第49話
「エクトルさん今夜は……朝まで一緒に居てくれませんか?」
愛しい婚約者の言葉に驚きすぎておそらく喉から変な声が出た。典型的な一夜の誘い文句で、エクトル自身何度も聞かされてきた台詞である。
知り合い以下の相手から放たれたその台詞にどういう意図があるのかはよく分かっていたし、つい相手の望みまで想像してしまって、嫌悪感を堪えながら笑顔で理由をつけて断ってきた。そういう積み重ねた経験というのは思考にも影響するらしい。シルルの言葉に連動するように色々と想像してしまい、顔に熱が集まっていく。
(待て落ち着け俺……ないから、この状況ではないから……ッ)
状況が状況であり、シルルの性格を考えればありえない。襲撃を受けて斬りつけられそうになったばかりの彼女が一人でいることを不安に思うのは当然だ。決してそういう意図の誘いではないと分かっているのに、余計なことを考えた自分の頭が恨めしい。
「ごめん、分かってる、これはその、違うんだ……っ」
自分が邪な考えを持ってしまったことを、色として感情を見ることのできる彼女は知っているだろう。混乱のあまり頭の上を手で隠すようなこともしてしまったが無意味に違いない。
そんなエクトルをいつもの表情で暫く眺めていたシルルは、ふっと目と口元を柔らげたかと思えば小さく声を漏らしながら笑った。
「それじゃ隠せませんよ。……でも、笑ったら明るい気持ちになりました。ありがとうございます」
「そ、そっか……それは、よかった」
とてつもない羞恥心に襲われているが、シルルが笑ってくれたなら結果的に良かったのかもしれない。彼女の不安を少しでも拭えたなら醜態を晒した甲斐があるというものだ。……いや、やっぱり恥ずかしい。できればもっと恰好よくいたいと思うが、彼女の前ではなかなかうまくいかない。
(でも、笑ってくれたのはよかった。……笑うともっとかわいいんだよなぁ)
はっきりと笑う顔を見せることは少ない人だ。恋人となってから見るようになった表情で、エクトルはシルルのそんな笑顔を見る度に愛おしさがあふれてどうにかなってしまいそうになる。
「そういう意味ではないですけど、一緒に居てくれますか?」
「……勿論。君は俺が守るから安心して?」
つい茶化したように口にしてしまったけれど本心だ。シルルのことは必ず守ってみせる。彼女を失った人生なんて想像もつかない、したくない。彼女に振り下ろされる刃を払いのけることができて、自分が傍で守ることができて本当に良かった。
(一緒にいないと不安になるのは俺の方かも)
手の届く場所に居てくれるなら守り抜く自信がある。見えない場所や距離のある場所に居たら、シルルの身に何かが起こった時、何もできないかもしれない。それがとても恐ろしいからやっぱり一秒たりとも傍を離れたくない。
「エクトルさんが傍に居てくれたら、安心します。……断られたらこのマントをお借りしようと思っていました」
「マントって……なんで?」
シルルは現在、寝間着が見えないようにエクトルのマントを羽織っている。すっぽりと収まってしまう姿を見ると彼女の小ささを改めて実感してしまって、なんとなく落ち着かない気分になるが貸してほしいと言われたら素直に渡しただろう。ただ、その理由が分からなくて首を傾げながら尋ねる。
するとシルルはほんの少し目を逸らした。赤くなっている訳ではないが、彼女が視線をほんのりと外すのは恥じらっている時だとエクトルは思っている。
「エクトルさんの香りがするので……貴方に包まれているみたいで、安心するんです」
「かっ……」
いきなりとてつもなく可愛いことを言われた気がする。いや、絶対に言われた。何か言いたいのに上手く口から出てこない。可愛いとか好きだとか、そういう言葉だか思いだか分からないものが膨らんで、でも外に出せないから自分の中でぐるぐると巡る。
(こんなこと言われて俺はどうしたらいいんだ……)
シルルの言葉は真っ直ぐだ。飾らない、嘘がない。そこにある確かな信頼と愛情を感じてしまって、彼女に対する多大な好意がそれに反応して揺さぶられる。この感情の発散の仕方が、分からない。分からないから心の波がそれなりに収まるまで顔を覆って耐える。
「ほんと早く結婚したい……」
聞きなれた自分の声が耳から入ってきた。つまり、心の声が漏れたのだろう。シルルの言葉に心を揺さぶられた直後は思いが強すぎて言葉が詰まり、少しすると溢れるように漏れる。いつものことだ。
