第42話
エクトルの長い恋の色を見慣れてきた私にとって、まだ短く淡い想いの恋の予想線というのはどこか新鮮に感じる。……まあ、つまりユナンのことだが。
毎朝ソフィアと顔を合わせる私はソフィアの筆頭護衛らしいユナンの想い人、グレイにも会う。彼女の頭上の
真面目なユナンは仕事中に色恋にうつつを抜かしてはいけないと思っているようで、常に気を引き締めようとしているがふとした瞬間に思い悩む表情を見せる。今も視線を足元に落として何かを考え込んでいるようだ。恋の色が微妙に伸び縮みしているあたりその内容は一つしかないのだけど。
「悩み事ですか?」
「あ……いえ、個人的なことですのでお気になさらず。分かるほど顔に出ていましたか……護衛任務中に集中力を欠いて申し訳ありません」
顔にはほとんど出ていないが頭上の色に表れているのである。薬屋をしていた頃は毎日のように他人の恋愛相談に乗っていた私だが、こうして目の前で悩んでいる姿を見ると世話を焼きたくなってしまう。自分がそういう性格であったことに少し、驚いた。占い師と呼ばれるのは不本意であったが、誰かの相談に乗るのは嫌いではなかったらしい。
まあしかし、相手が相談してくる訳でもないのにあれこれと訊くのは差し出がましい行いだと思う。彼が思い詰めた時に誰かに相談できるように助言しておくくらいで良いだろう。
「一人で抱えきれなくなったら、信頼できる相手に相談するといいですよ。親しい相手に話せないなら私でも構いません」
「……そういえば、シルル殿は以前占い師として有名だったとか」
「
久々に占い師と言われてちょっと複雑な気持ちになった。今の私は宮廷薬師として雇われており、皆が薬師として扱ってくれる。相談役という役目もあって王太子妃の様子見をしたり王太子の毒見役をしたりと少々逸脱した仕事もやってはいるが、基本的には薬を扱っているので占い師扱いされることはなかったのだ。
「仕事に私情は持ち込まないと決めております。……ただ、どうしようもない時は……護衛時間外に相談に乗っていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、勿論です。……応援しています」
もしや察されているのでは、という顔をしたユナンの頭上には驚きや気恥ずかしさの色が見えて大変分かりやすかった。素直な性格なので感情もそのまま顔に出やすいのだろう。
私がそんな彼を微笑ましく思っている時に訓練から戻ってきたエクトルは、にこやかな笑顔であるのに
「ユナンと何話してたの?」
「ユナンさんの個人的なことなので内容は言えませんが……ちょっとした雑談ですかね。何か気になりますか?」
「君が優しい目で誰かを見てるの、珍しいなぁって」
真面目で真っ直ぐなユナンの恋を応援したいと思ったのは事実だ。店に占いを求めてやってきていた乙女たちよりも関わりが深く、親しみを持っているせいもあるかもしれない。そういえばエクトルの恋も応援していた時期があったので、親しい相手には自然とこういう反応になるのだろう。
エクトルはそんな私の姿を見て何やら落ち着かない気持ちになっているらしい。浅葱色は執着や独占欲の色だから、少し妬いてしまったというところか。だからと言って不機嫌さを顕わにしたり、私に当たったりすることなく笑顔で隠してしまおうとするから、可愛いものである。
「ユナンさんは性格が真っ直ぐなので、色々応援したくなるんですよ。私はお節介な性格なので」
「うん、知ってる。君はお人よしだ。……俺はそういう君を、好きになったからさぁ」
だから私の行動を縛りたくはないが、それでも妬いてしまうのだと。口にされないその想いが色に表れている。
耳飾りをつけ終わったら普段ならすぐ離れるのだけれど、エクトルがどうも暗い感情を持っているのでそのままじっと彼のはちみつの瞳を見つめた。ピクリと震えた瞼と短く伸びた薄黄色から少しドキッとしたらしいというのが分かる。
「エクトルさん」
「……えっと、はい」
「私は、どんな目で貴方を見ていますか? 私が愛しているのは貴方です。だから貴方を見る私の目は、他の人とは違うと思うんですが……どうでしょうか」
エクトルが私を見る時、そこに確かな熱を感じる。私だけに向けられるそのはちみつ色は特別な甘さだと、そう思う。なら私もきっと、同じように他には向けない目でエクトルを見ているはずだ。
出来るだけ人と関わらないように、と生きてきた私にも大事な人は何人かいる。その中でも生涯を共に歩みたいと思っているエクトルは特別だ。愛おしいし、守りたいし、傍に居たいし、幸せにしたい。
