第54話
貴族のお嬢さんは婚姻相手の両親へ、自分で刺繍をしたハンカチを贈るのが慣例であるらしい。もちろん私に刺繍をするような趣味はなく、繕い物はそれなりにできても貴族に見せられるような繊細な刺繍を行えるはずがない。
「あれは得意なものを見せる、っていう慣例だからシルルさんなら薬を持って行けばいいんじゃないかな」
「……本当にそれでいいんですか?」
「うん。君の薬、貴族は買えないし」
私は宮廷薬師となり、その薬は主に王族のために使われる。やたらと解毒剤の調合依頼が多いのはカイオスを見れば分かるとおり、命の危険が多いからだ。あとは王族を守る近衛騎士団に使われる薬も私の作った物が使われている。
カイオスの計らいによって私の薬は貴族が買い占めできないようになっているという。私も常連が必要とする薬は仕事の一環でまとめの資料を作らされた記憶があるのだが、それを元に必要な客へ必要な薬が渡るよう配慮されていたり、流通量を制限して他所へ流れる薬を減らして地元の人間が薬を買いやすくしていたり、その他色々と策が講じられているのだそうだ。カイオスが「ベディート」の店を守るためにそこまでしてくれていたことに驚いた。……これだからあの暴君のような主人を嫌いになれないのである。
そういう訳で自作の薬を手土産に、エクトルの実家へと赴くことになった。つまり、貴族の家である。二年前までは想像することすら恐ろしかったような出来事だ。装いは王城で暮らし始めたころに支給されたものの中から出来るだけ動きやすそうなワンピースを選んできた。貴族の前に出ても失礼にならない服なんて支給品以外に持っていない。
「……緊張してきました。エクトルさんもこんな気持ちだったんですね」
「俺の場合はジャンさんと顔見知りだし、君より気楽だったんじゃないかと思うよ。……でも、大丈夫。両親は君を歓迎してるし、俺が居るから」
彼の生家は王都にある。城から出発して馬車で二十分もかからないそうだ。目的地が近づくにつれ緊張で心臓の鼓動が早くなっていったが、エクトルが私を安心させるようにそう言ってくれたので少しは心が解れたような気がする。私が何かやらかしそうな時はエクトルが手助けしてくれるつもりなのだろう。この先、彼の存在だけが頼りだ。
やがて馬車が止まり、一つの屋敷の前で降りることになった。私を攫った商人の屋敷より控えめな大きさに見えるがそれでも今まで自分が暮らしていた家を思えば巨大な建物だ。エクトルにエスコートされつつ門をくぐり、使用人らしい初老の男性が待つ正面玄関の前に立った時は不安と緊張で彼の腕をぎゅっと掴んでしまったほどである。……それで橙色がぐん、と伸びていくのを見たらなんだか力が抜けてしまったけれど。
「お帰りなさいませ、エクトル様。ようこそいらっしゃいました、シルル様。心よりお待ちしておりました。……どうぞ、皆さまがお待ちです」
爵位持ちである人間を待たせていたという事実が胃を締め付ける。開かれた扉の先に現れたのは二人だ。穏やかな表情の壮年に見える男性と、キラキラと輝くような笑みを浮かべた美しい女性。彼らがエクトルの両親なのだろう。
(……エクトルさんは母親似だなぁ)
エクトルから男性らしさを抜いて女性らしさを足したらこうなるのだろうと思うくらい、見慣れた顔立ちによく似ていた。柔らかそうな栗色の髪と琥珀のような橙色の瞳の魔性すら感じるような美しい人。私と年齢が変わらないように見える彼女が、成人男性二人の母であることに驚く。
その隣に並ぶ男性はとても柔らかい印象の人だ。金糸のような髪色は子供たちに受け継がれている。海のような深い青の瞳が穏やかに細められていて、なんだか見ているだけでほっとするような空気を纏っていた。その二人の頭上に恋の色が同じような長さで存在するのを見てとても仲のいい夫婦であろうことを察する。
「ただいま戻りました。まずは二人に俺の婚約者を紹介するね。手紙でも知らせたけど……宮廷薬師と第一王子の相談役を兼任している、シルルさんです」
「お初にお目にかかります。シルル=ベディートと申します」
教わった通りスカートの裾を軽く摘まみ、床につかないように気を付けながら軽く膝を曲げて一礼した。私は平民で、貴族に礼をするなら膝をつくのが本来の礼なのだが――この場では対等だ。婚約の挨拶に来た娘が婚約者の親に対し平伏していたらそちらの方が失礼である。
