第32話



 騎士団の訓練所で補給水にフェフェリを混入させたのは貴族の女性であり、混乱している訓練所の傍で様子を窺っていたのですぐに分かったという。彼女の話ではエクトルに差し入れる水にだけ薬を盛るはずが、手を滑らせて大元の補給水容器に落としてしまったのだとか。その話が事実かは分からないが、被害に遭った騎士達は誰も爵位持ちではなかったので、暫く謹慎という処分のみで終わったらしい。カイオスは笑顔だったが頭が痛いと言っていた、とエクトルから報告された。



「なるほど、これが貴族社会ですか」



 貴族であっても罪を犯せば許されないが、今回のように怪我人や死人が出た訳でもなく、また被害者に貴族がおらず平民のみであったら罪にはならない。叱られて謹慎処分を受け、社交界で笑い者になるくらいで済むのだ。まあ、見栄を張る世界で笑われるというのはそれなりの罰なのかもしれないが。



「貴族かそうでないかって大きな差だよね。俺も爵位を目指そうかと思っちゃったよ」



 エクトルは騎士である。望んで努力すれば騎士階級の爵位を持つことができるし、彼の実力から考えれば本当に現実可能な範囲にいるのだろう。爵位があれば序列の最も下であっても貴族だ。他の貴族から受けた迷惑をなかったことにする必要はない。けれど、貴族というのはしがらみも多い。本当にそれを得たいかどうかは、エクトルがよく考えて決めることだろう。



「ところでさ。俺が普通に出かけられる方法って、どんな方法かな。昨日聞いてからすごく気になってたんだけど」


「ああ、それですか。じゃあまず、必要なものをとりに行きましょう。……薬草園に」



 私は宮廷薬師として薬に使う植物の世話もしている。種や苗を支給されたものがほとんどだが、薬草園には私が持ち込んだ植物もいくつか植えさせてもらっていた。……薬に関係がないものはないので問題はない、はずだ。

 その中の一つが、人を惑わせる魔花、シュトウムである。数本の株しかなかったシュトウムは育てているうちに増えていき、今では二十を超える数になっていた。幻惑作用のある魔力が漏れないように様々な工夫を凝らした花壇を作らなければならないので手間もかかるが、その分利益も大きい。



「……この花壇、シュトウムを植えたところだよね。植えた時より広くなってる気がするけど、数が増えたのかな? 何か影響でたりしない?」


「周りに影響が出ないようにちゃんと工夫はしてあるので大丈夫ですよ。ここに来るのに迷う人はいないでしょう?」



 この花は人を惑わせて近づけなくする力を持っている。実際この塔に人が近づかなくなってくれたらそれはそれで己の身を守ることにもなりそうだが、仕事に不都合が出てしまうのはよろしくない。

 しかし色々と研究価値のある花でもあるので、私としては大事に育てて数も増やしたい所存である。まあ、私が手を加えなくてもシュトウムは強い植物だから勝手に増えるのだけれど。私がやることといえば増えたシュトウムの分、特殊な花壇を拡張するくらいだ。

 そんな花壇の中から大きく開いたシュトウムの花を一つ手折る。それを胸元に寄せながらエクトルを振り返った。



「私の顔が見えますか?」


「見えるけど……変だな。君の顔が分からない」


「予想通りですね。胸のポケットにでも挿しておけば幻惑作用で……」



 大量のシュトウムは姿を消してしまうほどの力を持っているが、それが一本ならどうだろうか。認識を阻害するシュトウムの花を顔の傍に持ってくればうまく顔を認識できなくなるのではないか。その予想は当たっていたが、エクトルの頭上に悲しそうな色が伸びていくのは予想外だった。



「……あの、なんでそんなに悲しげなんですか」


「シルルさんの顔が認識できないんだ。ぼやけている訳でもなくて、ちゃんと顔があるって分かるけど……どんな顔をしているかとか、全く分からなくて。俺、君の表情が好きだから、なんだか悲しい気がするなーって」



 そんなことを作り笑いで言われて、私はつい目を逸らしながら白い花を後ろ手に隠すように持つ。そうすればたった一輪の花の効果は薄れ、見え方も元に戻るはずだ。それは見えていた悲しみの色が消えたことからも分かった。……私の顔が分からなくなるだけでそんな反応をされるとは思っていなかったので、少々面食らった。



