第70話
ここ1ヶ月半、一人の男が表舞台から姿を消した影響は多大であった。中高生から圧倒的人気を得ていたが故か、少年少女らの日常はいつしか暗鬱なものになっていた。
その男が、今までどれほど若者に渇望されてきた存在であるかが、ある種浮き彫りになったと言っても過言ではないだろう。
彼を知るものは言う。
彼には独特のカリスマ性があると。
人を惹きつけるというよりも、人に愛される存在であり、彼を目の当たりにしたものは自然とへりくだってしまう。その才能、雰囲気、人柄、その他諸々。
若者に人気が出ない方がおかしい。
一種の狂信的人気は、今まで活躍してきた幾多のアイドルと比べても一線を駕していた。そんな男が、腹を刺されて入院したのだから、上記のように若者が悲哀に暮れるのも無理はなかった。
時はたち。4月も半ばに差し掛かった。
70
たった1ヶ月半、表舞台から姿を消していただけなのに。収録のため向かったテレビ局のスタジオを見た時、懐かしいという感情に駆られたのは、今まで日常的に通っていたことと、病床の日々が退屈極まりなく、体感にして数年にも感じられたが故だった。
駐車場で停り、車からおりる。
足取りは重かった。皆、俺の事を忘れてはいないだろうか。療養中、ファンが大勢離れてはいないか。無用な心配に胸が苛まれた。
傷を覆うガーゼを、服の布越しに触れる。もしあの事件が起こっていなかったら、今頃自分はどうなっていただろうと無益な思案をめぐらせた。
もしかしたら、新曲『ネオンを編む』の円盤化に意欲を示さなかったかもしれない。中川朱美さんの思いを知ることが出来なかったかもしれない。
逆に、楽曲『ヴァルハラ』の売上は好調だったかもしれない。映画やドラマの出演依頼が来ていたかもしれない。
療養していて良かったと思う反面、空白の1ヶ月半で逃した機会の多さに、結果オーライと言えない歯がゆさを感じざるを得なかった。
思案し、項垂れながらテレビ局内に入ると、見知った顔が肩を叩いた。
「ヨッす」
「きみえちゃん...」
長い髪を後ろで結った水谷きみえがそこにいた。
こうして会うのは療養前のランキング・テン以来だった。久しぶりに見た彼女の容姿は、随分と見違えていた。
以前にも増して更に垢抜けた雰囲気だった。
「驚いたよ、裕二くんの名前が台本に載ってるのを見た時」
「そっか...退院会見も復帰会見もやってないから、そっちから見れば突然復帰したように見えるんだ」
「うん」
普通、アイドルが入院した後、退院 復帰ともなれば記者会見などの
一応やんわりと復帰の目処について発表していたものの、同業者である水谷きみえに知られていないのを見るに、W&Pの方針が沈黙を貫いたと同等であると察した。
「それより、お腹、大丈夫だった...?私テレビ見てて不安で不安で」
「刺された時は、意識がほとんどなかったからよく覚えてないけど...今はもう大丈夫」
「本当?よかった...厳島くんが今回の事件で引退なんてことになったら、みんな悲しむし、新曲も聞けなくなっちゃうからね」
「ご心配おかけしてほんとうに申し訳ない」
「厳島くんが謝ることは無いんだよ、悪いのは犯人なんだから」
「まぁ...言われてみればそうだけど」
俺の事を刺した犯人は現在、都内の拘置所で拘留されている。そのうち裁判が開かれ、証人として立ち会う可能性があることを宇治正さんから聞かされていた。
「まぁ、復帰もできたことだし。ひとまず安心だね」
「まぁね...」
「じゃあ、私はリハがあるからこのへんで、バイバイ」
「うん、じゃあ」
水谷さんの背を見送りながら、我々は楽屋へと向かった。
ドアを開け漂ってくる畳の匂いが少しだけやる気を奮い立たせた。今日はなんと言っても、新曲『ネオンを編む』を初出しする日だ。いつも以上に高度なギターテクニックを要するこの曲を、ミスなく弾く事は容易ではない。
今日に至るまで数え切れないほど練習をしてきた、その証拠に、左手の指先には軽くテーピングがしてある。比喩でなく血が滲む努力を重ねてきたと自負している。