結婚すればどうなる、ということでもないけれど。大きすぎる好意の行き場がどこにもないから思考の行きつく先がいつもそこになる。
出会った頃はシルルと友人になりたいと思っていた。好意を自覚してからは好かれたいと、恋人になりたいと思うようになった。恋人になった今は結婚したい、とそう願ってやまない。婚約しているというのにこれだ。
(……結婚したら何が欲しいって思うようになるんだろう。これ以上なんて考えられないけどなぁ)
夫婦になったらどうなるのか、未来を想像することはよくある。きっと今以上に毎日が幸せだ。少し前までは絶対に誰とも結婚なんてしないと思っていたのに、今では早く耳に穴を開けて証が欲しいと思う。
「私も楽しみですよ。結婚すれば一緒に眠れるようになりますし」
その言葉にはおそらく、いや絶対に他意はない。夫婦が同じ寝室に眠るのは事実だ、彼女は「一緒に居ると安心する」と言っているのだから、そういう意味でしかないはずだ。
ただ、つい先ほどまで頭の中にあった考えが再び沸き上がりそうになったエクトルは必死にそれを振り払い、抑え込みながら「そうだね」と肯定を返した。
……そんな心の動きも見えているのだろう。シルルは少し楽しそうに目で笑っていて、いたたまれなくなったエクトルはもう一度そっと両手で顔を覆った。
朝まで一緒にいると決めたがどちらかの部屋で過ごすのは(エクトルが)落ち着けそうもない。そういう訳で、寝室のある二階ではなく一階でこのまま夜を明かすことになった。
薬師塔の一階にはソファが用意されている。基本的に客がやってくることのないこの建物でこれを使うのは基本的にカイオスのみだ。二人掛けの大きさで体に負担がかからぬ柔らかさの高級品。薬師塔には少々不釣り合いなそれは、カイオスのために用意されていると言っても過言ではない。だがカイオスのものと決まっている訳でもない。
「……このソファ、本当に柔らかいんですね。眠ってしまいそうです」
「俺たちが座ることなかったもんね」
ソファに腰かけて暫くの間、シルルとエクトルは今後のことについて話をしていた。今回の事件でシルルは殺人未遂の被害者に当たる。襲撃時の証言を求めて調査の騎士がここを訪ねてくるだろうが、それ以上の負担はかからないはずだ。城の方で事件は片付くだろう。
カイオスはシルルの雇い主だと主張して事件の調査、そして断罪まで関わると思われる。そこでユレルミの処分や彼を引き込んだイージスの責任問題の追及など彼の主導で行われ、彼の思うような結末になるはずだ。彼女がこれ以上の面倒に巻き込まれる可能性は低い。
そんな話をした後、シルルは少しほっとしたように小さく息を吐いた。貴族の前に出なければならないかもしれないと身構えていたらしく、そんな心配が要らないと知って肩の力が抜けたようだ。
「カイオス殿下なら……きっと、うまくまとめてくださいますね」
「うん。だからシルルさんはいつもどおり過ごしていいと思うよ」
「はい。……それなら、安心です」
そこで会話が途切れて無言の時が流れる。言葉がないから気まずい、ということもない。どちらかといえば言葉を交わしている時の方がエクトルはどぎまぎしやすいため、ただ静かに並んで座っている時間は穏やかで心地よいと感じる。
そんなことを思っている中突然隣から重みが掛かり、シルルに寄りかかられていると気づいたエクトルの心臓は跳ねた。彼女は愛情表現が積極的なので、今回もそれだと思ったから。
「シルルさ……」
どうしたの、と尋ねようとした口を閉じる。強い意思を感じる赤い瞳は瞼の中にすっかり隠されており、小さな唇からは言葉が紡がれることはない。……眠ってしまったようだ。
(ここしばらく、疲れてたもんね)
彼女の話では魔力を使うのは体力を使うのに似ているらしく、使い続けると疲弊するのだという。ユレルミに対抗するため魔法の解毒薬を連日作っていたからだろう、ここ最近はあまり感情を浮かべない顔に疲れが滲んでいた。
ユナンは気づいていないようだったが、ずっとシルルを見ているエクトルにはそれが分かる。休んでほしいけれど、彼女にしかできない仕事で彼女自身が責任もってやり遂げようとしているものを止めることもできなかった。
(……やっぱりあの男、許せないな。一発くらいは殴ってもいいんじゃない?)