「……まあ、とにかくですね。この花を顔の近く……胸元あたりに飾って、抗シュトウム薬を飲めば問題なく町に出かけられるのではないかと思いまして」



 抗シュトウム薬。つまり幻惑作用を打ち消す効果のある薬は、以前エクトルと共にシュトウムの湖に出かけた後に作ったものだ。飲めば一日はシュトウムに惑わされることはなくなる。この薬は魔力持ちである私で試しても効果が分からなかったので、エクトルの協力の元完成したのだけど。


 シュトウムは魔花であり、魔力がないと見えない。これの存在を広めることは私が魔法使いであることを知られる可能性を高める行いである。だからこの花に関連する研究はエクトル以外に協力を仰げないのだが、試薬の実験を他人にお願いしたことなどなかった私としては中々心苦しかった。ただ、彼自身は二人の秘密という部分に大変喜んでいたが。

 毒性の有無だけは自分で試したので安全性に問題はないはずだが、それでも心配だった。エクトルが薬を味見する私を心配になる気持ちを理解できた気がする。まあ、今後も味見を控える気はないのだけど。



「うん。これなら顔を隠さずに出かけられそうだね。……初めてだな、君と街を歩くのは」



 これで町の人間にはエクトルの顔が上手く認識できなくなる。そうしなければエクトルは女性たちに囲まれてしまうし、私が一緒に歩けば嫉妬をぶつけられるだろう。本当は、こんなことをしなくても堂々と二人で歩けるのが一番いい。でもそれは今叶わないことだから、こういう対策が必要になってしまう。

 それでも彼はとても嬉しそうな色を見せて、柔らかく笑っていたから私も少しだけ笑みを浮かべた。私も王都の街を散策するのは初めてだし、二人で出かけるのは楽しみだ。彼にもたまには普通の買い物を楽しんでもらいたい。



「でも花って水につけないとすぐ萎れちゃうんじゃない?」


「そのあたりは過去に実験済みです。シュトウムは魔花ですから、魔力を与えていれば萎れも枯れもしません」


「そうなんだ。じゃあ、ここのシュトウムはシルルさんの魔力で育ってるのかな? ……あ、でも世話しにきてるの見たことないような」


「シュトウムは勝手に養分を集めるので、特に何もしなくても増えるんです」



 私の魔力を与えても増えるのは確認済みだが、それは実験として行っただけで普段はほとんど手を加えていない。というか、私がシュトウムの世話をしない方が薬草園全体のためになる。

 その時ひらりと視界に黄色い羽の蝶が入ってきた。エクトルにもそれは見えたのだろう、軽く目で追っている。しかしそれがシュトウムの花に止まると彼の視界からは消えてしまう。



「そういえばこの薬草園、虫があんまりいないよね」


「はい。シュトウムが駆除します」


「……え?」



 この花の幻惑作用は生命力の強い動物を避けさせるが、小さな虫は全て引き寄せているらしいのだ。花壇で抑え込んでいてはいるものの完全に遮断できていない魔力があたりに漏れ出ていて、それはこの薬草園の維持に大変役立っている。

 私の視界では土からせせり出てきた根が素早く蝶を捕まえて地面に引きずり込んでいるのだけど、見えていないエクトルにそんな光景を説明すると彼の笑みは固まった。恐怖の色が伸びている。



「それ……身につけて大丈夫かな」


「動くのは根の部分だけですから大丈夫ですよ」



 シュトウムの本体は恐らく根の部分であり、そこさえ傷つけなければ何度でも花は生えてくる。茎から切り取っても翌日には花のつぼみができている程の再生速度で、初めて見た時は驚いたものだ。植物として扱っているが本当は魔獣の類似種なのかもしれない。

 そう思いながら自分の分も手折った。彼が不安そうにこの花を見ているので、危険なものではないと安心してもらうために私もつければいいと思ったからだ。それに、彼にだけ幻惑作用のある花をつけさせるというのも不公平な気がして居心地が悪い。彼が隠れなければならないなら私もそうするし、逆もまたしかりだ。



「シルルさんもつけるの?」


「はい。おそろいですね」



 特別な意味があった訳ではなく、ただ同じものを身につけるのは“おそろい”だとよく店に来る客がこぼしていた言葉を思い出して口にしただけだった。けれど、エクトルの頭上には喜びの橙色が勢いよく伸びていって、本当に嬉しそうに笑み崩れた顔が見えたのでさっと目を逸らす。……喜ばせようという意図があった訳ではないのにこの人は私の言動に反応しすぎると思う。



