第27話
夢ではないのかと、思う。行方不明になっていたシルルが無事でいて、俺を愛してもいいかなんて言ってくれて、腕の中にいる事が、本当に現実なのかと。この温もりは嘘ではないのかと、疑いたくなる。
「エクトルさん、ちょっと苦しいですよ。そんなに現実味がないですか?」
「……分かるの?」
「まあ、なんとなく。私が居るのを確かめているみたいだって思っただけなんですけど」
その言葉通りだったから、少し気恥ずかしくなりながら腕の力を緩めた。まだ離れがたいので離しはしないけれど、そういう気持ちも彼女には見えているのだろうか。ちらりと頭の上に視線を向けて、可笑しそうに目を細めている。
「ずっとここにいたら風邪をひきますよ?」
「うん、そうだね。君が風邪をひいたら大変だ」
「エクトルさんもですよ」
名残惜しく思いながらやっとの思いで離れた。彼女が居た場所に入り込む空気が冷たくて、急な寂しさに襲われる。……ああ、いけない。色々自制しないと。
シルルが攫われたと分かって感情が大きく揺れすぎたのだ。まだ落ち着いていないのか、ちょっとしたことですぐに波立ちそうになる。自分を抑えるのは得意だったはずなのに。
「よかったら手をつなぎましょうか」
「え? ……え?」
「寂しそうに見えましたので。手だけでも触れていれば、まだ落ち着くのでは?」
……彼女はこんなに積極的な人だっただろうか。いや、前から時々、とてもまっすぐな表現をする人ではあったけれども。だが、どうしようもなく嬉しいし、愛おしい。寂しさやら何やらが消し飛んでいく。
また俺の頭の上を見た彼女が満足そうだったので、そういう気持ちも伝わっているのだろう。差し出された手を取りながら自然と顔が綻んでいく。この人と居ると、とても気持ちが楽だ。
そのまま二人で手をつないで手配済の宿まで歩き、シルルには軽く食事を済ませてから休んでもらう。宿の周りには騎士が見張りとして立っているし、鍵付きの個室なら安心してゆっくり休めるだろうと思っていたが、部屋の前で別れようとする俺を彼女が引き留めた。
「あの……エクトルさんは、どこで休むんですか?」
「俺は隣の部屋で待機するけど、どうかした?」
「ああ、よかった。近くにいてくれるなら安心します。……おやすみなさい」
ほっとしたように笑う顔に手を振って応え、扉が閉められて彼女が見えなくなった途端座り込んで顔を押さえた。俺の恋人が可愛くて仕方がない。
扉の向こうから「うわっ」と何かに驚く声が聞こえて少し心配になったが、直ぐに「なんでもないです」という言葉もかけられたので安心した。とりあえず、隣の部屋に入る。今日は寝ずの番をすることになっているが、眠れる気もしないのでちょうどいい。
(……シルルさんは助けられたけど、これから大変だろうな)
あの日。森の日に彼女の薬屋を訪れて、どこにも姿が見えなかった時は絶望感を味わわされた。薬屋は定休日だが、午前中はいつも店の中にいた彼女が居ない。裏口の戸を叩いても返事がなく、閂もかけられておらず扉は簡単に開き、それなのに人の気配が全くない。瞬時に誘拐の可能性を考えた。
彼女は魔法使いだ。だから攫われたのか。いや、その秘密は細心の注意を払って隠している、ならば占いとして知られている能力の方か。それとも、それ以外の目的か。
焦る気持ちを押し込めて、まずは彼女の恩人であるジャンという大工の元へ向かった。事情を話せば、彼もまた顔色を変えた。町の顔役である男は直ぐに己のつながりを使ってシルルを探したが、やはりどこにも彼女の姿はなかった。
(生きた心地がしなかったな……あんなの、もう二度と御免だ)
空気はそこにいつも通りあるはずなのに、呼吸がままならないような息苦しさ。攫われたのだと分かってからのことはあまり覚えていないが、周りに当たり散らしたような気もする。
捜索願いが出されて、騎士団でも少人数だが捜索隊が組まれ、町中を探し回った。けれど、探しても探しても見つからないから「もしかしてもう死んでるんじゃ」なんて口にしたセザンに剣を抜いたのは致し方ないことだったと思うが、他の仲間には面倒をかけてしまっただろう。
どうしても誘拐犯の足取りが掴めなかったから、俺はシルルの話をカイオスの耳に入れるため動くことにした。シルル=ベディートは第一王子であるカイオスと専属契約を交わしていたのだ、王子にも確認を取ってくれ、と。――しかし、この情報が公になった時点で、もう、彼女はただの薬屋ではいられなくなってしまった。