「アルデルデ家へようこそ、シルル殿。私は当主のブランドン。こちらは妻のイリーナ。……早速で悪いんだけど、お茶会に参加してくれるかな。イリーナが君を待ちわびていて、随分と前から準備を」
「もう、貴方。それは秘密にしておいてくださらないと」
ブランドンとイリーナ、二人の頭上には長い好意や喜びの色が見えた。それは息子であるエクトルに向けられたものなのか、それとも私に向けられたものも含まれているのか。悪感情は見えないのでそこは安心できたが、二人ともに大変な上機嫌である。特にイリーナはまるで楽しみにしていた旅行を前にはしゃぐ少女のようにも見え、イルナと名前は似ているものの随分違うタイプの母親なのだなと感じる。
「ではお茶会のテーブルへ案内するわね。荷物はそちらの者に預けて、さあこちらへどうぞ」
持ってきた薬類は使用人の手に渡って引き取られ、案内されるがまま庭園のテーブルにつき、気が付けば婚約者とその両親と四人でのお茶会が始まっていた。……目まぐるしく変わる状況についていけない。
「わたくし、本当に今日を楽しみにしていたのよ。貴女に会えて嬉しいわ、シルルさん」
「……ありがとうございます。イリーナ様」
「まあ……距離を置かれたようで悲しいわ。もっと親し気に呼んでくださって構わないのよ。そのように丁寧に呼ぶならせめておかあさまと呼んでちょうだい……」
伏し目がちに俯く様はまるで暴言を吐かれた後の今にも泣きだしそうな少女のように儚げだ。しかしその頭上に悲しみの色など一つもない。そんな彼女の姿に既視感を覚えつい、まじまじと見つめてしまった。……そうだ、同じようなことをエクトルにされた記憶がある。
まだ出会ったばかりの頃で、私が彼を「騎士様」と呼んだ時だ。とても懐かしいのと同時に、イリーナに親しみのようなものを抱いた。彼女は内面もエクトルに似ているのかもしれない。
「……あら? もしかして分かってしまったのかしら。これが分かるのはブランドンくらいのものなのだけど」
「母上、シルルさんにそういうのは通用しないよ。俺も全部見抜かれる」
「まあ、そうなの。それは……よかったわ」
イリーナは橙色を伸ばしながら私とエクトルを交互に見つめた。会話に混ざろうとしないブランドンも、嬉しそうにこのやり取りを眺めている。
(……きっと、エクトルさんのことをよく知っているから)
二人は生まれた時からエクトルの成長を見守ってきた親なのだ。その苦悩もよく知っている。知っているのに、守り切れなかったと兄であるドルトンから聞かされた。
そうしていつしか表情の仮面をつけて本心を隠してしまう癖が出来てしまったエクトルに、家族にすらそうしてしまうエクトルに、その仮面の内側を知る相手が増えたことを喜んでいるのだろう。
「ねぇ、シルルさん。わたくしたちは本当に嬉しいのよ。……感謝しているわ」
それは、何に対する感謝なのだろうか。二人の感情は喜びが大きいけれど時々罪悪感や後悔が見え隠れしたりもする。以前、ドルトンが語ってくれたような――エクトルを守り切れなかった、という話に起因するものかもしれない。
「貴女はこの家に近寄りがたいかもしれないけれど……わたくし達は大歓迎なの。時々でいいから、二人で遊びに来てくださらないかしら。……エクトルのこんなに幸せそうな顔、初めて見たから。また、幸せそうな二人の姿を見たいわ」
「そうだね。……私からもお願いしよう。結婚後はいつでも遊びに来てくれると嬉しい」
二人が私のことを受け入れてくれているというのは好意と喜びの色から分かる。気になるのは穏やかに微笑む顔からは察せない、寂しさや罪悪感の色。彼らはエクトルに対して負い目があるのだ。
しかし、エクトル自身は両親や兄に何のわだかまりも抱いていない。エクトルが幼少の頃から大変な思いをしてきたのは事実で、家族の目の届かないところで嫌な思いをしたこともあったのだろうけれど、必死に守ろうとしてくれていた家族の想いをちゃんと知っている。
「エクトルさんの幸せな未来を確約することはできません」
驚いた顔でこちらを見る三者の視線を受けて、私は微笑んだ。未来を確約することはできない。私が見ている未来の色だって、行動を一つ変えればがらりと変わる。未来は常に変化していくものだから。
「けれど、私がエクトルさんを幸せにするための努力を怠ることはない、というお約束はできます。生涯、エクトルさんを大事に想い続けることも誓います。この二つだけは決して
