第41話 【幕間】シルルの手紙
ジャンは仕事を終え、適当に部下と話した後すぐに家に帰った。二月ほど前にこの街を出た相手から、そろそろ何か知らせが届いてもおかしくはないとここ十日ほどは飲みに行くこともなく真っ直ぐ帰宅しているのだ。……いや、二十日ほどかもしれない。とにかく最近は仕事帰りに部下を連れて飲みに出かけていないのだが、ジャンにしてはとても珍しいことであった。
今日こそは何か知らせがあるかもしれない。そんな気持ちで家の扉を開けると、妻であるイルナが可笑しそうに笑って迎えてくれた。彼女の手には何やら高級そうな便箋が一つ。間違いない。
「おかえり。シルルから手紙が届いてるよ」
「おう。あいつやっと手紙をよこしたか。どれどれ……」
妻から渡された手紙を力を込めすぎて破かないようにそっと開封したジャンは、さっそく中身を読み始めた。背後でそんなジャンを笑う妻の声も明るい。この家と手紙の相手――シルルはとても関わりが深い。
ジャンにとってシルル=ベディートは親友の忘れ形見であり、娘のような存在だ。イルナも娘がいたら、と言いながらシルルを可愛がっていたし、息子にとっても妹のようなものだろう。ベディートとドバックは家族ぐるみの付き合いをしている家だったのだから。
(……ロルフとジニットが死んだ時は、家で引き取ろうとも思ったが……)
事故で二人が死んだと聞いた時、ジャンは真っ先にシルルを引き取るべきと考え、イルナもそれを承諾した。しかし当のシルルは店を継ぐとそれを断ったのだ。
本来なら見習い仕事を始める十二歳を前にして両親を失った子供が仕事などできるはずもない。しかし彼女はそれまでずっと両親の手伝いをしていたし、すでにそこらの薬屋よりも良い薬を作ることができていた。だからやる、店を守ると固い決意を告げられて、ジャンはそれを応援するしかできなくなった。
(まあでも、思っていたより上手くいった。シルルの薬は出来がいいし、何より真面目だからな。大人も応援したくなるってもんだ)
彼女を憐れに思った大人も多かった。最初は同情から薬を買いに行った大人たちが、薬の効果に驚いてすっかり常連になり、子供相手に“相談”までするようになって、薬屋ベディートは子供が経営している店であるにも関わらずそれなりに上手く回っていた。いつの間にか相談は占いと呼ばれるようになって若い女性客で繁盛するようになっていたが、まあそれでもシルルの店の経営が傾く様子はなく。増えた客の分忙しく働いているのが分かって、倒れやしないかという心配はしたが店のことを不安に思うことはなくなっていた。
(それが気づいたら王宮勤めだもんなぁ……立派になった)
生まれた時から成長を見守ってきた。「ジャンおじさん」と足元に駆け寄ってきていた少女は今や王宮勤めの大出世を遂げたこの街自慢の占い師――いや、薬屋である。
心配がない訳ではない。シルルは他の人間には見えない特殊なものを見る力を持っている上に、お人よしな性格もあって困っている人間を放っておけない性質だ。ジャンにもそう言った部分があるので気持ちは分かるのだが見ている方はハラハラする。
手紙では王城の暮らしに不満はなく、仕事が充実していると書いてあるがその性格で余計な仕事を増やしたり、余計なことに首を突っ込んで苦労したり、しているのではないだろうか。シルルの性格ならそういう心配をかけそうなことは絶対に手紙で寄越さないので順調そうに見える内容でもやはり心配になってしまう。
そんなジャンの目にある言葉が飛び込んできた。
「何ィ!!!???」
「ちょっと、うるさいよ! ……何か問題でもあったのかい?」
「……ああ、いや、問題はねぇ。…………問題はねぇが………」
瞬間的に声を上げてしまったジャンは、驚きが半分、心配をもう半分といった様子のイルナに首を振ってこたえた。そしてもう一度同じ文を読み返す。納得できずさらにもう一度。何度読んでも変わらない「婚約した」という言葉。その相手はなんと、少し前までこの辺りを騒がせていた“花の騎士”エクトル=アルデルデであると記されている。
云わく、泣かせた女は星の数ほどいる。女たらしで女好きの恋多き男。相手を定めることなく遊びまくる、不誠実な輩。そんな噂をされる軟派な美男子が、エクトルである。この街で知らぬものなどいない。実際はそんな性格ではないらしいと知っているものの、あの男がシルルの婚約者だというのか。
二人の間にそういう雰囲気は感じていたが、いざ事実を目の前にするとなんともいえない衝撃に襲われる。
「シルルが……婚約したらしい……」
「そりゃあめでたいじゃないか!」
「いや、そりゃ……そうだが……」
あのシルルが婚約。誰とも結婚する気などありませんと言い放っていたあのシルルが。ベディートは養子をとって優秀な薬師を育てて継いでもらいたいですと言っていたあのシルルが。恋愛なんて相談だけでお腹いっぱいですよと言っていたあのシルルが。婚約をしたと書いている。信じられない気持ちとよく分からない複雑な感情で唸るジャンに、イルナが呆れ交じりのため息を吐いた。