(ごめんね、シルルさん。……俺はそれでも君を助けたかった)
町の娘一人の誘拐より、王族の専属となる娘の誘拐の方が重大な問題であり、動かせる力も当然大きくなる。……彼女を助けられる可能性をできる限り上げたかった。
カイオスの耳にその情報が届いた後は、彼からシルルの保護という命が出た。そうなれば集まる情報も格段に増える。その中には自分の主人の所業を密告する使用人の手紙があり、それが決め手となった。
彼女を助けるためには必要なことだったと思う。それでも、あの薬屋でシルルの姿を見られなくなるというのは、胸が痛む。彼女はあの店を大事にしていたから。
王族の専属となったら、王都から離れた町に住むことは許されない。彼女は城に招かれて、そこで暮らすこととなるはずだ。
(カイオスなら……配慮はしてくれるだろうけどさ)
彼女を無事に町まで送り届けたら、カイオスから呼び出しがあるのではないかと思っている。シルルのことはそれなりに話してきたが、実際にカイオスが彼女と顔を合わせたのは一度きりだ。できる限り話をして、彼女が望む形を整えてやりたい、と思う。
(城には俺もついていけるはずだから、俺はシルルさんを守ろう)
右手が使えるようになり、双剣使いとしての動きも身に着いた。対人戦において団長であるギルウィスにも肉薄し、推薦を受けて王族直属の近衛騎士に戻ることも決まっている。カイオスの護衛騎士は兄であるドルトンが務めているからそこに戻ることができないかもしれないが、それでもまた剣で親友の役に立てる機会を得た。それもこれも全部、シルルのおかげだ。
「今の俺があるのは、君のおかげだから……ありがとう」
聞こえないだろうが、壁の向こうで休んでいる彼女に向かって呟いた。感謝はしても、しきれないくらい。
馬車の事故で死にそうだったのを助けてくれた。ずっと抱えていた右手の痛みも消してくれて、再び剣を握れるようにもなった。右腕を失くすような大怪我を、重大な秘密を明かしてまで治してくれた。そして諦めていた近衛騎士にも復帰できる。それらはとても返しきれないような大恩だ。
彼女のためなら命を懸けていいと思っているが、それはきっと重たすぎるから口にはできない。……もしかしたら、そういう部分も見抜かれているのかもしれないけれど。
(でも、分かっていたとしたら、それでも受け入れてくれたってことだよね?)
締まりのない顔になってしまう。今日、シルルの姿を見るまではひたすら胸が苦しくて仕方がなかったのに、今は真逆だ。
だからこそ、二度と危険な目には遭わせないと誓おう。彼女は俺にとっての薬なのだ。傍にいてくれないと苦しくて死にそうになるのだから。
寝ずの番をしていたというのに、朝になっても気分が良かった。隣の部屋から物音がするようになったので、彼女が支度を終えて部屋を出てくるのを廊下で待っておく。朝食は宿の食堂を利用することを伝えなければならない。……早く顔が見たいという下心があるのも、事実だけど。
「やあ、おはよう」
「ああ……おはようございます」
扉が開いたらすぐに笑顔を浮かべて声をかけた。俺が居たことに少し驚いたように目を大きくした彼女は、直ぐに目元を柔らかく細めて笑って挨拶を返してくれる。それだけで幸福な心地になるのはなぜだろう。
「扉を開けるまで少し、怖かったんですけど……エクトルさんの顔を見たら安心しました。私、ちゃんと家に帰れるんですね」
攫われたことが余程怖かったのだろう。イグナーツとかいう商人はもっと締め上げておけばよかったと思うと同時に、俺を信頼してくれていると分かる彼女の言葉に喜びを感じてしまう。
あと、やっぱり朝一番に微笑まれて挨拶をされるという状況が、不謹慎だがやっぱり嬉しい。一緒に暮らせれば毎日こうなのかと思うと、それを望まずにはいられない。
「シルルさん、俺と一緒に暮らさない?」
「……色々すっ飛ばしすぎですよ」
「……ごめん、つい」
顔はいつも通りの笑みでいられたはずだが、欲望が漏れてしまった。己の緩すぎる口を押えていると、小さな笑い声が聞こえてきた。口元を押さえて、声を殺すように笑っている彼女の姿が目に入る。
「いつかそうなるんでしょうから、別にいいんですけどね」
……俺の恋人は、俺の心を揺さぶるのが大変上手い。
これ以上何か余計なことを言いそうになる口をしっかり押さえつけながら、少しだけ目を逸らした。
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