それは未来がいくら変化しても変わらない部分だ。私は生涯エクトルを愛するし、彼が幸せであるように願う。家族である彼らがエクトルを想い続けるように、新しく家族となる私も同じであると知ってほしい。
その時、隣から長い息を吐く音が聞こえてきて目を向けると、エクトルが私とは反対方向に顔を向けていた。私から見える耳は赤くなっているし、尽きるほど長い吐息でも感情は発散できていないようだが、どうにか顔を押さえるまでの行動には至らないで済んでいる。……家族の前ならこれくらいの素は出せるのだな、と一つ新しい事実を知った。
「ふふ……ねぇ、シルルさん。わたくし、一つだけ決まった未来が分かったの」
「え?」
「エクトルは一生、貴女に恋をし続ける。断言しても良くてよ」
イリーナはとても美しい微笑みを浮かべてそう言った。私よりもよほど説得力のありそうな迫力で未来を断言されてしまったけれど、私も常々そのような気がしているので否定できない。
「そろそろこの話はいいんじゃないかな? エクトルが大変そうだ」
「あらそう? もう少し珍しい姿を見ていたいのだけれど」
「……あんまりからかわないでほしいんだけどなぁ」
顔にかかる髪を耳にかけながらエクトルが呟いた。その横顔は薄っすらと赤く色づいているがまだ隠せている方だろう。二人きりの時はこれ以上の反応をすることを両親には教えない方が彼のためだろうか。
「そうだわ。シルルさんはお薬に関するものが好きだと聞いたのだけれど」
「はい。薬作りは私の趣味でもありますから……今日は私の作った物を持参させていただきました」
「先ほど受け取った物はお薬なのね、ありがとう。侍医が喜びそうだわ。……実は、わたくし達からも貴女に贈り物があるのよ」
イリーナが卓上の小さな呼び鈴を手に取って鳴らすと、何処からともなく使用人が姿を現した。その手にはトレーに乗せられた小さな箱があり、私の下まで運ばれてくる。
「シルルさんは珍しい薬の材料などがお好き、とお聞きしたわ。出来るだけ珍しい物を探してみたのだけど、確認していただけるかしら」
「……ありがとうございます。では、拝見させていただきます」
使用人から箱を受け取って恐る恐る中に入っているものを確認する。そこにあったのは柔らかな布の中に紫色の種が五粒。五つの突起がくっついたような、いわゆる星形のそれを見て目を丸くした。
「ダルダンという植物の種らしいのだけど、それだけしか手に入らなくて……」
これはこの国に存在しない植物で、外から乾燥された葉だけが輸入されている。つまり、私が生の状態を見たことのない珍しいものだ。しかし代々伝わる家系のレシピの中にはダルダンの種や実や花や根を使うものもある。この種を育てられさえすればそれらすべてに挑戦できる、という訳で。
「とても嬉しいです。ありがとうございます、おかあさま」
「まあ」
わざわざこんなに貴重なものを手に入れてくれたのだ。「おかあさまと呼んで」という望みくらい聞くべきである。断じて
「シルルさんはとても可愛らしい方ね、エクトル」
「……そうだね、シルルさんは薬関係だと素直に喜んでくれるから」
ふと、隣のエクトルの頭上に不満や後悔の色がほんのりと見えて首を傾げた。この短さなら今、目の前の事というよりは昔の事を何か思い出しているのかもしれない。
それで思い当たったのは以前、エクトルにも薬の材料を貰ったがそれは彼にとってあまり良い過去ではないということだ。あの時は絶望と言わんばかりの色が並んでいたのでまだ引きずっているのかもしれない。
「エクトルさんに頂いた花も本当に嬉しかったですよ?」
「待ってシルルさん、今それ言っちゃうと……」
「ねぇ、そのお話詳しく聞かせてくださる?」
エクトルの考えていることは当たっていたのだろう、否定されなかった。さすがに品種を口にするのは悪いと思い花と表現したのだが、その“花を贈った”という話が前の席に座るイリーナの興味を引いてしまったらしい。どこかの好奇心旺盛な王子並みに伸びた
(あ、これは長くなるな……)
私の話をあれこれ根掘り葉掘り聞きたがったカイオスの幻影を彼女の背後に見た。ちらりと隣を見遣ったらエクトルと目が合う。その目が「悪いけど付き合って」と言っている気がして頷いた。
お茶会はまだまだ、始まったばかりだ。ひとまずぬるくなったお茶で喉を潤し、目の前の貴婦人の好奇心を満足させられるよう努めることにしよう。
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