第25話
突如見知らぬ者に攫われてしまったら誰しも恐ろしくて堪らない気持ちになるものだろう。不安で、泣きだしたい気持ちにも襲われるだろう。
目が覚めたら知らない部屋ではあったものの、場所は牢獄ではなく自分の家にあるものよりも遥かに質の良い家具が揃えられた部屋で、使用人と思われる女性たちに丁寧に扱われていたので混乱の方が強かったし泣きもしなかったが、それでも怖いものは怖いのである。
(一体、誰が何の目的で、こんな……)
どこかで何かをやらかして、貴族に掴まってしまったのだろうか。しかしそれなら指輪があれば、離して貰えるかもしれない。先約がある、と分かれば手を出されないとエクトルもカイも言っていたではないか。
常に首からぶら下げていた指輪の存在を、服の上から確かめる。確かにここにあるのだから、きっと大丈夫だ。
(……今、何時だろう)
薬で気絶させられたので、体内時計は狂っている。窓にはカーテンがかけられていて、日の高さは確認できないし、近づこうとすると使用人たちに邪魔をされた。何をなさるおつもりですか、危ないですからこちらへ、と柔らかいソファに座らされて、高そうなお茶とお菓子を差し出され、丁重に扱われているのに身動きが取れない息苦しさを感じる。
(エクトルさんは……心配、してるだろうな)
私が攫われたのは森の日の朝だった。あの後、エクトルが訪れた可能性は高いと思っている。いつものように薬屋に来たら、鍵が開いていて私が居なかった――なんて。きっと驚いたし、心配している。早く帰らなければ。
(ジャンさんにも知らせは行ったかな……ああ、凄く心配するだろうなぁ)
エクトルが気づいたなら、まずはジャンに確認を取りに行きそうだ。そして私が居ないことが分かったら、きっと騎士団に捜索願いが出される。皆に迷惑をかけてしまって申し訳ない。……いや、攫った人間が悪いのであって、私は悪くないはずだが。
それにしても、攫った目的が分からない。何故、丁重にもてなされていながら、一室から出られない状況にあるのか。攫った人間が私をどうしたいのか、皆目見当もつかない。
とにかく情報が欲しい。この部屋には使用人が四人もいるのだから、この人達から何か聞けないだろうか。
「あの、私は何故ここに連れてこられたのでしょうか」
「私共は存じ上げません。ただ、お嬢様をここでもてなすようにとご主人様から言いつけられています」
「……そのご主人様、という方とお話することはできませんか」
「申し訳ございませんが、ご主人様はお忙しいお方ですのでおいでになるまでお待ちください」
なるほど。本当に何もさせてもらえない。これは、困った。
やることがないのでそのまま情報収集に励んでみたのだが。ここはどこか、ご主人様はどのような人物なのか、私はどうなるのか、などいくつか質問してみても「お答えできません」「存じ上げません」の二種類しか返答がなかった。情報を遮断されている。彼らからは何も聞きだせないだろう。
他に私が得られる情報といえば、この部屋に居る四人の使用人の感情くらいのものだが、それもあまり参考にならない。見えるのは
「……私は、家に帰れますか?」
使用人が主人に忠実とは限らない。主人の行いを非難する者も混ざっているようだ。常に部屋にいる四人の使用人の中でも私に同情しているらしい、群青色を持つ年若い女性を真っ直ぐ見つめて、そう尋ねてみた。同情心に訴えかければ、家に帰してもらえたり、逃がしてもらえたりできないか、という淡い期待を込めて。
彼女は一瞬、酷く悲しそうに眉を寄せたが、美しい動作で頭を下げて表情を隠してしまった。
「お答えできません」
なるほど、ここの主人とやらは本当に私を帰す気がないらしい。とにかく、本人と会って指輪を見せなければ話が進まないのは分かった。
