第9話
窓もない狭い部屋の、華美ではないが品のいい革張りの椅子に深く腰掛けた、黒髪黒目の男。その目が俺を映した瞬間に少しだけ、親しみを込めて和らかく細められる。きっと俺自身も、同じような顔をしているのだろう。
彼の前に膝をついて頭を垂れる。その相手はカイオス=ジギ=ディトトニクス。この国の王太子だ。礼儀は守らなければならない。
「お久しゅうございます。カイオス殿下におかれましては本日もご機嫌麗しく」
「もういい、やめろ。人払いはしてある。お前にその口調で話されるとむず痒くなる」
「俺はもう護衛騎士じゃないのに。でも、王族の命令なら仕方ないなぁ」
本当は俺とカイオスの間に、礼儀もなにも必要はないのだけど。これは二人で話す時の決まった挨拶のようなものだ。王太子とただの騎士が友人として話すために必要な儀式とでも言おうか。
直ぐに立ち上がって向かいの椅子に腰を下ろす。ここではいつも向かいあって、ただ話をする。喉が渇くまでひたすら話し続ける。その間、飲食はしない。どこかで毒物が紛れ込んだら、疑われるのは俺だから。カイオスはそれを避けようとしてくれている。
俺はいい友人を持った。唯一無二の親友だ。……そしてもう一人、友人になりたい人に出会った。
「機嫌がよさそうだな。何があった?」
「分かる? 実はさ、仲良くなりたい人が出来て」
「……ほう。詳しく聞かせろ」
軽く身を乗り出した姿に、笑みを浮かべる。彼がこうやって俺の話を聞こうとするのは、興味を持った時だ。
俺はシルルという、薬屋のことを話し始めた。勿論、彼女が何か特別な力を持っているらしい、という内容は伏せておく。彼女との約束があるから。
だから話したのは俺に対する素っ気ない態度と、それから俺の取り繕った表情を見抜いていること。特に二つ目の話は重要だ。俺の隠そうとする本音を見抜く人間は、カイオスに続いて二人目。それだけでもう、興味を惹かれて仕方がない。
「多分、俺のことを面倒に思ってる。でも、つい……構ってしまって」
自分と関わりたくない、という態度なのは見て分かっていた。突き放そうとする言葉が多いのに、いまいち本気だと感じないのはお節介な部分が見え隠れするからだ。彼女のそういう部分に甘えているという自覚はある。
俺を本当に突き放したいなら薬を売るのを止めればいいし、薬を盾に俺の行動を制限しようとしてもいい。危険を冒して材料を集めて、俺の薬を作るなんてやめればいい。そうしてくれれば俺は大人しく引き下がるし、もし嫌悪を示されたなら、本当に薬の売り買いをするだけの関係に留めるつもりでもある。悪感情を抱く相手にすり寄られることほど不愉快なこともないと、知っているから。
(でも、あんなふうに笑ってくれたんだから……嫌われてはいない、はず)
ほんの一瞬。普段は無表情か、もしくは迷惑そうな感情を抑えきれず滲ませているかのどちらかである顔に、小さく浮かんだ笑み。ほんの少し口角が上がって、ほんの少し目じりが下がる程度の小さな変化だった。でもそれは自分以外の客に向けられていた、外向けの整えられた笑顔とは違った微笑みで。頭を下げる一瞬だけ浮かんでいたその表情が、目に焼き付いて離れない。顔を上げた時にはいつもの無表情に戻っていたが、それでも覚えている。
……いい顔で笑うんだな、と。そう思った。そんな顔を見せてくれたのだから、多少は仲良くなれたのではないだろうか。そしてこれから、もっと仲良くなれるのではないか、と。
「俺はもっと、あの子のいろんな顔が見てみたい。……できれば笑った顔が見たいけど」
俺の話を聞いていたカイオスは愉快そうに目で笑って「いい報告を楽しみに待っていよう」と言った。
そこまででシルルの話は終わり。次は町で集めた噂話をしたり、カイオス自身の話を聞いたり。一時間ほど話して「喉が渇いたな」と彼が言えばこの時間は終わりだ。
「じゃあ、またねカイオス」
「ああ」
短い別れの挨拶を交わし、席を立つ。次に会うのはいつになるか分からない。王太子である彼の身が空けるのは簡単でないし、直ぐに予定を立てられるものでもない。
それを少し、寂しくも思う。気の置けない友人と過ごす時間というのは心地よく、離れがたくなるものだ。俺が護衛騎士のままでいたなら、まだ話せる時間は多かっただろうに。
「エクトル」
「ん?」
扉に手をかけたところで呼びかけられて、振り返る。椅子にゆったりと腰かけたまま、親友は心底楽しそうな顔で笑って俺を見ていた。
「頑張れ。報告を楽しみにしている」
「うん、分かったよ」
