【コメディ】Web小説名人伝

 古代大阪、天王寺の都に住む紀昌のりまさという男が、天下第一のWeb小説家になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を掲示板で探すに、ペンネーム・柚子ちゃんに及ぶ者があろうとは思われぬ。小説を公開するにランキング百発百中するという達人だそうである。紀昌は個レスを送りその門に入った。


 柚子ちゃんは新入の門徒に、まずまばたきせざることを学べと命じた。紀昌は早速セロテープでまぶたを固定して読書に耽った。来る日も来る日も彼は修練を重ねる。


 二年の後には、玉ねぎをみじん切りにしようが、読書中にうたた寝をしようが、その瞳を保護する稼働皮膚は機能を失うに至り、彼はようやく自信を得て、師の柚子ちゃんにこれを告げた。


 それを聞いて柚子ちゃんがいう。瞬かざるのみではまだ著を授けるに足りぬ。次は、読むことを学べ。読むことに熟して、さて、我に告げるがよいと。


 紀昌は手元の本を開き、コピー機にこれをセットした。そして最大率で縮小印刷し、しらみの如き文字を読むことにした。初め、それはもはやインクの染みに過ぎない。二三日たっても、依然として染みである。ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて来たように思われる。三月目の終わりには、明らかに文字として読めるに至った。


 それからも紀昌は根気よく、A4用紙に吹きつけられた、水、着色剤、浸透剤、乾燥防止剤等が配合されたインクを眺め続けた。早くも三年の月日が流れ、ある日ふと気が付くと、文字が自らの意思を持つかの如く、うねうねと動き出すのが見えた。


 彼は我が目を疑った。黒色のうねりはやがて色を持ち、例えば孔雀という文言が虹色の翼を大きく広げ、紙面から浮かんで空へと舞い上がる。血という文字が赤くどろどろと溶け出し、氷は手で触れると指先が引っ付いて離れなかった。


 紀昌は早速師にこれを報ずる。柚子ちゃんは高蹈こうとうとして胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。そうして、直ちに執筆の奥義秘伝を余すことなく紀昌に授け始めた。


 目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。


 彼がそのとき独りつくづくと考えるには、今やWeb小説の実力でもって己に敵すべき者は、師の柚子ちゃんをおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても彼を除かねばならぬと。密かにその機会を窺っている中、たまたま柚子ちゃんが新作の百合モノを書こうとしていることを伺った。


 咄嗟に意を決した紀昌は、師が書くであろう百合モノを、彼自身よりも早く書くことにした。師の記すであろう文言は一言一句想像できる。柚子ちゃんよりも早く自分が公開することで、彼に盗作者としての汚名を着せようと考えたのである。


 その気配を敏感に察知した柚子ちゃんもまた筆を取って相応ずる。二人互いに更新を進めるに、全く同名・同作・同内容の文章が同時刻に公開される。二人とも寝食を忘れて書き続け、さて、最終話を更新しようとした所で、運営から複アカの疑いありとして二人同時に垢BANされた。


 ついに己の非望の遂げられないことを悟った紀昌の心に、成功したならば決して生じなかったに違いない道義的慚愧の念が、このとき忽焉こつえんとして湧き起こった。柚子ちゃんの方では、また、危機を脱した安堵と己が技量についての満足とが、弟子に対する憎しみをすっかり忘れさせた。二人は互いにメッセージを送り合い、画面の前で美しい師弟愛の涙にかきくれた。

(こうした事を今日の道義観をもって見るのは当たらない。自宅の回線速度は下り最速128kbpsであり、エロ画像ファイルは一晩立っても開けない。すべてそのような時代の話である。)


 しかしこの弟子の危険性が身に染みた柚子ちゃんは、新たな目標を与えてその気を転ずるにしくはないと考えた。彼はこの危うい弟子に向かって言った。


 もはや教えることはない。汝がもしこれ以上の道の蘊奥うんのうを極めたいと望むならば、ゆいて西の方、大行のけんじ天保山の頂を極めよ。そこにはアフロサンボを名乗る老師とて、古今を虚しゅうする斯道の大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の小説の如きはほとんど児戯に類する。汝の師と頼むべきは、今はアフロサンボ師の外にあるまいと。


 言われた紀昌はすぐに西に向って旅立つ。児戯という師の言を信ずるならば、天下第一はまだ程遠いということである。これが自尊心に火をつけた。半ば引き籠りと化していた己の足に鞭を打ち、一月の後に彼はようやく目指す山頂に辿たどりつく。


 気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊のような柔和な目をした、しかし酷くよぼよぼの爺さんである。年齢は百をも超こえていよう。腰の曲っているせいもあって、白髯はくぜんは歩く時も地に曳きずっている。


 相手がろうかも知れぬと、大声に紀昌は来意を告げる。己が技の程を見てもらいたい旨を述べると、焦り立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うたMicrosoft Surfaceを手に執った。そうして、即興の短編をWebに投稿するとたちまち日間ランキングを駆け上がった。


 一通り出来るようじゃな、と老人が穏やかな微笑を含んで言う。だが、それは所詮、Web著之著というもの、好漢いまだWeb不著之著を知らぬと見える。


 ムッとした紀昌を導いて、老隠者は二百歩ばかり離れた絶壁の上まで連れて来る。脚下は文字通りの屏風のごとき壁立千仭へきりつせんじん、遥か真下に糸のような細さに見える渓流をちょっと覗いただけで、たちまち眩暈を感ずるほどの高さである。