――――結局、部屋から出られないまま、一週間が過ぎてしまった。主人とやらはこの館に戻ってきてないようで、会うことは叶わない。身を清めるのも用を足すのもすべて部屋の中に設備が整っているため、本当に出られないのだ。
魔法の保護が必要な薬はもうだめになっていそうだし、裏口を開けっぱなしの店の状態も心配だ。何もさせてもらえず暇であるからなのか、何度もエクトルの顔が浮かんでしまうのが、なんというか。自分でも奇妙だと思うのだけど。
(助けに来てくれるんじゃないかって、思ってしまう)
あの人ならいつもの顔で笑って、なんでもないように現れて、助けてくれるのではないかと思ってしまう。
それに、約束もあるのだ。もう二日後に迫る星月の夜を一緒に過ごそうという、約束をしている。……彼は約束を守ってくれる人だから。それまでには、来てくれるのではないかと。そんな期待を抱いてしまうのは、おかしなことだろうか。
「お嬢様、ご主人様がお呼びです」
「……分かりました」
捕えておいて一週間も放置してくれたこの館の主人がようやく帰って来たらしい。やっとその顔を拝むことが出来る。指輪を服の下から取り出して、見えるように首に下げてから会いに行った。
初めて部屋の外に出たが、かなり広い屋敷だと思う。私の薬屋が何軒も収まりそうな広さだ。私にだけつけられた使用人が、見張りを含むとはいえ四人は常にいたことから考えてもかなり裕福な人物なのだろう。
さて、どんな貴族が相手なのか。そう思いながら案内された部屋で待っていた顔に、少し驚いた。
「先日は世話になったね」
「……貴方でしたか」
それは薬屋に来るには珍しく高級品の服を身にまとっていた、商談についての占いを求めて帰っていった男だった。革張りの椅子にゆったりと腰かけて、扉の前に立ち尽くす私を眺めている。……彼は貴族ではないはずだ。富豪とはいえ、身分のない人間が人をかどわかすとは思ってもみなかった。
その男が私に良い感情を抱いていないのは、予想線を見れば分かる。不信感や警戒、怒り、嫌悪――そんな色を持っているのに、何故私を連れてきたのか。私を、痛めつけるつもりでもあるのか。
「何故、私を?」
「あの日の商談は失敗に終わったのだよ。君の占いの通りにね」
その日、彼は大きな商売をさる人物に持ち掛けた。小心者という噂のある相手だ、圧力をかければ簡単に話はまとまるだろうと思っていた。だが、相手はそれに屈することはなく「もっと違った方法を取ってくれていたら、結果も変わっていただろう」と残念そうに言ったのだ、という。
「君の助言はこのことだったのかと納得してね。その力は本物だ。私は、商談の前には必ず占い師を訪ねると決めているのだが……君が居れば私の商売はもっと、うまくいくはずだ」
私の力はそんなに使い勝手のいいものではない、と思う。今回はたまたま、私の予想が綺麗に当たっていただけで。せいぜい、翌日くらいまでのことしか分からないというのに。
それに、何より、私はここに無理やり連れて来られた。そんな相手の言うことを聞くと思っているのだろうか。
「誘拐は犯罪ですよ」
「私は君を客人として招いただけだ。使用人たちはしっかり君をもてなしただろう?」
たしかに、私はもてなされていた。服を着替えるのも、食事も、入浴ですらお世話をされて、与えられるものはどれも高級品で、今の恰好もどこのお嬢様なのかというふんだんに装飾されたワンピースである。けれど、私を薬で眠らせて連れてきて、外に出さないようにしているのだからどのような扱いをされようと、誘拐は誘拐だ。
「私を家に帰してください。別の方にお仕えするというお約束も既にあります、だから」
「いいや、君は帰らない。何故なら君はこの家の優雅な暮らしをいたく気に入って、帰る気がないからだ」
「……なるほど。
私が自らここでの生活を望んで、出ていかないのだと。そういう体裁をとるつもりなのだろう。それが本当に通じると、思っているのだろうか。