ユナンに対する感情とは全く違う。これは私がエクトルにだけ持つ感情だ。それはしっかり、伝わっているだろうか。
「……愛情に満ちていると……思います……」
目を合わせて数秒。耳が赤くなってきたな、と思ったらすぐに片手で顔を覆われてしまう。そして勢いよく羞恥と喜びの二色が伸びていった。恋の色についてはすでに上限が見えないので割愛するが、とりあえず今見える感情は明るいものだけだ。
「ちゃんと伝わってるなら、よかったです」
「……はい……器が小さくてごめん……」
「私は貴方のそういうところ好きですし、いくらでも妬いてくれていいですよ。その度に私が好きなのは貴方なのだと安心させてあげますから」
「すッ……ぅう……」
エクトルから呻き声なのか言葉なのかよく分からない音が漏れている。空いていたはずのもう片方の手までいつのまにか顔を隠しているので、今見えているのは耳くらいのものだ。それも先ほどより赤くなっているように思う。
「シルルさんは……嫉妬とか、しないよねぇ……」
「……そうですね。貴方が私をどれだけ好きかというのが目に見えるので」
私はどれだけ愛されているか知っている。薬屋で相談を受けた時、浅葱色の心を持つ彼女たちは皆相手の気持ちが分からなくて不安そうだった。別の女性と歩いているのを見かけた、一緒にいた人は誰なのかと問い詰めたくなる、でもそれを訊いて望まぬ答えが返ってきたらどうしよう。そんな相談を何度受けたか分からない。
ただ、私はこの不安を抱くことだけはなさそうだ。人の感情が目に見えるから、どれほど愛されているか知っているから。エクトルが自分以外の女性と親しくしている姿を見ても、おそらく彼の心労を思い遣ることはあっても不安や嫉妬に駆られることはない。
(でも、他の人には見えないから……私はちゃんと伝える)
すれ違いは言葉が足りなければ必ずと言っていいほど起こる。言わなくても分かる、分かってくれるという傲慢が招くのだ。見えない心を語るなら、言葉はいくら尽くしても足りないくらいだと思う。
「……俺はかなり君のことが好きな自覚があるんだけど、君には見えてるんだよね」
「まあ、そうですね。この長さはエクトルさん以外に見たことないですよ」
恋の色を長く伸ばしている人間は時々見る。昂った感情が天井を突き抜けるのを見たのはエクトルが初めてだったけれど、私の前で昂っているのが彼だけだからという話で、他にもそういう反応をしている人はいるかもしれない。
だが片方だけが恋の色を長くしている恋人というのは、関係が崩れやすい。上手くいくのは大抵、同じくらいの長さの恋の色を持っている恋人たちだ。
「人の関係には感情の天秤が存在すると思います」
「……感情の天秤?」
友情にせよ、恋にせよ、片方の好意が強すぎるともう片方は受け止めきれない。片方が重すぎると天秤がバランスを取れなくなるように、人の関係も壊れてしまう。そういう人たちを何度か見てきた。
そんな話をしている間に顔を隠していた手が降ろされて、表情が見えるようになったエクトルの頭上に不安の色が伸びた。自分の気持ちが大きすぎると思って不安になったのだろうか。……笑顔のままではあるけれど。
「俺はもうちょっと気持ちを抑えた方が……」
「いえ、貴方が私の前で心を抑圧する必要はないです」
自分の心を押し殺し続けてきた人、そうせざるを得なかった人。せめて私の傍くらいは、彼がありのままの気持ちで過ごせるようにしたい。
エクトルの手を取って、そっと指を絡めるように握る。騎士の制服には手袋の着用義務があるため、感じるのは手袋越しの微かなぬくもりだ。……相手はその微かなぬくもりで動揺しているようだが。
「シ、シルルさん……?」
「自分の感情は見えませんが……貴方が私を想うのと同じくらい、私も貴方を想っているんでしょう。毎日貴方を愛おしいとは思いはしますが、貴方の気持ちを重荷に感じたことはありません」
私たちの感情の天秤は釣り合っている。あれだけの感情を持っているエクトルの気持ちを重いと思わない私も、おそらく似たようなものなのだ。私にとって彼は唯一無二の存在。彼にとってもそうなのだと、分かるように。
「安心してください、私も貴方と同じです。心の底から、貴方という人が好きですよ」
握ったままの手を引いて、その手の甲にぴたりと頬を寄せた。手袋の固い感覚が肌に触れたのを少し残念に思う。制服という仕様上仕方がないのだが、触れたいと思った時に触れられぬというのはなんだかもどかしいものだ。
「素手だったらエクトルさんの体温を感じられるんですけど、ちょっと残念ですね。……エクトルさん?」