「どうせあれだろう? いつもの」
「……いつものなんだ」
「腕っぷしが強くて、シルルを路頭に迷わせる心配がないくらいの財力があって、何があってもシルルを守り抜く気概があってなんなら見た目もいいくらい完璧な男じゃなきゃシルルに見合わない、とか言うやつだろう? いる訳ないじゃないか」
そういえばそんなことを何度か酔って口にした。シルルは可愛い俺の娘みたいなものだから、中途半端な男にはやれない。それくらい完璧な男でもいないと任せられないと。
(全部……揃ってやがる……っ)
この街の騎士団の中でも一、二を争う剣の腕。騎士という高給取りかつ信用のある職業。何としてもシルルを助けるという強い想いを持ち、実行できる男で、容姿はとびぬけて良し。何より、シルルが信用している相手。
(……シルル以外には見向きもしなさそうだし、浮気の心配もねぇだろうが……)
エクトルという男が噂と違う人間だと知ったのは、シルルと話す様子を見てからだ。思っていたよりも根がいい奴なのは分かっている。シルルが攫われた時はジャンの元まで切羽詰まった様子でやってきて、必死に彼女を助けようとしていたし、実際に誘拐犯から救い出した。
ジャンが知る限りあれほどいい男もいない。他にいないはずだ。いないはずだが、しかし。
「なんでか気に食わん……!」
「これだから男ってのは……まあ、私らは本当の親じゃないし、あの子が決めたことに反対する立場じゃないよ。挨拶にだってくるかどうか」
「いや、今度連れて来るって書いてある」
ジャンとイルナは、シルルの親ではない。
それでもシルルもまた、自分たちを家族のように思ってくれた。だから婚約者を連れて挨拶にくると手紙に記されている。
「……そうかい。それじゃあ、しっかり家族として迎えないとね」
イルナが嬉しそうに笑って、鼻歌を歌いながら夕食の支度を再開した。ジャンはもう一度丁寧な字が綴られた手紙に目を落とす。
『――共に歩みたいと思う、信じられる相手ができました。私はもう一人ではありませんから心配しないでください。今度そちらに戻った時にエクトルさんとご挨拶に行きますね。私にとってはジャンさん達が第二の家族なので、私の大事な人を紹介したいです』
思い出すのは葬式のあとのこと。小さな彼女に視線を合わせてしゃがんだジャンは「うちに来るか」と尋ねた。子供らしからぬ固い表情をした少女は、泣きはらした後の赤い目に決意を浮かべて首を振ったのだ。
『ジャンおじさん……いえ、ジャンさん。私は一人でも生きていけます。そうできるよう、父と母が育ててくれました。だから、心配いりません。大丈夫です』
一人で生きていけるから心配するなと、幼き日にそうはっきりと言った彼女をずっと心配していた。人が一人で立ち続けるのはきっと難しい。誰にも寄りかかることができずに潰れてしまいやしないか。ただでさえ他の人間にはない不思議な力という重荷を持って生きているというのに。
(でも、もう本当に大丈夫なんだな。……ちったぁ、安心か)
もう一人ではないと、信じられる相手ができたのだとあのシルルが書いているのだ。心が見えてしまう彼女がそう思うのだからエクトルが善人なのは間違いない。心底シルルを想っていて、シルルもそれを知って受け入れているのだろう。
しかし当人たち以外がとやかく言う資格などないと分かっていても、やはり娘が嫁に行く父親というのは受け入れがたい心境になるものなのか。嬉しいはずなのにやはり言い表せない複雑な感情が渦巻いている。
(……ロルフだったらどう思ったか……あいつは俺と違って穏やかな奴だったが、娘馬鹿だったからやっぱり気に食わなかったかもしれん)
親友の分もしっかりエクトルという人間を見るべきだ。……反対は、しないが。せめて幸せにすると誓わせるくらいは、親友の代わりに自分がするべきだと、そう思う。
「イルナ、シルルが相手を連れてきたらお前は絶対腰を抜かすぞ」
「なんだいそりゃ。あたしでも知ってる相手かい?」
「ああ、知ってるやつだ」
むしろこの街で知らない人間はいない。誰も想像なんてしていないだろう。この街を離れたエクトルは王都でも浮名を流しているに違いないと思われている。
どうも本心を隠す癖があるような男なので、おそらくこの家に来ても取り繕って色々とイルナに勘違いをさせそうだ。
(……まあその誤解くらいは解いてやるが、問題はあいつがシルルを幸せにできるかってことだ)
二人が並んだ姿を想像する。想像したその二人は幸福そうに笑んでいるが――――どうも手玉に取られているのは男側であるように思え、低く笑った。
(うちのシルルは手強いからな。せいぜい尻に敷かれないように頑張れよ、花の騎士)
その男は尻に敷かれるどころか毎日のように心臓を叩き壊されそうになっているなどとは露知らず。ジャンはいつかやってくるであろう二人の姿を思い浮かべ、もう一度最初から手紙を読み直すことにした。
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