「けれど、私がお約束している方は
貴族の物に身分のない者、つまり平民が手を出したらただでは済まない。カイというあの貴族はとても変わっていて、平民であっても意味なく踏みにじることはしないだろうけれど。事が表沙汰になってしまえば、平民が逆らった事実をもみ消してまで守ってくれる訳はないのでは、ないだろうか。
男は億劫そうに立ち上がり、無言のまま私の前まで歩いてきたと思ったら、 首に下げている指輪を掴んで引き寄せた。
「痛……ッ」
「ふむ、これは…………ハハ! これは愉快だ!」
紐が首の皮膚に食い込んで痛かった。なんて乱暴なのだと睨みつけてみたものの、声を上げた私に目もくれず無遠慮に指輪を覗き込んでいた男は、突然声を上げて笑いだす。その頭上に、
「娘よ、お前は騙されたのだろう」
「だま、された……?」
「石に刻まれた紋章、これは王族が使うものだ。王族が小さな薬屋の小娘などを望むものか」
さっと血の気が引いた。騙されたと気づいたからではない。カイが王族である、と知ったからだ。今更になって地下で二人きりで過ごしたことがとても恐ろしい事だったのだと、過去の出来事に恐怖を覚えたというか、思い出し笑いならぬ思い出し震えに襲われているというか。
そんな私の様子を見て、目の前の男はどこか嗜虐的な笑みを浮かべた。何か勘違いをさせた、というのはその顔と楽しそうな色で理解した。
「お前に逃げ道などない。大人しくこの屋敷ですごし、私の商談がある日は占いをすればいい。生活は保障してやろう」
「待って、ください。これは王族の紋章なのでしょう、なら、貴方が危険で」
「ふん。信じたくないのだろうがな、諦めることだ。もういい、この娘を部屋に戻せ。私は仕事に出かける」
「話を聞いて、ください……!!」
男はそれ以上私の話を聞いてくれなかった。使用人たちに押さえられて外に出され、元の部屋に戻されてしまう。
使用人たちにもこのままではこの館は大変なことになってしまうはずだと訴えてみたものの、やはり誰も取り合ってはくれなかった。誰かが悪戯に渡した指輪に縋って、捕らわれるこの状況からどうにか逃げ出したい娘にしか、見えないのだろう。
結局、私は逃げられないまま、また二日が過ぎてしまった。星月祭のその日は、あの商人の男も仕事をする訳に行かず、館の中にいるようで、部屋の外が動き回る使用人の気配で少しだけ騒がしい。
この日の夜からはすべての人が休むべきなのに、私を監視する人数が減ることはない。二人の女性が私の身の周りの世話をして、二人の男性は窓と扉の前に控えている。
祝日であるはずのこの日も休ませてもらえず、攫われてきた人間の監視をしなければならない彼らも、ある意味私と同じ被害者である。
その夜の食事は、ご馳走だった。あの男はこの夜を、誰と過ごすのだろうか。私はこの部屋から出されないから知らないけれど、あの男の家族もこの館のどこかにいて、共に星月の夜を過ごすのだろうか。
……私は、使用人たちに見張られながら一人で食事を摂っているのに。
(エクトルさんと、約束したのにな)
私では鳥を丸々一羽使った丸焼きの料理も、分厚い肉のステーキも、高級な酒も出せはしなかっただろうけれど。それでもきっと、こんなに虚しい思いをすることはなかったはずだ。きっと、二人で過ごせたら、楽しかっただろう。
ご馳走であるはずの料理を前に食欲も湧かず、フォークを皿に降ろした時だった。にわかに、外が騒がしくなってきたのは。
「騎士団だ! 騎士団が乗り込んできた、その娘を隠せとのご命令だ!」
部屋に血相を変えて飛び込んできたその使用人の言葉に、私は顔を上げた。エクトルが来てくれたのだ、と。何故かそう確信したし、椅子を蹴飛ばすように立ち上がってすぐに走り出した。
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