【コメディ?】奇跡のしらせ
私たちはいつも放課後になると、誰も使っていない旧校舎の音楽室に籠って、二人で密かな楽しみに没頭していた。
ピンポン玉を指でつまみ、大きく両手を振りかぶる。
左足を上げてピタリと止まってから、体重を前へと移す。
右腕は自然、大きな弧を描く。加速を続けて最後の最後、二本の指でピンっと弾く。
ボールの届く先にいるのは、この高校に入学した時から一緒に過ごしてきた夏美だ。空になった500mlペットボトルを頭の後ろまで引いて、彼女も左足を上げる。ショートボブの黒髪をふわりと揺らし、黒縁の眼鏡がずれないように気をつけながら、私の動作に合わせてタイミングを見極め――強く踏み込む。
ピンポン玉はペットボトルの曲面に衝突し、乾いた音とともに跳ね返された。私が投げた速度よりも速く、消音効果のために無数の穴が開けられた音楽室の茶色い壁へとぶつかって落ちる。
「やった~! 今のはホームラン級の当たりだったね!」
「くうぅ……夏美も腕を上げたわね」
「しぃちゃんと一ヶ月もこうしてピンポン野球やってるんだもん。そりゃあ、ちょっとは上手くなるよ」
夕日が差し込む、古いカーペットがゴワゴワとする学校の一室。
正直、華の女子高生二人がこうして日々遊んでいるなんて、ちょっとどうかなとは思う。
「よし、もう一球いくよ。変化球だって使っちゃうんだから!」
「おっけ、ばっちこーい!!」
けれどこの時間が、私は本当に好きで。
野球が好きとか、スポーツが好きとか、そういう感情とは少し違うんだと思う。今思えば何がキッカケだったかさえも曖昧だけれど、こうして二人だけの空間で弾むオレンジ色の球体が、私たちの放課後のルーティーンだった。
「これでどうだっ!」
指先からボールを離す瞬間、少しだけ手首を捻って縦回転を掛ける。すると、一瞬だけ浮かび上がった軌道が急激に変化する。落ちるようにしてストライクゾーンへ吸い込まれると、夏美のバットが虚しく空を切った。
「わぁ! ダメ、こんなの打てないよ~」
「ふふん、私の変化球も中々ね」
「すごい曲がるもんね。どうやって曲がるの?」
「それはね、ベルヌーイ効果によるものなの」
「ベルヌーイ……効果?」
「そう、ベルヌーイ効果。ベルヌーイの定理とも言われるけれど、ボールの回転による起動の変化は空力学で説明できるの。今さっき私は、進行方向に縦回転のボールを投げたけれど、その場合、球体の上部と下部で空気圧が異なる。進行方向に回転がぶつかる上部は気流にブレーキが掛かって少しだけ気圧が上がるけれど、進行方向に回転が沿う下部は流れがスムーズになり、気圧が低下するの。球を挟んだ気圧差が作用して、高気圧から低気圧へと力が働く。縦回転のボールであれば上部から下部へと力が働き、落ちるような角度へと起動を変えるの。
これが逆回転になったのがストレートね。下部から上部へと力が働き、浮き上がる力が発生するの。ピンポン玉はとても軽量だから、重力に逆らうように浮上する。これが野球で使われる硬球であれば、浮き上がるなんて難しいけれどね。
ただ、硬球には縫い目がある。この微妙な凹凸がベルヌーイ効果をより複雑化するの。同じ回転軸、回転数であっても一回転あたりで空気と接触する縫い目の数が違えば、気圧差による力の働きが微妙にゆらぎを生み出す。いま流行っているツーシームやワンシームといったムービングファストボール系は、その微妙なゆらぎを活用しているケースが多いみたいね。ナックルボールもこの縫い目の効果が大きくて、不規則でランダムな変化を見せることができるし。
けれど私たちが使用しているボールは縫い目がないツルツルな状態。だから変化としては単純なの。もう少し目が慣れてしまえば、きっと夏美にも打たれちゃうんだろうなぁ」
「そうかなぁ、私は全然慣れる気がしないけど。じゃあさ、次は凄く回転の掛かったストレートなんてどう?」
「ええ~それじゃあ打たれちゃうじゃん」
「しぃちゃんと私の直球勝負! もう下校時間だし、どうかな?」
しょうがないなぁ、なんて言葉を吐きながら、私はもう一度ボールを手に取った。
「じゃあ一球だけだからね。浮き上がるボールを見せてあげる!」
「おっけ、ばっちこーい!!」
瞬間、私には世界がゆっくりと見えた。
身体の各関節が、筋肉の一つ一つが、神経そして血液の流れが意味不明なくらいに感知できる。これまで味わったことのない時空に投げ出されたようで、自他の境目が溶けてなくなったみたいに感じられる、刹那の連続。