「……………………ちょっ……待って……ッ」
私が握っていない方の手で顔を掴むように覆いながら天を仰いでいるエクトルは、その姿勢のせいで良く見えるようになった首まで赤く染まっていた。二人きりの時は表情の仮面をつけることなく物理的に顔を隠している彼だが、いつも大仰というか面白い程大きな反応を見せるのでつい、楽しい気持ちになってしまって――これはいけない。
(……わざとやってる訳じゃないんだけど、抑える気がなおさらなくなるというか)
おそらく。ほとんどの人は相手に愛情を伝えることを恥じらったり、
相手が喜ぶのが分かるせいなのか、私は好きだとこの人に伝えることにためらいがない。抑えなくていいと考えているし、エクトルの反応を見ると尚更素直に伝えてよいのだという気になるのである。……それで彼の心が大変な荒れ模様になるのは理解しているが、喜んでいる分には構わないだろう。
「……手袋しててよかったよ。素手だったら多分、今頃俺の心臓は破裂してるからね……本当に、もう、なんというか、俺たちなんでまだ結婚してないんだっけ……?」
「準備が終わらないからです」
「そうだったね……結婚してください」
待って、と言われてから数分経ったがどうやらまだ思考がまとまらないらしい。ソフィアの子が生まれて私の時間が取れるようになるまでの間、何度こうやって求婚されるだろうかとおかしくなった。これは冗談ではなく、早く結婚したいという彼の気持ちの表れだと思っているのでくすぐったい心地になる。
「準備が出来たらしますよ。……私も楽しみにしてますから」
同じ建物内で暮らしているとはいえ、鍵のかかるそれぞれの部屋で寝起きしているのだ。私の感覚としては宿屋で二部屋取って休むのとそんなに変わらない。
朝、目を覚ました時。一番最初に視界に映るのが愛しい人だったら幸福ではないかと思うことがある。だから、私だってその日を楽しみに待っているのだ。
「ん? ……来客、ですね」
薬師塔の表の扉には呼び出し用のベルがついている。しかし、使用人は建物内に入ることなく外でものをやり取りするし、護衛となる騎士は基本的に裏口から入ってくる。ここを訪れる客人などいるはずもないし、表口のベルが使われることはないだろうと思っていた。……何故だろう、嫌な予感と共に胃が圧迫されるような気分になるのは。
「ああ、じゃあ行かなきゃね」
「……そうですね」
いつも通りの笑みを浮かべたエクトルの耳や顔はまだ赤みが引ききっていないけれど、客人を待たせる訳にはいかない。しかも、こう、とても待たせてはいけない相手がやってきている気もする。
足早に扉に向かい「お待たせしました」と声をかけてから扉を開けた。やはりというか、そんな気はしていたのだが、黒髪黒目の楽しそうな顔をした王太子殿下がそこにいて、胃がキュッと鳴き声でもあげたような気がする。
「時間が取れたからな、話を聞きに来たぞ。……ああ、やめろ、膝はつくな。それよりソフィアに出したという甘い茶を私にも淹れろ」
色々と、貴族的にありえないであろうことが起こっているがまずは挨拶するべきだと膝をつこうとしたら止められ、客人は自らテーブルの方に大股で歩み寄って椅子に腰を下ろしてしまった。私はあっけに取られていたが、エクトルは仕方ないなと笑っているし、護衛としてついてきたドルトンは疲労の色を長く伸ばしながら固く目を閉ざしていた。……あとで彼に胃薬を差し出すべきかもしれない。
すぐにソフィアに献上した甘い茶を用意してカイオスに差し出すと、彼は満足そうに頷いてドルトンに視線を向けた。
「ドルトン、お前は暫く外でここに誰も入れぬように扉を守れ」
「はっ!?」
「よし、いい返事だ。内側の守りはエクトルに任せる。さあ早くいけ」
いつだったかこういうやり取りを見たな、と薬屋に二人を案内したことを思い出す。語尾上がり疑問形の「は」であってもカイオスの前では肯定にされてしまうのである。
疲労と苦痛の色を伸ばしたドルトンがしぶしぶ扉から出て行ったのを見送って、彼には絶対良く効く胃薬を渡してあげようと心に決めた。カイオスの護衛を務めるには生真面目でお堅い性格なのだろう。……私が知る王城の騎士は皆真面目でお堅いので、カイオスに付き合えていたエクトルの方が特殊なのかもしれない。
「さて……私にだけ話したいこととは、なんだ?」
興味の黄緑と楽しさを示す黄色を長く伸ばした王子を前にして、私は緊張を飲み込んでにこりと笑ってみせた。
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