり政略結婚の可能性はない。

 いや、よく考えてみれば平民でも家同士の事情や、お金の関係で婚姻が整うことはある。私の店に相談に来る女性はみな恋愛をしていたため一瞬頭から抜けていた。



「あんたじゃ釣り合いがとれてないじゃない!」


「釣り合い、ですか?」



 それは恐らく容姿のことだとは思うが、容姿が釣り合っているから恋人になれるというものでもない。人を好きになる時、その容姿も要因の一つにはなるだろうけれど、それだけで恋をする訳でもないのだから。

 私とエクトルの築いてきた関係を他人が外から見て理解できるはずがない。互いが恩人であり、理解者であり、秘密の共有者。少なくとも私達が互いに向ける感情の大きさは釣り合っている。それは私たちの過ごした時間を知らない他人には知る由もないことで、判断できるものではないと思う。



「ねえ、蝶々さん。俺の大事な人にそういうこと言うの、やめてくれないかなー」



 キラキラ輝く笑顔。冗談っぽく明るい声。それと正反対の嫌悪と苦痛。女性はそんなエクトルに一瞬見惚れたが、直ぐに私を睨み直した。……エクトルの言葉が本心だとは思えないのだろう。この人は表面だけを見ていたら理解できない、難儀な性格をしていると知らないからだ。



「あんただけが特別じゃないわよ。私だってエクトルさまと一夜過ごしたことくらいあるの」


「いえ、ないですね。それだけは」



 恋人同士のキスですらいまだにぎこちないエクトルに、女性経験がある訳がない。それは私が一番よく分かっている。彼が遊び人で恋多き男で泣かせた女は星の数程いて一夜限りの愛を交わした相手も多く居る、なんて話は本当に根も葉もない噂でしかないのだ。

 実際のエクトルは一途で愛情が重たくて繊細で不器用な人である。それを知らないなら彼の身内ではない。表面でしかエクトルを見たことのない人間だ。


(……嘘を吐いた後の動揺が見える。勢いで言ってしまったのかな)


 嘘を吐いた人間はそれらしい感情の動きをする。勢いでついてしまった嘘に対する罪悪感、不安。もしくは人を翻弄することへの喜びや楽しさ。そのどちらもない人間は根っからの嘘つきだが、少なくとも彼女は前者だった。私が見抜けないはずもない。



「あんた、いい気になってッ」


「それ以上は止めて頂けますか。エクトルさんが傷つきます。それに、貴女はエクトルさんを愛してはいません。……貴女の好意は恋ではないと、ご自分で分かっているでしょう?」



 図星をつかれたからだろう。女性は驚きの色を伸ばして押し黙り、唇を噛んで私を睨みつける。

 彼女の頭上に恋の色はないのだ。そこにある好意はただ、憧れであって、恋ではない。それでも嫉妬や独占欲を示す浅葱色が見えるのだから執着ではあるのだろう。けれどそれは、相手の感情を考えていないものだ。

 彼女はエクトルを「花の騎士」として見ているのであって、エクトル本人を見ていない。それは彼が一番望まないものだと私は知っている。



「エクトルさんは意思のある一人の人間です。そして私たちはお互いを共に生きる相手として、自分の意思で選んだ。……それ以上に必要なものなどありませんよ。他の誰の感情も関係ない」



 そう、関係ない。私の感情も、エクトルの感情も個人のものであって他人に何かを言われる筋合いはない。私達が二人で決めた未来に、家族でもない外の人間が口を出すのは野暮というものだろう。

 この先も彼女のように私とエクトルでは釣り合っていないのだと、その関係は間違っているのだと、そんな言葉を投げかけてくる人間に出会うのかもしれない。その度に私は、何度でもその言葉を否定しよう。

 私にはエクトルが必要で、エクトルには私が必要だ。私達がそう思った結果の今に、過ちなどない。私たちは私たちの意思で今を決定し、生きている。



「私達は王太子妃殿下の元へ参じる途中です。これ以上妃殿下をお待たせする訳には参りませんので、失礼します」



 女性の横を通り過ぎようとした時、彼女の手が思い切り振り上げられた。感情的になったのだろう。ただ、その手は私の顔に振り下ろされる前にエクトルに掴まれて止まった。



「それだけはだめだ。……この人を傷付けるのだけは許せない」


「エクトル、さま……」


「早く仕事に戻るといいよ。余計なことはせずにね」



 その時のエクトルは笑っているようで笑っていなかった。感情を堪えるように、伸び縮みを繰り返しながらも少しずつ長くなっていく深紅の色で彼が怒りを抑えているのが分かる。それは彼女にも伝わったのだろう。力が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。