言葉は少ないが、それはシルルのことを言っているのだと分かる。カイオスも彼女が気になるのだろうか、と思うと心に引っかかるものがある気がした。
それは自分が見つけたはずのおもちゃを取られそうになった時の感覚に似ている。まあ、彼女はおもちゃでなく人間で、そんなことを考えるのは失礼なのだけど。
自分の好きなものは何でもカイオスに共有してきた。カイオスも同じだ。お互いがいいと思うものを教えあって、俺たちは唯一無二の親友になったはずなのに。
話さない方が良かったかもしれない、なんて思うのはどうかしている。
――――――
久々に会った友人が去ってもしばらく、カイオスは椅子に腰かけたまま思案していた。彼はこの国の次期王と定められた王子であり、巨大な権力と大いなる責任を持つ立場にいる。
そんな彼だからこそ、幼い頃から大人の陰謀に巻き込まれて育ち、故に人の表情に隠された本当の感情を見抜ける自信がある。カイオスは先ほどまで顔を合わせていた友人の様子が気にかかっていた。
(……あいつが女の話をするとはな)
カイオスの幼馴染で親友でもあるエクトル=アルデルテ。幼い頃から際立って美しい姿をしていた彼の第一印象は「人形」だった。まるで精巧に作られた人形のように、およそ人とは思えぬほどに整った顔。女であったならその美貌を欲した者たちによってあらゆる争いが起き、国が傾いていたのではないだろうかとすら思う。……女たちの争いは起きているので、この国の貴族社会は女に権力がなくて本当に助かった。あったらやはり戦争が起きただろう。
とにかくエクトルは不幸なほど容姿に恵まれていて。幼いカイオスは出会ったばかりのエクトルに、動く人形のようだと素直な感想を口にして酷く怒らせた。彼は幼いながら既に異性を引き付けていたようで、その頃にはもう己の容姿に強い苦手意識を持っていたのだ。
そのあとはもちろん大喧嘩に発展したわけだが、ただの子供同士の喧嘩とは訳が違う。
(あれは私が悪いからな。……周りに大人が居なくて本当に良かったものだ)
片方は王太子で、片方は騎士族の少年だ。騎士である親は貴族であっても、その子供まで貴族とは言えない。エクトルが大人になって功績を上げなければ、彼の家は爵位を失う。
大人が見ていれば、エクトルが処分を受けただろう。でも大人が様子を見に来る頃には二人とも言いたいだけ言い合って、打ち解けていた。
エクトルはその日からカイオスの護衛騎士だった。どこに行くにも一緒であったし、気の置けない友人で最も信頼する配下だった。それが崩れたのが、魔物に出会った日。
(私を庇って怪我をして、剣を握れなくなり……その上……)
カイオスは知っている。エクトルが右手の痛みを必死に隠していることを。彼の右手に残るものに罪悪感を覚えても、顔に出さないようにしているだけだ。己がそれを顔に出したせいで、親友が苦痛を笑顔に隠すようになってしまったから。
あれから六年が経つ。その間、エクトルが常に痛み止めを服用していることくらい知っている。右手は動かないばかりか、薬が必要となるくらい痛むらしいと。知っていて、知らぬふりをしている。
それは贖罪だ。カイオスがエクトルを連れて、二人でこっそりと出かけたせいでこうなった。彼の未来を奪ってしまったことを悔いて謝ることはたやすいが、相手がそれを望んでいないから飲み込んでいる。罪悪感を抱え続けることが、己に対する罰だとカイオスは思っている。
(しかし、今日は調子がよさそうだったな……痛み止めの使用も減っているようだが)
そして何より、エクトルが女の話をしたのが衝撃的だった。彼が女嫌いであることはカイオスもよく知っている。恋愛はおろか、政略結婚ですら拒絶するだろうと予想できるくらいには、女という生き物に抵抗がある友人。
その友人が、薬屋の女について嬉しそうに話す。一体何があったのだと、その表情を見て思った。はちみつのような色をした瞳に浮かぶ感情は、どう見たって――。
(……どうでもいい女はいくらでも転がせるんだろうがな、きっと)
だが、しかし、おそらくは。好いた女の扱いが、分からないのではないかと。その性格や、女に対する振る舞いについて思い出せば出す程にそう思う。
すでに親友の姿がない空の椅子を前に、小さくため息を吐いた。
「自覚しない方がよさそうだな、お前の場合」
その言葉は、他の誰にも届くことなく部屋の中に響いて消えた。
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