第10話



「おはよう、今日もいい天気だね」


「いらっしゃいま、せ」



 薄汚れたマントを被って店を訪れた麗人の頭上に見慣れぬ色を見つけて固まった。彼に対して無表情が常である私が、無表情のまま固まっても違和感がなかったのか。エクトルは笑顔で私に空の瓶を差し出して、直ぐに奥の席へと向かっていった。

 無言で瓶の洗浄を始めながら、ちらりとエクトルに視線を向ける。正確には、彼の頭上の予想線に。


(恋の色……だね……間違いなく……)


 半透明の恋の色がほんの少しだが伸びている。半透明の感情色は通常、まだ起きていないもの、これから起こる強い感情を示すものだがそれが恋の感情である場合は特殊だ。

 己が恋をしていることに気が付いていない、つまり無自覚な恋をしている場合も半透明で見える。一度でも恋を経験していれば大抵は己の感情に気づくから、こういう無自覚の恋の場合、大抵は初恋というやつであり、なんとも甘酸っぱい気分にさせられる。思春期の少年少女によく見るもので、大人の頭上にあるのは珍しい。


 なぜかこの予想線は、初めての恋に落ちる予想だけはさせてくれない。恋心を覚えて初めて半透明の色で現れるのだ。つまり半透明の恋の予想線を持っているのは無自覚な初恋状態か、二度目以降の恋をする前の状態という訳で。一日以上たっても色づかない場合は前者であると判断できる。


(それにしてもあの花の騎士がついに春か……おめでとう)


 初めて見た日から六年。一度も見ることがなかった恋の色。この短さなら恐らくまだまだ淡い恋心だろうが、それを中々感慨深く思うのは少し親しくなったからだと思う。幸せになれたらいいね、とそれくらいは考える。エクトルの恋が実ることを神に祈ろう。

 ……でも難しいかもしれない。彼と恋仲になったらあちらこちらの女性を妬み嫉みを一身に受けることになるので、相当な逞しさが必要とされるはずだ。そんな女性がこの世にいるのだろうか。

 エクトルの相手について思いを馳せながら瓶の洗浄をしていたら、ドアベルが鳴った。顔を上げていらっしゃいませ、と声をかける。



「シルル、今大丈夫か?」


「ああ、ジャンさん。大丈夫ですよ」



 やってきたのは町の顔役であり私の親代わりでもあるジャンだった。薬箱を抱えているので、補充に来たのだろう。洗浄をやめて手の水気をふき取りながら彼がカウンターに来るのを待つ。

 本来なら先着順に接客するのでエクトルを優先するべきなのだが、彼の存在を隠したい私としては何でもない顔でジャンの注文を受けるしかない。少しばかり心苦しいところだが、こればかりはどうしようもない。



「悪いな、早い時間に。薬切らしそうだから補充に来たんだ」



 子供のような無邪気さのある笑顔に自然と笑い返しながら、彼が持ってきた薬箱を受け取って中身を確認する。

 箱の中はきちんと種類ごとに分けて並べられているので、減っている薬品を確認しやすい。ジャンは大雑把に見えて大変几帳面な性格をしているのだ。



「包帯と、打ち身の薬と、傷薬に消毒液が少ないですね。その他減ってる物も直ぐ補充します。この量だと……3000ベルです」


「おう。お前の薬はほんとによく効くから助かるぜ」


「ジャンさんのお役に立てているなら私も嬉しいですよ」



 在庫の中から薬箱に足りない物を集めてきて、丁寧に並べて収めていく。カウンターに乗せられたお代が丁度であることを確認して、中身がぎっしり詰まった薬箱をジャンに返した。



「ありがとな、シルル。今日も一日頑張れよ!」


「わっ、ちょっと……!!」



 ジャンは私の頭をかき混ぜるように撫でて、鼻歌を歌いながら店を出て行く。会うたびに私の髪をぐしゃぐしゃにしないと気が済まないのだろうか、彼は。

 軽くため息を吐きながら手櫛で整えて、再び瓶の洗浄に戻った。前の薬が少しでも残っていたらそこから悪くなってしまうから、丁寧に洗わなくてはならない。



「……あの人、仲良いの?」



 潜めたような、少し低い声で尋ねられた。もう客はいないのでこそこそと話す必要はないのだが、私もつい小さめの声になりながら答える。



「仲がいい、というか……親を亡くしてから面倒を見てくれた恩人です」



 ジャンは恩人だ。子供の頃は毎日様子を見に来てくれた。こうして大きくなってからは数日に一度顔を見に来る程度になったけれど、今でも心配してくれているのは分かっている。