シルルはお人よしで責任感が強い人だ。自分にしか救えないとなれば己の身が危険でも手を差し伸べ、絶対に途中で投げ出さない。エクトルも彼女のそういう性格のおかげで救われた。だから「危ないことはやめてほしい」なんて言えない、言わない。その代わり自分が絶対に守ると誓っている。
それでもシルルの負担になることはできるだけ少ない方がいい。今回の元凶を腹立たしく思うのは仕方がないことだろう。
「ん……」
エクトルに寄り掛かったままシルルがほんの少し身じろぐ。この姿勢ではしっかり休めなさそうだ。それに、妙な姿勢で眠ると首を痛めることもある。
一度起こすべきかどうか悩んで、横になれば今よりも眠りやすいはずだと考えた。冷静に思考できているつもりだったが好きな人のぬくもりで動揺していたらしい。起こさないようにそっと彼女の体を倒して自分の足を枕にしその寝顔を見下ろした直後、エクトルは固まってしまった。
(この格好はいけない気がする。せめて俺が退いてシルルさんをソファに寝かせるとか……何かあったでしょ。なんで膝枕を選んだんだ俺は)
この状態では咄嗟に動けない。いや、襲撃者の撃退はできるが絶対にシルルを起こすことになってしまう。そして何より、手のやり場をどうすればいいか分からない。普通に降ろすとシルルに触れてしまう、それはなんだか不味い気がする。ならどうするべきか。……行き場に迷った手は暫く宙を泳がせた後、ソファの背もたれにかけることで落ち着いた。
(寝顔、初めて見た。シルルさんは居眠りとかうたた寝とかしないから)
シルルは魔法使いの生き残り。それを隠すために他人の前では常に気を張って生きている。人前で気の抜けた様子を見せることはほとんどない。
そんな人がエクトルには心底気を許しているのだろう。安心すると言ってくれたその言葉通り、エクトルが傍に居るだけで襲撃の恐怖も忘れて穏やかに眠れるのではと思うと――その信頼が嬉しくて愛おしくて、心臓の鼓動も体の熱も増すばかりだ。
(……俺、この状態で朝まで耐えられるかな。なんか、邪なこと考えそう)
膝の上ですやすやと眠る婚約者。頬にかかる髪を払ってあげたいが、それを皮切りに頭を撫でてみたり髪を梳いてみたり、触れたいという欲が出てきそうでできない。相手が眠っている時に、相手の意思が確認できない時に勝手に触れるなんて言語道断である。
自分の意思を尊重されず、好き勝手に触れられてきたエクトルだからこそ、大切な婚約者に触れるのは慎重になる。ただどうしても愛おしさと同時に湧いてくる触れたいという欲求もあり――それを本人に見抜かれているのはかなり恥ずかしい。今は眠っているので見られなくて済むけれど。
(このまま夜明けまで……六時間くらい? 長いな……)
できるだけ視線を向けないように、余計なことを考えないようにするしかない。でも伝わってくる温もりも重みもたしかで、心臓の鼓動はいつまでも早く、そしてふとした拍子につい目を向けてしまう。
朝までこの状態でうるさい自分の心臓の鼓動をどうにかなだめつつ過ごすしかないのか。嬉しいような苦しいような落ち着かない心地で視線を彷徨わせたエクトルは、いつの間にか裏口から静かに戻ってきたらしいユナンと目が合った。
彼はエクトルとその膝枕で眠るシルルに視線を向けた後、騎士団で使われているハンドサインを使ってこう伝えてくる。
『邪魔をしたな』
ユナンはこの部屋を出て二人きりにしてくれるつもりなのだろう。シルルが起きている時ならその方が嬉しい。けれど今は非常に困る。エクトルは慌ててサインを返した。
『待った。ここに居てくれ、二人きりにされたら困る』
声を発せない状況のために作られた、会話できる程細かいハンドサイン。今ほどこれがあってよかったと思ったことはない。今のエクトルにはユナンが窮地に訪れた救援の騎士に見える。
