第57話
『おはようございます。朝のNNNニュース、鈴木 正信です。バレンタインデーの本日、全国各地の百貨店では通常の1.5倍程度、チョコレートの売れ行きが向上しており、市場価値は数十億円にも昇るとのことです。一方、東日本全域に積雪の予報がみられ、車のスリップ事故などが懸念されています。』
早朝、コタツに足を突っ込みながらテレビを見ていた俺は、ふとカーテンをめくった。厚い雲に覆われた空は、ニュースの通り、いかにも雪が降りそうなどんよりとした曇天だった。
「雪はお昼頃から降るってさ」
すっぴんの母が朝食のトーストをテーブルの上に置くと欠伸をしながら言った。
「うん、ニュースでも言ってた。ちょうど今外確認したところ」
「そう、宇治正さんにもタイヤにチェーン巻くように言っときなよ」
「大丈夫だって、そういう所...抜かりないから」
「そっか...そういえば今日バレンタインかぁ...あんた誰かに貰う予定あるの?こういう仕事してるんだから、仲のいい女の子くらいいるでしょ?」
「ないない、みんな仕事で忙しいから買いに行く暇もないだろうし」
「そう...ていうかアンタ、ちょっと鈍感なところあるから。そういう女子からの好意にいちいち気づいてあげなさいよ」
「お生憎、仕事が忙しくて恋愛する時間なんてございません」
「そう、なんなら母さんが恋愛術でも伝授してあげようかぁ?これでも学生時代はモテてたんだよ」
「結構でございます」
母が学生時代に尋常じゃないほどモテていたという話は何度か聞いたことがあった。なにも当時は秋田一の美人高校生として有名だったらしく、わざわざ遠くから母見たさに電車に乗ってやってくる学生もチラホラ居たのだという。
隣の高校で一番ハンサムな生徒に告白されたとか、密かに母のファンクラブができていたりとか、母がアルバイトに入った地元のラーメン屋が例年の2倍程利益を上げただとか、噂を聞き付けた映画関係者が母をスカウトしに来ただとか、挙げればキリがないほど伝説を作り上げている。
実際、今もすっぴん姿ではあるが客観的に見て美人だと謳われていた理由はそこはかとなく分かった。一体、父はどんな手でこのような高嶺の花を落としたのか謎が浮かぶばかりである。
俺はトーストにかぶりつきながら、1983年も2ヶ月経った事に何となく感慨深くなった。
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「いやはや、厳島くん...大変なことになったよ」
「はい?」
仕事に向かうため、マンションの前で宇治正さんの車を待っていた俺は到着した瞬間、開口一番にただならぬ様相で話を切り出した宇治正さんに思わず眉をしかめた。
「大変なことって...なんですか」
正直言って聞くのが怖かったが、知らないよりかはマシなので恐る恐る尋ねた。
宇治正さんは息を切らしながら言った。
「いやぁ...事務所がね、もう箱だらけ...チョコレートがどんどん運び込まれてきてね。こっちは受け取りの印鑑を何回押したことか」
「チョコレート?もしかしてバレンタインだからですか」
「当たり前でしょ...君アイドルだよ。この時期になるとどの事務所もチョコレートが届けられて大変な目に遭うんだけど、あぁ...すっかりバレンタインのこと忘れてたからさ...はぁ...赤坂の事務所ホントに大変なことになってるよ、もう。」
「どんぐらいあるんですか?」
「軽く事務所の半分は占領してるくらい」
「えぇ...」
チョコレートが半ば、部屋を占領しているなんて聞いたことがない。かつて一度もチョコレートを貰ったことがない俺からしてみれば、とても信じられず、まるで誰かの武勇伝を聞いているような気にさえなった。
「チョコ、どうするんですか」
「ちゃんと包装してある市販品以外は全廃棄だよ」
「えぇ...もったいな」
「仕方ないよ、毒でも入れられてたら大変だし。さぁ、乗って。仕事に行くよ」
「はい」
後部座席に乗り込み仕事現場へと向かう、一度事務所に寄って貰えないか、そう切り出す勇気もなく、俺が事務所に届いたという大量のチョコレートを目にすることはなかった。
名残惜しくも、しばし車に揺られ向かった先は新宿にある音楽スタジオだった。W&Pが保有するこのスタジオは、かつて所属していたアイドル『ホワイトバルーン』の人気にあやかって建てられたもので、現在でも現役で稼働している。
この場所に訪れた理由は2つある。1つは3月に発売予定の新曲の録音のため、そしてもう1つはその新曲と同時に発売するアルバムの製作指揮を行うためだ。
新曲の方はまだ納得出来る。同期の他のアイドルも3、4ヶ月に1度のペースで次々と新曲を発表しているし、このまま呑気にデビュー曲の『東京ロープウェイ』と『SNOW XMAS』でテレビに出られるとは思っていない。実際、最近週間チャートの順位がどんどん右肩下がりになりつつある。この業界は、次々と曲を更新していかないと人気の低迷にも繋がる、作曲者側からしてみればなかなかにシビアな業界で、現在も常日頃、空いた時間を見つけてはノートに曲を書き上げていくという生活を送っている。
ただ。
アルバム...テメェには納得していない。
