番外 王城編
第29話
王城の片隅に家を賜り、そこで宮廷薬師兼カイオス王子の専属相談役として暮らすようになって一日目の朝。今まで使っていた薬屋の固い寝台より遥かに質が良く、何なら商人に捕まってしまった時に使わされていたものとも雲泥の差があるような、とてつもなく心地のいい柔らかなベッドからゆっくり体を起こした。
今まで寝具から離れがたくなったことなどなかったのだが。……これは恐ろしい代物だ。生まれて初めて二度寝というものをしたくなった。
与えられた自室には水場もあり、大きな鏡もあり、服が詰まったクローゼットもあり、その他色々と揃っている。この部屋の中だけで完璧に身支度を終えることができるその広さと設備に驚くばかりだ。しかもすべてが質の良い高級品である。昨日までの生活と違いすぎてかなり気が引けるのだけど、これには慣れるしかない。
全身を映せる大鏡の前で、支給された紺のローブを着て身なりを確認する。真新しく質のいい布で作られているのに、薬師というより魔術師っぽいと思ってしまうのは私が魔法使いだからなのか。
(よし、行こう)
気合を入れながら部屋の扉から出ると、廊下には近衛騎士にだけ許される黒を基調にした騎士の制服を着たエクトルが待っていて、私を見るなり笑顔で手を振った。その頭上にはぐん、と喜びの色が伸びていく。
「おはようシルルさん。似合ってるね、その恰好」
「おはようございます。エクトルさんも似合ってますよ」
「……そう? それはよかったなぁ」
そんな挨拶を交わしながらも彼の頭上に伸びる
「喜びすぎなのは自覚してるんだよ? でもさ、仕事でも一緒に暮らせるのは嬉しいっていうか」
「なるほど。そういう意味ですか」
私たちが住むことになったこの建物は「薬師塔」と呼ばれており、宮廷薬師のための建物だ。調合設備から居住区域、薬草園まで併設されているので、私はカイオスに呼ばれない限りこの区域から出る必要がない。というよりも、出てはいけないのである。
城から少し離れたこの場所で、平民である私は貴族の目につかないようにこそこそ働かなければならない。というのが表向きの理由で、実際そうやって貴族に会う機会を極力減らして守ってくれているようだ。
ただ、貴族が少ない場所というのは護衛の騎士も少ない。エクトルは私を守るため共に生活をするように、とカイオスに言いつけられたのだ。
(……あれはそれだけじゃない気がするけど)
昨日のカイオスの姿を思い出す。私が彼に言い渡された任を受けた後のことだ。
「お前たちの関係は思っていたより良好のようだな。ならば共に暮らすのも抵抗はあるまい」
「は?」
「お前は存外表情が豊かで面白いな」
カイオスに何を言われているのか理解できずつい尖った声が出た。私のその態度は王族に対して不敬であったと思うけれど、礼儀など求めていないと言うだけあって彼は気にした様子もなく口角を吊り上げながら言葉を重ねる。
「護衛が護衛対象から離れては意味がない。よって、お前たち二人はともにこの薬師塔で生活するように」
――そう言い放った暴君のような王子様は、大変楽しそうな顔で大変楽しそうな色を伸ばしていた。
別に同じ部屋で寝泊まりするわけでなく、大きな建物の中にそれぞれ自室を与えられて暮らしているだけなので同じ家に住んでいるという感覚は私にはないのだが、エクトルはそれを喜んでいるらしい。
「朝食と今日の仕事依頼がそろそろ届くと思うよ」
「届けてくださるんですか。……ありがたいですね」
ここでの生活は基本的に家事をする必要がないと聞かされている。私がやるべきことは薬草を育て、薬を作り、カイオスの呼び出しに応じることでそれ以外のことは使用人がこなしてくれるらしい。
もちろん、私が自分でやりたいと言い出せばやらせてもらえるのだろうけれど。店の在庫をほとんど売り切る程であったし、今しばらくは環境に甘えて薬作りに没頭させてもらおうと思う。
エクトルと共に裏口に向かうと、そこにはぽつりとカートが置かれていた。布がかけられていて中身は見えないが、胃袋を刺激するいい匂いが漂っている。