 今度こそ彼女を置いてソフィアの部屋へと向かう。いつもより少し遅くなってしまったため、早足で歩いた。



「ごめんね、シルルさん。俺のせいだ」


「どこが貴方のせいですか。……いつも言いますけど、貴方は悪くないですよ」



 結局、嫌悪と罪悪感の予想線は色づいてしまった。この濃紺は自己嫌悪なのだろう。私は何を言われても全く傷つかなかったが、彼はそれに傷ついた。自分のせいで私が罵倒されたと思っている。それは彼に責任のあることではないのに、それでもやはり自分を責めてしまうのは今までの経験と強く結びついているからだろうか。

 一度足を止めて、エクトルと向き直った。エクトルも少し驚きつつ足を止める。



「私はこういうことが起きることもすべて承知の上で貴方との結婚を望んでいます」


「うん。俺も分かってるつもりだった。きっと俺が君といる限り何度もあると思う。……俺は、慣れてるけど。でもやっぱり君が傷付けられるのは嫌だな」



 エクトルが何よりも嫌だと思っているのは、自分の容姿に惹かれた女性が私に対して吐く言葉に私が傷つくことであるようだ。似たようなことは一緒にいる限り何度も起こるだろう。その度に彼はこうして落ち込んでしまうのかもしれない。……そんな未来は望みたくないと、思ってしまっただろうか。



「……私と結婚するのをやめたくなりましたか?」


「いいや……それはない。だから、それでも君と離れたくないから、そういう自分が一番嫌になった。ごめん」



 私に向けられる言葉の刃を止められないこと、けれど傍に居たいと願い続けてしまうこと。濃紺が示すのはそんな自分に対する嫌悪感らしい。……ならばその不安を取り去るのが、伴侶となる私の役目だ。



「それなら、大丈夫です。貴方を傷付ける人の言葉に、私が傷つくことはありません。……だから安心して、私と結婚してください。貴方を思わない誰かの言葉などいくらでも払いのけましょう」



 相手を傷付けようとして放つ言葉は本当に残酷な凶器だ。それは実物の刃のように防げるものではないからこそ、人に振りかざしてはいけないと思う。私がそのような言葉に負けることは決してない。だからエクトルは、こんなことで私が傷つく心配などしなくていい。



「私はただ、貴方を幸せにするのは私でありたいと願っています。だから貴方の伴侶という立場を誰かに譲る気などありません。誰に何を言われようともこれは曲がらない。……足りないなら帰ってからもっと言葉を尽くしましょう。今は時間がないですからね」


「いや、あの……充分、です。ごめん、ありがとう……はぁ………………結婚したい」


「今さっき言ったばかりじゃありませんか。貴方の伴侶になるのは私だと」


「ン゛っそうですね゛……ッ」



 顔を両手で覆ったエクトルの声が裏返っている。羞恥の色が勢いよく天井を突き抜けていったのは自分の発した声のせいなのか、私の言葉による動揺かはいまいち判別できないところだ。たっぷり数十秒の間をおいて、まだ震える声でエクトルが訴えかけてきた。



「ソフィア妃殿下のところに行くのは、ちょっと待って……くれないかな……」


「……これ以上お待たせする訳にはいかないので、移動しながら冷ますしかないですね」


「……努力します……」



 濃紺と深緑の色が消えた代わりに顔を赤く染めたエクトルは、熱を冷まそうと顔を手で扇いでいるがあまり効果はなさそうに思われた。

 ソフィアの部屋についた時、その赤みはそれなりに引いてはいたもののまだ平静を装うには足りず、感情を抑えているはずなのに夫によく似た笑みを浮かべた貴婦人から「遅れてきた理由、教えてくださる?」と半分命令のような経緯説明を求められてしまったのは致し方のないことだったのかもしれない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る