新曲と同時にアルバムを発表するなんてイカれている。ただでさえ新曲発表の時はドタバタするのに、それに追従するようにアルバム作成が課されるのだから泣きっ面に蜂はまさにこの事、収録曲は今までに発表した2曲と3月に発表する新曲を予定しているが、その他にもアルバムのために8曲程度書き下ろさねばならないのだ。
お分かり頂けただろうか、如何にアルバム作成たるものがイカレているかを。
なにもアルバムを発表する理由としては、曲のレパートリーを一気に増やす必要があるからとの事で、3月以降に予定しているコンサートのためだという。既にコンサートの会場は手配済みで、アルバム作成を中止することは絶対にできないと宇治正さんが言っていた。
幸い、新曲とアルバム作成のため最近テレビや雑誌の仕事を一定期間減らしてはくれているものの、それでも激務なのには変わりなく、胃に穴が開きそうだ。
「ちなみにコンサート会場ってどこですか」
「東京厚生年金会館」
「キャパシティは?」
「2000は超えてる。大体スター降臨決戦会場の後楽園ホールと同じくらいと思ってくれてOK」
「...んでそんな大ホール取ったんですか。」
「単純に厳島くんなら席を埋められるから。」
ため息が漏れそうだ。2000人の前で小一時間歌いことが想像もできない。
ただ、コンサートの情報を聞いただけでも息が切れそうな俺にとどめを刺すように宇治正さんは言った。
「ちなみに、新曲発表イベントとして別の場所でも軽く30分程度リサイタルを行ってもらう予定だから」
「リサイタル?どこでですか」
「清里、特設野外ステージ。」
「清里高原ですか」
「そう、かの高原の原宿だよ」
清里高原は近年、活発的な人気を見せている観光スポットで、特に若者を中心に人気を集めていることから『高原の原宿』とも言われており、連日多くの観光客で賑わっている。若者人気に伴い、清里の駅周辺にはこれでもかとメルヘンチックな店が軒を連ねている。正直いって俺からしてみれば、そんな山奥にある場所に行くのなら原宿に行けば良いのにと思うのだが、口には出さないようにしている。
そんな高原の原宿でリサイタルを行うと聞いた俺は思わず眉をひそめた。理由は簡単。原宿等の若者が集まる街にあまりいい思い出がないからだ。
以前仕事で原宿に行った際、そりゃもう大変なことになったのは記憶に新しい。厳島 裕二だと気づかれてしまえば一瞬、辺りを同年代か少し上の年齢の若者に埋め尽くされ身動きすら取れなくなる。餌につられた鯉のごとく、人だかりが形成されるのはもう御免である。
そんな不安を口に漏らしていると宇治正さんがすかさず指摘した。
「警備は万全、厳島くんの警護もしっかり行う予定だからそういった心配は無用だよ。最近は厳島くんも知名度が跳ね上がって、今や誰もが知る存在になったからね、ファンの中には危険なやつがいる可能性もちゃんとこっちは視野に入れてるのさ」
「原宿での一件があるから...信用ならん」
「そんな露骨に嫌そうな顔しないで...」
「はぁ...なんかコンサートとかリサイタルの話聞いてたらドッと疲れてきましたよ...ちょっと廊下出て外の空気吸ってきます」
「うん、それがいいよ...いずれにせよリサイタルはもう決まったことだから。心構えだけはしといてくれよ厳島くん」
「言われなくとも」
こちとら嫌なことに駄々をこねるような年齢じゃない。
俺はそう言い返した後、廊下へと出てしばし呼吸を整えた。これから新曲の録音だ、そのためにもある程度落ち着いた状態で挑まなければと思っている。
コンディションを整えながら廊下の窓から見える空を扇いでいると、ふと声をかけられた。
「厳島...裕二さんですよね」
「あ、はい...」
「自分、藤本っていいます」
「藤本さん.....ん?あれ、どこかでお会いしましたっけ」
藤本という男性は、どこかで既視感のある顔をしていた。一度どこかで見たことある、そう思案しているうちに彼は「応援してます」と言いながら会釈をして立ち去って言った。
「厳島くん、そろそろブースに」
「...はい」
藤本と名乗る男性の背を眺める。ふと宇治正さんがまるでヒントを与えるかのごとく彼の素性を囁いた。
「あぁ、藤本くんね。彼は今業界で期待の新人でね。今年の3月にデビューする予定」
「へぇ...同業者だったんですね。てっきりここのスタジオのスタッフかと」
「スタッフか...言われてみれば分かるな。ちょっと地味な感じもあるし...ただ侮るなかれ、彼の所属する事務所もデビューに向けて着々と準備を進めているし、一部のコアなファンの間では既に注目の的になってる」
「彼、アイドルなんですか」
「いいや、アイドルっていうよりバンドとしてデビューする予定だからどちらかと言えば...ミュージシャンかな...」
「バンド」
「そう、それも計8名という大所帯...確かバンド名は...『マーブルズ』」
「マーブルズ」
この時、俺は彼ら『マーブルズ』が82年組又はそれ以前のアイドルの人気を脅かすほどに、急激に知名度を上げるとは思ってもいなかった。
そして、藤本という男性と一度だけ、本当に面識があったこともその時ばかりは気づかなかった。
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