これは、一部のトップアスリートが体験するという『ゾーン』なのだろうか。
とても緩やかに、一つ一つの粒子を意識して紡がれる動作。やがて弧を描いた私の右腕は、ナノ秒レベルの偶然が有機的に絡み合い、必然的に音速を超えた。
バンッと鳴り響く衝撃音。音の壁を突き破り生まれた
止まらない身体から放たれる、ピンポン玉。
オレンジ色の球体は意思を持つようにして前へと進む。空気との摩擦はツルツルの表面を溶かすほどに熱を生み、まっすぐに、どうしようもなく、夏美の頭部へと突き進む。
「なつみ――!!」
言葉が出たのかどうかも定かではないごく僅かな時間で、彼女の綺麗な顔が、そして眼鏡が弾け飛んだ。
残酷ともいえる光景に、私はスローモーションの世界から一瞬にして引き戻される。変わり果てた教室にある、変わり果てた友人の姿を、さっきと何も変わらない鮮やかな夕陽が血を染めるようにして降り注ぐ。
「夏美! あぁ、しっかりして夏美!!」
「しぃちゃん……凄いボールだったよ……目で追えなかったもん」
「もう喋らないで! す、すぐ救急車を」
「いいの、しぃちゃん。今まで黙っててゴメンね。実は分かってたんだ」
「夏美……?」
「そう、分かってたの。私はもう長くないんだって。病気とかそういうんじゃないんだけれど、いくら繰り返したって私の寿命はここまで。今回は偶々、しぃちゃんの投球で脳挫傷という結果になったけれど、理由はきっとなんでもいいんだと思う」
「な、夏美、もう良いから」
「死の際になって混乱しているんじゃ、ないんだよ。説明する時間はないけれど、しぃちゃんのせいで死ぬんじゃ、ないから」
そう告げる夏美の声はハッキリと聞き取れて、私は今起きていることが夢なのか分からなくなってきた。いや、違う。私が夢と思い込みたいだけだ。腕の中で溢れる親友の血液は悲しいほどに熱く、何故だか知っている鉄に似た匂いが、これでもかと現実を突きつけてくる。
「そんな、夏美……」
「泣かないで、しぃちゃん。きっとまた会えるから」
赤く染まった左腕を上げ、私の涙を拭う彼女。風通しの良くなった部屋に横たわる彼女の姿はあまりにも鮮明で、これじゃあどっちが消えてしまうのか、分からなくなってしまう。
時に、光雲、
「うそ、夏美……?」
その時だった。奇跡が起こったのは。
彼女のポケットからズルりと落ちたスマートフォンの通知を、私は見逃さなかった。
「しぃちゃん?」
「あのアプリが、関本通知アプリが起動してる」
「え……?」
関本通知アプリとは、阪神タイガース一筋で活躍した関本賢太郎内野手に特化したアプリだ。
若い頃は生え抜きの大砲候補として期待された彼だが、全盛期を過ぎてから引退までの数年は、いわゆる『代打の切り札』として活躍した。代打の神様とも称され、試合の終盤、ここぞというタイミングでゆっくりと打席に立つのだ。
そんな関本選手が登場するとき『関本が打席に立ちます』と知らせるためだけに開発されたのが、関本通知アプリだ。けれど彼が現役を終えたのは2015年10月12日。つまり、このアプリが関本の登場を知らせるハズがないのだ。
「夏美、関本が……本当に」
そう、思い出した。この二人だけで始まったピンポン野球のキッカケを。
それは夏美のカバンにつけられた、縦縞に背番号3と描かれたキーホルダー。アルファベットで『SEKIMOTO』と記されたアイテムが目について、私は彼女に声を掛けたのだった。
まさかと思い、私はプロ野球速報のアプリを起動した。そこは確かに2015年のワンシーン、打席に立つ関本がいた。
阪神甲子園球場、一点を追いかける9回裏ワンナウトでランナー1・3塁。一発が出ればサヨナラという場面で、ツーストライクと追い込まれている。
外角低めに外れるボールを2つ見送り、カウントはツーツー。次が勝負とみているのだろう、少しの時間をおき、バッティンググローブのテーピングを締め直して彼は再び打席へと戻る。
そして投げられた5球目を、バットが真芯で捉えた。
打球は流れるようにして山田哲人のグラブに吸い込まれ、二塁に入った大引へとボールが渡されて1アウト。次いで一塁の畠山に送球が届きゲッツーが成立。阪神タイガースは敗北を喫した。
「うわっ最悪やんけ。せめて打ち上げろよ! 犠牲フライでも一点入るやろがいいぃぃぃっっ!!!」
そう悪態をついて視線を落とすと、夏美は既に息絶えていた。
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