 だから私は立派な薬屋として、もう大丈夫だと態度で示さなければならない。……ならないのだが占い師の名の方が売れている。何故なのか。



「そう、なんだ。俺はてっきり……」



 エクトルが何か言いかけたけれど、それはドアベルの音で遮られた。新たな客がやってきたのだ。他の客がいる間はエクトルも話せないし、私もエクトルの薬の作業が出来ない。

 その後二人ほど立て続けに客が来て、占いもとい恋愛相談をして帰っていったため彼の薬の詰め替えに時間がかかってしまった。



「すみません、遅くなりました。今週分、5000ベルになります」



 少し駆け足でエクトルの待つ席に薬瓶を持っていく。彼は特に気にした様子もなく笑っていたが、金額を告げると軽く目を見張った。



「半額だけど、いいの?」


「通常の値段の大半は危険手当ですし……これはエクトルさんが護衛してくださった時の材料で作りましたから」



 彼のおかげで他の素材も採集できたし、騎士の護衛を雇うならこの薬を無料にしたって足りないのだから構わない。

 危険に自分で対処する必要がなかったから、いざという時の薬も消費しなかったし、これでもきっちり利益がでる。



「ここまで安くしてもらうつもりはなかったんだけど、なんだか悪い気がするね」


「お気になさらず。護衛代と考えると安いくらいですし……それより本当にお待たせしてしまって申し訳ないです」


「いや、他のお客さんが居たから仕方ないよ。俺も見つかりたくはないからさ」



 本日最初に店を訪れた客であったのに、かなり待たせてしまったのが申し訳ない。エクトルは右手のことを知られたくないし、私も彼が店の常連であると知られたくないので仕方がないのだけど。……何か良い案はないだろうか。

 ほかの客と絶対に顔を合わせない方法。となると、営業時間外になる。朝早くか、夕方か。私もバタバタしている時間なのであまり気は進まないが。



「あ、そうだ。次から定休日にいらっしゃいませんか?」



 エクトルは笑いながら驚きの色を伸ばしていたが、我ながらいい案だと思う。休みならほかの客は来ないので、彼を待たせることもないし、見つかるのではとヒヤヒヤすることもない。出入りも裏口からしてもらえばいい。

 この店は一週間の真ん中、森の日が定休日になっているので、エクトルの都合がつくならば今度からその日に来てもらえれば、お互いに楽ではないかと話した。



「俺は助かるけど、休みなのにいいのかい?」


「はい。休みといっても薬を作るか、採集に行くかどちらかなので。午前中に来ていただければ対応できます」



 一日ゆっくり休む日、というのは中々ない。この店も繁盛するようになったので、私一人でやっていくには忙しいのだ。主に茶葉類の減りが早く、在庫を集めるのに苦労する。毎日仕込んで新しいものを作っているのに増えるということがないほどだ。

 近頃ではもっと営業時間を短くして、作業時間に当ててもいいかもしれないと思う程である。



「そっか。じゃあ採集に行く日は俺も護衛についていくよ」


「それは……正直助かりますが、でも無理はされないでくださいね」



 騎士は暇な職業ではない。討伐に行くか、護衛の任につくか、訓練をしているか、町の警備をしているか。休日以外はそうして過ごしているはずだ。騎士団としての規則も甘いものではないだろうし、一人でフラフラ出歩くのが許されるとも思えない。

 私の前に現れるエクトルは時間に追われている様子がないので、おそらく休日を利用して来ているのだろうけれど。せっかくの休みを私などに使ってしまうのは勿体ない。


(恋をするお相手がいるようだし、そっちに時間を使ってあげてほしい)


 私の採集に付き合ったら一日が潰れてしまうのだ。意中の相手と過ごす時間がなくなってしまう。



「無理はしてないよ。俺は望んでやってるからね。何より、楽しんでるからさ」



 それは冗談っぽく言われたから、本音なのだろう。私に親しみを覚えていて、私と話すのを楽しんでいるのは予想線を見て分かる。

 まだ淡い想いを抱く相手に会いに行くより、秘密を知っていて気楽に過ごせる私と話したいと思うのだろうか。それとも、お相手とは休日には会えそうにないのか。


 いつか、彼が恋を自覚して。まっすぐそちらを向く日までは話し相手くらいになってやろう。そして恋愛相談を受けることがあったなら、真剣に考えてやろう。

 そう思いながら「そうですか」と返したら「そっけない」と不貞腐れられた。



「蝶々さんたちは俺のことをほっとかないのになぁ」


「私は蝶ではありませんので。さあ、他のお客様がお見えになる前にお帰りになってください」



 喋ってる今にもドアベルの音が鳴りそうで落ち着かない。軽く肩を竦めてまっすぐドアに向かっていったエクトルにも、同じような気持ちはあるだろう。



「……蝶じゃないなら、君は何なんだろうね」



 ドアに手をかけて、ふと振り返った彼の言葉に首を傾げた。先ほどの話の続きだ。エクトルが花で、それに寄り付く女性が蝶で、という巷でよく聞く例え話なら、私の役は一つしかないだろう。



「私は薬でしょう。貴方の傷を治すんですから」


「そっか」



 どこか嬉しそうな顔に見えたのは、頭上に伸びた喜びの色からしても勘違いではない。でも、彼が私の答えのどこを喜んだのかは分からなかった。


(……変な人)


 感情を表に出すのが下手で、すぐに本音を誤魔化そうとして、苦痛であっても笑顔で堪えて分かりにくく、喜ぶ点も何だかよくわからない。こんな分かりにくい変人が、まともに恋愛などできるのだろうか。余程察しの良いお嬢さんでなければ不可能な気がしてきた。


 ちょっと、いやかなりエクトルの恋の行く先が不安になったが、今私にできることはない。とりあえず失恋に終わった時は慰めてあげよう、と心に誓った。



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