 その断崖から半ば宙に乗出した危石の上につかつかと老人はかけ上り、振り返えって紀昌に言う。どうじゃ。この石の上で先刻の業を今一度見せてくれぬか。


 今更引っ込みもならぬ。老人と入れ代わりに紀昌がその石を履んだ時、石は微かにグラリと揺ゆらいだ。その時ちょうど崖の端から小石が一つ転がり落ちる。その行方を目で追うた時、覚えず紀昌は石上に伏した。脚はワナワナと震え、汗は流れて踵にまで至った。


 老人が笑いながら手を差し伸のべて彼を石から下し、自ら代わってこれに乗ると、では著というものをお目にかけようかな、と言った。まだ動悸がおさまらず蒼ざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気が付いて言った。しかし、PCはどうなさる? まさか手書き? 老人は素手すでだったのである。PC? と老人は笑う。道具の要る中はまだ著之著じゃ。不著之著には、officeソフトもエルゴノミクス・キーボードもいらぬ。


 その時一迅の風が吹き、老人の足元の布がふわりと捲れた。あろうことか老人は黒のニーソックスを履いており、白く瑞々しいももが露わになった。あり得べからざるジジイの絶対領域を目にした紀昌は頭に血が上り、この痴れ者をこの場で突き落として天下第一になろうかとも考えたが、次の刹那、眩いばかりの白い閃光が周囲を満たした。


 何事かと驚いた紀昌が目にしたのは、光を放つ太腿である。そこから瞳を通して己が脳内に流れ込んで来たのはラブコメであった。主人公は朝早くから制服姿の幼馴染に起こされ、その際に朝日の照らす太腿の際どさに目が覚める。視線に気付いたヒロインは慌ててスカートの裾を引っ張り、なに見てるのよバカッと頬を赤らめる物語の冒頭を。横書きに合わせて改行や段落を意識し可読性に配慮された小説の一篇を。


 紀昌は慄然りつぜんとした。今にして始めて芸道の深淵を覗き得た心地であった。

 九年の間、紀昌はこの老名人の許に留まった。その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰にも判わからぬ。


 九年が経ち、この頃に広く利用されていたSNSサービスに紀昌が現れ、「春はババロア」と木偶でくの如き一言を呟いた。且つて世間を賑わせたWeb小説家の再登場に、数多くの作者読者が困惑をみせた。しかしその一言を見た柚子ちゃんは感嘆して叫んだ。これでこそ初めて天下の名人だ。我らのごとき、足下にも及ぶものでないと。


 Web小説界は天下一の名人となって戻った紀昌を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧きかえった。

 ところが紀昌は一向にその要望に応えようとしない。いや、PCさえも殆ど触ろうとしない。ごくごく稀に「おはようございバース」等と呟くのみである。そのわけを訊ねたリプライに答えて、紀昌は言った。至為は為す無く、至言は言を去り、至著はしるすことなしと。


 なるほどと、至極物分かりの良い批評家達はすぐに合点した。筆を執らざる小説の名人は彼らの誇りとなった。紀昌が小説を書かなければ書かないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝された。


 様々な噂が人々の呟きから呟きへと伝わる。毎夜三更を過ぎる頃、新着作品に現れては消える作品がある。偶々たまたま目にした人物が言うに、これまで読んだどの物語よりも美麗な筆致であったという。恐らくは紀昌の内に宿るWeb小説の神が眠っている間に体内を抜け出し、悪戯心に投稿しているのではないかと。


 また、とある小説家の正体が紀昌ではないかという話もあった。世間の耳目を集めることに倦き名を隠して活動しているのだと、挙げられた作家名は枚挙に暇がない。ある時は我こそが紀昌その人であるとのたまうアカウントも現れたが、その文章の凡庸なことから炎上した後に黙殺されて終わった。


 雲とたちこめる名声のただ中に、名人紀昌は老いていく。既に早く小説を離れた彼の心は、ますます枯淡虚静こたんきょせいの域に入って行ったようである。木偶のごとき呟きは更に色を失い、語ることも稀となり、ついには言語能力の有無さえ疑われるに至った。「異常ブンブン」が確認される老名人晩年の呟きである。


 アフロサンボ師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙のごとく静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて小説を口にすることが無かった。口にさえしなかった位だから、小説を書いての活動などあろうはずが無い。


 もちろん、寓話作者としてはここで老名人に掉尾ちょうびの大活躍をさせて、名人の真に名人たる所以ゆえんを明らかにしたいのは山々ながら、一方、また、何としても古書に記された事実を曲げる訳には行かぬ。実際、老後の彼についてはただ無為にして化したとばかりで、次のような妙な話の外には何一つ伝わっていないのだから。


 その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。ある日老いたる紀昌が知人に招かれてオフ会に行ったところ、その席で一つの物体を見た。確かに見憶えのある形だが、どうしてもその名前が思い出せぬし、その用途も思い当らない。老人はその家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。


 再三に渡り同じ質問を繰り返された時、主人は色を失った。相手が冗談を言っているのでもなく、また自分が聞き間違えしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖に近い狼狽を示して、どもりながら叫んだ。


「ああ、夫子が、――古今無双のWeb小説の名人たる夫子が、PCを忘れ果てられたとや? ああ、PCという名も、その使い途も!」


 その後当分の間、創作界隈では、絵師はPCを叩き割り、歌い手はPCをドブに投げ捨て、VTuberはPCを火にくべたということである。

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