楽屋のドアがノックされる。
「失礼します、厳島さんリハーサルです」
「はい」
スタッフに呼ばれ立ち上がる。
「厳島くん」
「はい」
「無理しない程度に本気出しな」
「分かってます」
宇治正さんからかけられたその言葉が優しさであることを感じつつ、俺は楽屋を出た。
「リハ、行ってきます」
────────────────────
仕事に疲れた体に鞭を打ち、私は河田町に向かった。近々、全国ツアーを控えているためか、衣装の仮縫いやプログラムの打ち合わせ等、テレビや雑誌以外の仕事が増えてきた。
メディア出演の間を縫って行われるコンサートの準備に早速へたりそうだ。マネージャーの碁石さんも、目の下に隈を作って仕事をしている。弱音は吐けない。
車に揺られている間も、なるべく疲労を回復しようと最近は専ら寝ることが多くなった。シートベルトに頬を載せ、寄りかかって目を閉じる。
体幹数分もしないうちに現場に着くことがザラだけど、それでも寝ないよりはマシだ。
「着いたよ」
「んっ...はい」
欠伸を噛み殺しながら、瞳からこぼれる涙を拭う。車のドアを開け、駐車場のコンクリートにハイヒールを鳴らしながら、私は局内に入った。
「はぁ...」
「ため息、幸せ逃げるよ」
最近ため息を着くことが多くなった、疲労のせいというのが一番大きいが、根底は1ヶ月半前の事件に起因する。
あれ以来、どこか仕事に対して意欲を失ってしまったことを自覚している。
厳島くんが刺された事件は、業界全体にとってかなりのショックだった。まだ才能ある若き人材が、もう少しで死ぬところだった凶悪な事件だ。事件の翌日、どの仕事現場に行ってもその話題で持ち切りだったのは記憶に新しい。
事件が起きてから数日は、お通夜のような雰囲気だった。もちろん私も例外ではなかった。彼がレッツオーユースに来られなかった日の夜は、布団に籠ってシーツがびしょ濡れになるほど泣き続けた、今でも泣きそうだ。
自分の大切な人が傷つけられた時、人間はこれほどまでに涙を流せるのかと、少し驚いた。
そう、私は厳島裕二くんが好きだった。
今まで生きてきて初めて、会うだけで心臓が張り裂けそうになる人に出会えた。
好きな男性アイドルがいた事はあるけど、それとは違った感情。人として、本能的に好きになった。
「すいません、中川さん」
「.........あ、はい」
彼のことを思案していた頭が、スタッフの呼び声で急激に現実に戻された。傍を歩いていた碁石さんが止まる。
「どうしました」
「あの、すいません...実はリハの次の人が仕事を押して来るの遅れそうでして...急遽予定をスライドして中川さんが次のリハになったので、このままスタジオに直行して貰えますか」
「えぇ、いいですよ...な?」
「はい、全然大丈夫ですよ」
スタッフの要望を了承した私は、到着するなりそのままスタジオに直行した。長い廊下を忙しなく動く人混みを掻い潜りながら、着実に歩みを進めた。
ふと、微かに聞き覚えのある声が聞こえた。スタジオに近づくにつれてその声は大きくなる、ある程度近づいたところで私は驚愕のあまり思わず
「えっ...」
という声を漏らした。
スピードを上げ、スタジオに向かう。早歩きと言うよりも、もはや疾走に近かった。
碁石さんも突然走り出した私に、驚いた様子で何とか着いてきていた。
スタジオのドアをゆっくり明け、薄暗がりの中スポットライトが当たった場所を眺めた。
「あれ...前が見えなくなってきた...」
瞳からこぼれる涙を拭った、だけど完全に号泣している私にとってその行為はまさに暖簾に腕押しだった。
「裕二.....くん.....」
崩れるようにその場で膝をつき、顔を覆った。滝のように流れる涙を手で多いながら私は笑った。こんなに嬉しい気持ちになったことは今までで初めてだ。
彼は私に気づくと、こちらに向かってニコリと笑いかけた。
やっぱり格好良い。
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