ただそこにカートがあるのみで辺りに人の気配はすでになく、やはり誰にも会わないように配慮されているのだろうと思いながらそれを家の中に運んだ。
カートに掛けられた布を取れば一番上に仕事の依頼が書かれた紙が乗っていて、下の段にはまだ湯気の立つ温かな料理が並べられている。食事は冷めないうちの方が美味しいのは常識であるので、依頼書はひとまず置いておいてまず食事にすることにした。
エクトルと二人で食事の用意をしたが、彼は終始鼻歌でも歌いそうなほど機嫌がよさそうな色を見せていて、それを見ている私まで笑いそうになる。
「朝からシルルさんと食事が摂れるなんて、いい生活だって浮かれちゃいそう」
どう見てもすでに浮かれているのだが、そこはあえて言及することもなく食事を始めた。すると、エクトルの頭上に半透明の悲しみが伸び始めた。それを訝しみながらまだ湯気の立つ野菜たっぷりのスープを口に運び、その香りと味を楽しもうとしたところでほんのわずかな雑味を感じとって、スプーンを置く。
「エクトルさん、このスープは飲んではいけません」
「どうしてだい?」
「フェフェリが入っています。他は……ちょっと待ってくださいね、味を見ますから」
驚きとわずかな恐怖の色を見せながら、笑顔のままパンを手にして固まっているエクトルを心配しつつ、食事として運ばれてきたものを一口ずつ口に含む。パンは問題なくふわふわで美味しい。彩りが美しいサラダにも、綺麗な焼き目のベーコンや卵にも異常はない。媚薬と呼ばれるような薬を混ぜられているのはスープだけだ。
「スープ以外は大丈夫です」
「……毒見みたいなことさせてごめんね。俺と暮らすと君にも迷惑かけちゃうなぁ」
「エクトルさんのせいではないですよ」
彼は笑みを浮かべていて、明るい声でいるのに見える色が悲しそうで、それを見ているとちくりと胸を刺されたような痛みを感じる。さっきまでとても嬉しそうだったから、尚更に。
「うん、ありがとう。君が気にしないでくれるのはとてもありがたい。きっとこれからも俺のせいで色々あると思うけど」
「エクトルさん、怒りますよ」
「……え?」
「貴方のせいではない、と言ったじゃないですか。悪いのはこれをやった人間であって、被害を受けた貴方に非はありません。必要以上に自分を責めたら怒りますからね」
傷ついているのに、余計に自分を傷つけるようなことは言わなくていい。少なくとも、私の前では言わないでほしい。
理不尽な事件が起きた時、被害者を責める者というのは必ず出てくる。被害者本人ですら己を責めることがある。でも、悪いのは絶対に危害を加えた者だ。玄関の鍵が開いても盗んでいい理由にはならないし、同じようにエクトルが魔性と呼べる魅力を持っていても薬を盛っていい理由にはならない。被害者を責めるのは間違っている、と思う。
「私は貴方と暮らせてよかったと思います。こういうことなら、私がエクトルさんを守ってあげられますから」
私に腕力はないし、人攫いに遭えば抵抗する力も持っていない。だから護衛が必要で、それはエクトルが担ってくれている。でも、彼に降りかかる災厄を予知したり退けることは、予想線が見えて治癒魔法使いで薬屋の私ならできるはずだ。
そう思っての発言だったのだが、エクトルは何故か片手で顔を押さえていた。最近よく見るようになった仕草で、こういう時は大抵喜びと恋の予想線が大いに伸びている。今もそうだ。ついでに悲しみの色が綺麗に消え去っていたので安心した。
(それにしても、本当に長くなったなぁ……恋の色が)
恋の予想線というのは恋をする人間の頭上に常にあって、その感情が強く揺さぶられれば一時的に長く伸びる。気持ちが落ち着いてくると線も短くなるが、元々の長さよりも伸びていればより相手を好きになった、と判断できるのだ。それが積み重なって伸びた恋の色は、元々が長いのだから揺さぶられて伸びると大変長く伸びて見える。
