平凡編
第65話
アルバム『クリエイション・セレナーデ』に収録された楽曲全ての演奏が終わり、コンサートは幕を閉じた。人生初のコンサートが終わったあとは、疲れと達成感にドッと襲われ、形容しがたい心情になった。ステージから見える観客の高揚とした雰囲気は少し独特で、これだけの人間が自分の演奏をはるばる聞きに来たと思うと少し感慨深い部分がある。
デビューから半年、様々な苦節はあったもののコンサートは無事成功に終わった。
...。
65
午後から降り始めた雨は、アスファルトに強く叩きつけられ飛沫をあげていた。
春先、新芽を出し始めた木々の葉先に水滴が伝う。
地面は赤く染められた。
腹部に感じる痛みは声を荒らげるほどでもなかった。ただ染み出る自身の血のせいか、意識を保っていられるのも僅かだった。
瞼が重くなる、俺に向かって叫ぶ草薙と周りの騒音が耳鳴りとなって脳内の思考を埋めつくした。─────────────
「...えっ?」
レッツオーユース収録前、スタジオに速報が通達された。
「厳島 裕二さんが来られなくなってしまったとの事で、急遽予定を変更して放送します、尺に関しては他のコーナーで埋め合わせますのでよろしくお願いします」
「あの...どうしたんですか。厳島くん...遅刻、ですか」
「.....。」
「...」
「今のところ、詳しい情報は入っていませんが...本日行われたコンサート後に、何者かに襲撃され...現在都内の病院に搬送されたと」
「...うそ、ですよね」
「いえ...」
共演者らは皆一様に
スタジオ内の衝撃は大きかった。
特に、彼と親交もある中川朱美や水谷きみえ、黒部雅隆は本番前なのにも関わらず、失意する他なかった。
「...大丈夫かな.....」
「大丈夫だよきっと、だから元気だして朱美ちゃん」
「...うん」
控えの楽屋にて、中川朱美と水谷きみえはひたすら厳島裕二の安否を祈っていた。そこへ、黒部雅隆は駆けるようにやってきた。
「いま、マネージャー通して番組のプロデューサーに聞いてきたけど」
「何…?」
「.....覚悟して聞いてくれよ」
「うん...」
「厳島裕二...ゆうくん、ナイフで...」
「...」
「腹の部分を刺されたって.....」
「...」
「...」
「...」
───────────────
「聞こえますか、厳島さん聞こえますか...出血が多量、止血用のガーゼ、ドレッシング材、それと輸血パック早急に用意して貰えるように連絡して」
「はい」
「厳島さん、大丈夫ですか、聞こえますか。今から圧迫を行います、苦しいと思いますが我慢してください」
担架に横たわりながら、意識を朦朧とさせている厳島の腹部にガーゼが当てられた。車内には、けたたましいサイレンの音が鳴り響き、最寄りの病院に向けて最短距離を走行していた。
共に乗車した草薙は、意識を失いつつある厳島を静観する他なかった。
厳島を刺した犯人を拘束した宇治正は、警察の事情聴取を受けるため現場に残った。
草薙は死の淵に彷徨いつつある友人を前にして顔を青ざめた。場違いにも、もしも本当に死んでしまったらどうするという恐怖が、安否よりも先に湧いていた。
いつもならば、きっと大丈夫だろうと楽観的に判断する草薙ではあるものの、今回ばかりは安堵することが出来なかった。
「た、助かるんですよね」
「えぇ、絶対に助かりますよ」
「...」
病院に到着したあと、厳島はすぐさま救急処置室へと運ばれた。厳島がその後、草薙や宇治正と対面するのは数日後のことであった。
目を覚ますとそこは知らない天井だった。まるで、川端康成の雪国の冒頭が如く、俺は瞬間的に情景をそう察した。どれほど寝ていたのだろうか。
病床の上で首だけ動かして周りを見回す。個室であった。
カーテン越しに窓の外がうっすらと明るくなってきているのを感じる。きっと相当な早朝であろう。
こんな時間帯に目覚めるのも、いつもの癖なのかもしれない。
「っ...」
腹部に痛みを感じる。のでゆっくりと袖から中を除くと、脇腹辺りに白いガーゼのようなものが貼られていた。そこでようやく思い出す。
「あ...刺されたんだった」
自分が刺されたことを思い出し、若干身震いする。よくドラマや映画で人が刺されるシーンを目にしたことはあるが、当事者になってみると恐怖は計り知れない。
「先端恐怖症とかになってなければいいけど...」
誰もいない病室で独り言をほざく。
「どうしよ...ナースコール...いや迷惑かな」
ここで渋っても仕方がないと、すぐさまボタンを押した。しばらくして、やってきたのは壮年の看護婦さんだった。
「あら、おはようございます」
「お、おはようございます...」
「良かったですね、目覚められて」
「あの、どれぐらい寝てたんですか」
「そうですね、私の把握しているところでは1日と聞いておりますよ」
「...意外と普通だった」
「まぁ、麻酔も打ちましたし...ちょっとした倦怠感で長く眠っていたと思われる方も多いですからね」
「は、はぁ...」
「どうしますか、もうお目覚めになられますか?起床時間まで30分程度ありますけれど」
「
「左様ですか、ならカーテン開けますね」
「はい」
看護婦さんはカーテンを開けた後、一礼をしてそそくさと立ち去っていった。
「眩しッ...」
早朝の病室、窓から差し込む日の出に目を細めたのは、数十分後のことであった。
1983年3月16日 12時36分 東京厚生年金会館裏の関係者出入口付近において、厳島裕二が刺傷、腹部に刺された刃渡り10センチのナイフを所持していたのは、ファンのうちの一人であった。
当時、共に居たマネージャーとスタッフが犯人を取り押さえ警察に通報した。
厳島は救急搬送され一命は取り留めたものの、約1ヶ月半の活動期間の自粛をせざるを得なかった。
犯人の犯行動機は「厳島裕二を殺したら有名になれると思ったから」という自己中心的なもので、ある意味悪い方向で有名になったのは皮肉とも言えるだろう。厳島裕二というメジャーな男性アイドルの襲撃事件は、その日の午後から連日ワイドショー番組やニュース番組で取り上げられた。
特に厳島のファンには若年層の男女が多かったせいか、一部過激な若者が犯人に対する報復宣言を発出したりと事件後の混乱は大きかった。警察側も、犯人の顔写真を報道させない等の処置を取ってはいたものの、犯人の拘留された拘置所前には多くの不良が詰めかけてきたという。
後に厳島が復帰することにより事態は沈静化したものの、事件の影響を受け、著名人が出入りするようなテレビ局及びライブ会場等の警備が厳重化された他、各メディアに対して著名人の個人情報を保護する働きが普及したきっかけにもなった。
これが事件及び事件後の端的なあらましである。
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