他の人間がいてくれれば意識は逸れるし、表情も感情も御しやすい。シルルと二人でいる時は彼女が安心するのと同じようにエクトルも心が解けるため、感情を抑えるのも一苦労なのだ。……いや、まったく抑えきれてはいないのだけれど。
顔だけは完璧にいつも通りの笑顔を作り上げながら助けを求めるエクトルを、ユナンはとても怪訝そうに見つめていた。
『様子が変だな。……了解した』
『待った』
こちらに向かって歩き出したユナンに止まるようにサインを出した。今のユナンからはシルルの頭のてっぺんしか見えていないはずだが、近づけば寝顔も見えるようになってしまう。シルルも他人に寝顔を見られたくはないだろう、決してエクトルが他の誰かに見せたくないと思っているのが理由ではない。……いや、そういう気持ちも強いがあくまでシルルのためである。
『彼女の顔が見えないところで頼む』
そんなエクトルのサインにとてつもなく呆れた顔をしたユナンは、分かりやすく大きなため息を吐きながら一度調合室へ行き、そこから椅子を持ってきてソファから離れた位置に座った。
『お前は彼女のことになると余裕がないな』
そんなものがある訳もない。みっともない程に余裕がないのはエクトルも承知している。でも、表面上ですら取り繕えないくらい好きなのだから仕方がない。
エクトルにとっては初めての恋だ。シルルの一挙一動、一言一句が心の水面を揺らす。しかも石を投げ込まれたどころか誰か溺れているのではというくらい荒れるのだ。……あるいは溺れているのはエクトル自身か。他人はどうか知らないが、エクトルにとっての恋心はそういうものである。
『君だって余裕なくなる人いるんじゃない?』
それは話を逸らしたくて持ち出した話題で、冗談だった。
エクトルを毛嫌いしていたはずのグレイが訓練の時間に一緒になるとユナンについて尋ねてくるようになったし、ユナンからたまに浮ついた空気を感じることもある。……そしてシルルが妙に微笑まし気な視線をユナンに送っていたこともある。珍しい表情だったのでエクトルの記憶にも強く残っていた。
そういったいくつかのピースを元に「あるかもしれない」という程度の可能性の話をしただけ。こじつけみたいなものだった。それが事実であると確信したのは、エクトルと違って素直で正直なユナンが思いっきり顔に出したから。
「なっ……何をいうんだ!?」
顔どころか声にまで出した。しかもかなり大きめに。あっと思った時には遅かった。その声で眠っていたシルルも目を覚ましていまい、ぱっと素早く体を起こす。
ほっとしたような、もう少しこのままで居たかったような。そんなどちらともいえない微妙な気持ちを抱えつつ、エクトルはいつも通りの笑みを浮かべてシルルに声をかけた。
「おはよう、シルルさん」
「おはよう、ございます……すみません、いつの間にか眠ってしまって」
「気にしなくていいよ。もっと寝ててもよかったくらいだし?」
不思議な力のこもった、赤い瞳に自分が映る。彼女のぬくもりに動揺したままの心は見抜かれているだろうか。
(見られてても、いいか……それくらい好きだってことも伝わるんだから)
どれだけ感情を隠す癖があっても、見える彼女にはお見通しだ。エクトルがどれだけ取り繕おうと関係ない。余裕のない心を見られて、恰好つけることなどできないがそれでいい。
それだけ貴女が好きなのだと、上手く言葉にできなくても伝わっている。だから彼女も大胆な行動で好意を返してくれるのだと思う。
余裕はなくなり、心を振り回されるほど好きな人ができた。それは、おそらく。エクトルの人生において最大の幸福なのだ。
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