エクトルの場合、最大値がそろそろ天井に届きそうにな長さになっていて、好かれているのはよく分かるのだが何だか笑いそうになってしまう。
「これ以上君を好きになったら俺、どうなるんだろう」
恋の色が天井を突き抜けるようになりますね、という言葉はふわふわのパンと共に飲み込んだ。
異物が混入されているスープ以外を綺麗に食べ終えたら皿をカートに戻し、届けられていた位置まで運ぶ。そうしておけば使用人が片付けに来るらしい。
カートを外に出すため裏口の扉を開けようとしたら、エクトルに止められた。
「外に誰かいる。……使用人だね。でも、基本的に姿は見せないように命じられてるはずなんだけど」
裏戸の小さな覗き穴から外を見たエクトルの発言になんとなく状況を察しつつ、交代で私も覗き窓から使用人の様子を窺う。その頭上にある不審な色から彼女がスープのことを知っていると推測できた。
「エクトルさんはここに隠れていてください。私が行きますので」
「それはダメだ。俺は君の護衛なんだよ」
「……なら、顔を隠した方がいいかもしれません」
エクトル目的なら何があるか分からない。彼にはフード付きのマントを被って顔を隠してもらい、それからカートを外に運ぶ。
使用人の女性は扉が開く音に気づいてこちらを見た後、私の姿を視界に入れて驚きの色を見せていた。
「あ、え……薬師の方、ですか?」
「そうです。お食事、ありがとうございました」
「い、いえ……そんな」
私の姿を見て酷く狼狽えている彼女の予想線の動きに、ふと気づいた。この使用人は後ろに控えている護衛には一度も目を向けない。ということは、護衛が花の騎士であることは知らないのではないだろうか。
フェフェリの媚薬は、私――というより、宮廷薬師となった平民を狙ったものだったのでは、ないだろうか。
「薬の専門家に薬を盛るのは、意味がないかと思いますよ」
「っ!?」
「他言はしませんので、これ限りにしてくださいね」
言葉も顔色も失くした彼女は、慌てた様子でカートを押していなくなる。それを見送ってから室内に戻ると、フードを外しながらエクトルが「どういうことだい?」と尋ねてきた。
「あのスープはエクトルさんを狙ったものじゃありませんでした。標的は私だったようで」
「……君は女の子だよね?」
「知らなかったのでしょう。宮廷薬師に取り立てられた平民とだけ、聞いていたのではないですか?」
「ああ、そっか。カイオスは君の情報をできるだけ出さないようにしてたから」
地元では顔も名も知られている私だが、この王都では全くの無名だ。その上カイオスが私のことを最後まで隠していたから、王子に気に入られて召し抱えられた宮廷薬師の正体はまだ、そこまで知られていないのだろう。
情報に敏い貴族たちなら私がどこで仕事をしていたどういう人間なのか調べているかもしれないが、下働きの人間は噂程度しか知らないと考えられる。そして噂というのは尾ひれ背びれがつくもので、私の性別すら曖昧になってしまったのだと推測できた。
(平民で王子に気に入られた薬師の
相手が貴族でないから、薬を盛るといった強引な手段もとれる訳だ。そしてこの薬師の護衛に花の騎士がつけられていることもまだ、知られていない。
(大変なのはこれから、かな)
今までとは全く違う生活が始まる。今までとは違う危険や、注意すべきことがあるだろう。港町で小さな薬屋を営んでいた時とは何もかもが変わってしまう。だが、ここにいれば私の薬はもっとたくさんの人の役に立つことができる。……やりがいは、あると思う。
「依頼書を確認して薬を作ろうと思います」
「うん。じゃあ、俺はあたりの警戒をするよ。侵入者なんて許さないから、シルルさんは安心して薬を作ってね」
橙色を伸ばして笑っている整った顔を見て、やるべきことを一つ思いついた。今日の依頼分の薬を作ったら、まずはフェフェリの解毒薬を作るところから始めるとしよう。
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