「じゃあ出かける準備しよっか。薬の効果が出たら出かけよう」


「……そうですね」



 塔内に戻ってエクトルに抗シュトウム薬を渡した後、それぞれの部屋に戻る。薬は三十分程度で効果が出始めるのでそれまでにさっさと支度を済ませてしまおうと少し急いだ。

 顔はシュトウムで認識されないとはいえ、目立つ服を着ていたらあまり意味がない。王城で支給されている服は一目見て分かる高級品だし、見る人が見れば王城勤めの薬師だと分かってしまう。これを着て町中をうろつくのはいかがなものだろうか。

 そういう訳で私服に着替えたのだが、ここに来てからは仕事服であるローブばかり着ていたので薬屋だった時に使っていた服に袖を通すのは久しぶりだった。

 

(なんだか、懐かしい)


 王城暮らしが始まってまだ一ヵ月程度だが、町で薬屋をやっていたことがずっと昔のような気分だ。鏡に映る一般的な町の女性の出で立ちの自分が少し、不思議だった。

 さて、今日の買い物の目的は耳飾りである。石の値段は様々だが恋人同士なら値段も控えめのものを買い、婚約の段階で選びなおすのが一般的だ。……一般的なのだが。


(エクトルさんだからなぁ)


 彼の私への愛情の大きさは、よく知っている。何せ、私にはその大きさが目に見えるのだから。そんな彼が恋人用の安い石を買い求めるだろうかと考えると――ないだろう。お財布には多めの金額を収めておくことにした。


 部屋を出るとエクトルが既に廊下に佇んでおり、私の姿が見えるなり笑顔で軽く手を振ってくる。同じ場所に住んでいて、先程まで一緒にいたのに少しでも離れるとこれだ。ひらひらと振られている彼の手が喜ぶ犬のしっぽに見えてきた。……いや、これは失礼なのでやめておこう。



「シルルさんがその恰好してると懐かしいな」


「……エクトルさんも懐かしいですよ」



 極めて一般的な町娘の恰好をした私と、地味で質素な服を着たエクトル。彼が薄汚れたマントを被っていれば薬屋にいた頃の私達だ。

 しかし、それにしても。彼はいつもマントを被っていたから気にしたことがなかったが、地味で質素な服を着ているはずなのに派手な印象を受けるし、目を引く。ここまで容姿が整っていればどんな服を着ようと関係なく惹かれるので、マントでも被って顔を隠さないと町を歩けなかったのだなと今更ながら納得した。

 エクトルは私の姿を見てなんだか嬉しそうにしていたが耳の上に挿したシュトウムに目を向けて、更に橙色を伸ばした喜んだのに、何故か藍色不安も伸びるという妙な心の動きを見せている。



「シュトウムがどうかしました?」


「うん、君は可愛いから花が似合うなって思ったんだけど……シュトウムが似合うって、誉め言葉になるのかな。これ言って不快にならない?」


「……花自体は綺麗なので、悪くはないかと」



 そっと顔の横にある白い花に触れて、目を逸らす。彼は私を好きだとは言うけれど、可愛いだとか綺麗だとか、そういう言葉はあまり使わない。おそらく自分が容姿について褒めそやされることを好いていないのだと思う。あとはまあ、今サラリと出てきたということは思っていても素直に口にできないという理由もあるかもしれないが。

 つまるところ。私はそういう言葉に慣れていないので、少しばかり恥ずかしく思ってしまった。ついでに頬も熱を持った気がする。



「か……ッ…………もしかして俺、もっと君を褒めていいのかな」


「いえ、必要ありません」



 何を言いかけたかは大体予想がつくけれど、本当に必要はないので断っておいた。彼の気持ちは知っている。見えていれば己がどう思われているか不安に思うこともない。



「あの、じゃあ……時々言うのは構わないかな」


「……それは私が止めることではありませんが」


「うん。ありがとう」



 お礼を言われることでもない。でもとても嬉しそうにしているからなんだか居た堪れなくて、先に歩き出しながら「行きましょう」と声をかけた。

 王都に来てから初めての外出だ。自然と心が躍り、足は軽く感じた。


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