第60話
「はい、ありがと」
「あ、ありがとう...ございます」
色紙にマジックでサインを書く。サインなんて大層なものじゃなく、単に『厳島裕二』と名前を書いただけなのだが、彼女は大いに喜んでくれた。
彼女の名は
宇治正さんにスカウトされたついでに楽屋に来た彼女は、俺を見るなり緊張した様子で握手を求めてきた。礼儀正しく、深々と頭を下げながらお礼を言うその姿に行儀の良い子だなという印象を抱いた。
これだけしっかりしていれば、彼女より年齢が上の、いわゆる大人が多く関わる芸能界でもそう不自由することは無いだろう。
芸能人が表に出なくなる、いわゆる干される原因の大半は、その人物の態度にある。無礼であったり、常識に欠いていたり、そういった人間が真っ先にメディアから露出を減らしていく。
彼女はそういった人間とは正反対の真人間であると強く感じた。
そうは思ってはいたものの、まさか彼女が後に人気アイドルとして花を咲かせることになるとは、恐らくスカウトした宇治正さん本人以外、確信していなかったのではなかろうか。
60
空港に来るのもこれで2回目だ。
前回はアメリカ、今回はイギリスとフランスに向かう。ヨーロッパだ。
イギリスにはアルバムの中に収録される一曲、フランスには新曲『ヴァルハラ』のジャケット写真を撮りに行く予定だ。
前回のアメリカ旅は単にグラミー賞に招待されただけだったので、大した人数は必要としなかったが、今回は撮影スタッフや雑誌の記者、CMの撮影隊などが加わりかなりの大所帯となっている。
もちろん事前に準備も済ませ、ホテルの予約や現地での予定に抜かりはない。予定時間に遵守し、ハプニングのない充実したヨーロッパの旅にするのが目標だ。
「忘れ物は無いね」
「はい」
「では一行、出発しましょう」
『おうっ』
宇治正さんの掛け声により、その場にいる俺以外の全員が拳を突き出す。さながら修学旅行のようだ。
手荷物検査や出国チェックを済ませた我々は、しばし待った後、搭乗口を渡って飛行機へと乗り込んだ。今回はかなりの大所帯、いわゆる団体客として後部座席の一角を予約してある。
俺と宇治正さんは並ぶように最後尾の座席に腰をかけた。
「そう言えば、及川さんってスカウト成功したんですか」
「ん?あぁ、雪子ちゃんね。彼女はスター降臨の決勝を受けてから正式にウチに所属する予定」
「わざわざ決勝なんていかなくても...」
「まぁ、自分の実力がどこまで通づるか試してみたかったんじゃないの。多分あの様子だと優勝は確実だろうけど」
「もしかして、俺みたいに優勝賞品が目的とか」
「有り得るかも、そういば厳島くんが優勝した後に賞品変わったんだよ」
「へぇ...どんなのに」
「たしか、新しくスポンサーになった電機メーカーのステレオになったらしい」
「ステレオか...今思うと世界一周旅行よりそっちの方が断然いいですね」
「分かるかも...結局デビューしたら世界一周旅行なんて呑気なことも言ってられないし、物としてもらった方がずっと思い出深いと思うし」
「...あぁ、もう一回スター降臨受けよっかな」
「ダメだよ、プロが出ちゃ。他に出場する子が可哀想でしょうが」
少し懐かしい思い出話に花を咲かせつつ、空の旅を満喫した我々はついに最初の目的地イギリスに到着した。
ロンドン・ヒースロー空港。
歴史の古い空港で、ロンドン市街地からもほど近く、地下鉄も通っていることから交通の便も良い。入国チェックを済ませた我々は、手配しておいた車に乗り込み本日泊まるホテルへと向かった。
「凄い...Theイギリス感」
「そりゃイギリスだからね」
「こうしてみると同じ英語を話すのにアメリカとは結構違いますね」
「まぁ、古き良き部分も多く残ってるからねイギリスは」
車窓から見渡せる景色は日本とは全く違うイギリスの風景だった。空港周辺の小さな街を通り過ぎ、田畑の広がるのどかな道を進むとやがて都市部へと車は進んだ。ここがロンドンの市街地だ。
空港から案外遠かったことは否めないが、かなりのスピードで移動したためそこまで時間はかからなかった。市街地を進み、たどり着いたのは...
「セントパンクラッサルネサンスホテル?」
「セントパンクラス・ルネッサンス・ホテル・ロンドンね」
「長...」
「歴史あるホテルだからかな」
「『帝国ホテル』ぐらい短くして欲しいもんですけど」
「確かに、『ホテル・ロンドン』の方が覚えやすいしいいと思う」
「それだと『ホテルカルフォルニア』感が否めないです」
「出た、バンド ホークスの名盤」
他愛もない無駄話が入ってしまったが、上記にあげた通り、我々はセントパンクラス・ルネッサンス・ホテル・ロンドンにたどり着いた。
1873年に作られたこのホテルは、外観から当時の面影を感じさせる由緒あるホテルだ。ちなみに宿泊代もちゃんと高い。
以前泊まったプラザホテルにも負けない、豪華さを誇る高級ホテルである。レンガ造りの外観に見とれつつも車はとまりロビーへと向かう。
「へぇ、駅と一体化してるんですね」
「そう、だから駅を利用する人にとっては都合が凄くいいわけ、まぁお金持ってる人限定だろうけど」
「我々って駅利用します?」
「しないね、だからすごく意味が無い」
「はぁ...」
ロンドンの鉄道に乗れるかもという楽しみは消え去った。チェックインを済ませ、部屋に向かう。
外観やロビーなどは昔ながらの古めかしさを残しているものの、客室は案外、真新しい物に改められていた。そりゃ水洗便所もまともに無い又は普及していない時代のホテルだ、何度か改装はしているのだろう。
荷物を部屋に置き、ロビーへ向かう。
実の所、これからCMの撮影がある。何も今回のイギリス・フランス遠征は、同行する雑誌やCMの企業などが出資して実現した旅で、そのおかげかヨーロッパの旅全日、名のあるレストランでの食事や高級ホテルに泊まることができるのだ。
ただその分、出資してくれた企業らには仕事で返さなければならない。なので、満足に観光もできないと思う。こんちくしょう。
滞在予定は両国合わせて5日間、レコーディングやCM撮影、雑誌撮影などを含めると余裕は全くない。親に何かお土産を買ってくると言って家を出たが、この調子じゃ満足にスノードームすら買えないだろう。
愚痴を垂れる暇もなく向かった先はバッキンガム宮殿だった。
撮影の許可は企業側が取り付けてあるので、衛兵に不審者集団と思われることも無く複数台のカメラが置かれていく。
観光客や現地のイギリス人に何事だと視線を向けられる。海外じゃまだ無名のジャパニーズガイが多くのカメラを向けられている光景が奇妙に写ったのだろう。
その後、場所を変えては同じような視線を向けられること2時間、ついにCM撮影が終わりを迎えた。
聞くに江永製菓のシンフォニアというクッキーのCMらしいが、単にロンドンの観光名所を俺が歩くだけ映像がクッキーとどう結びつくのかは全く分からない。
この後、フランスに行った際もチョコレートのCMを撮影するらしいが、恐らくまた観光名所を回るだけだと思う。せめて商品を片手に観光名所を巡る映像を撮ればいいと思うのだが、制作は完全に企業側に委ねているので、とやかく言うことでもないだろう。
ちなみに、雑誌の撮影に関しては、CM撮影の傍らにシャッターを切っていただけなのですぐ終わった。もっと頑張れ雑誌勢。
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